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榊原研究室  作者: 青砥緑
第三章 秋(前篇)
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事件発生 江藤克也-2

 細野は克也をじっと見つめて口を開いた。

「まずは君のお父さんについてだ。江藤友助氏のこと、覚えているかな。」

「覚えていません。」

 実際、克也は4歳で死に別れたという父のことを一かけらも覚えていない。

「ふむ。誰か、たとえばお祖父さんや、山城さんから聞いたことは?」

「名前以外は知りません。」

「本当に、君は何も知らないんだね。」

「貴方は何を知っているんですか。」

 克也は問い返した。男はちょっと黙った。

「そうだね。」

 そういって軽く咳払いをした。

「私はね、君のお父さんとお母さんと同じ会社で働いていた。二人とも研究者だった。それもとても優秀な。二人と私は遺伝子学の研究をしていた仲間だったんだ。二人は結婚して、君が生まれた。残念なことに君が生まれてすぐに、君のお母さん、江藤緑さんは亡くなってしまった。それからすぐに、お父さんも会社を辞めてしまった。一気に優秀な研究者を次々と失って職場はだいぶ混乱した。私もその時期大変に忙しくなって、君のお父さんの消息を見失ってしまった。」


 細野は滔々と話し続ける。

「職場が、やっと立ち直ってきたら君のお父さんの研究成果が一部消えてしまっていることが分かった。でも会社を辞めた後のお父さんとは、連絡がつかない。君のお父さんはね、優秀だったからその成果を失うのは本当に会社としても大きな損失だった。研究自体は会社の費用で行っていたのだし、普通だったら情報の持ち出しは契約違反で訴えるところだよ。しかし、君のお父さんがね、緑さんが亡くなったことに非常に動転していたことは皆分かっていたから見逃してあげることになった。」

 そこまで聞いても克也は自分がこの場にいることと、両親の関係が全く理解できなかった。

「私はね、君のお父さんが会社を辞めてから、というか君を連れてどこかに行ってしまってからね、ずっとその身を案じていたよ。本当に連絡はつかないし乳飲み子を抱えてどうしているのかと。結局消息が分かったのは5年も経ってからだ。皮肉なことに亡くなったという情報で初めて君のお父さんを発見できた。お父さんがどうして亡くなったかは聞いている?」

 克也は首を横に振った。細野は今度こそ心底驚いたようだ。

「誰かに訊いたことはないの?」

「ないです。」

 死因を知っても克也には得るものはない。死んでしまったものは死んでしまったという事実だけで十分だ。細野は平然としている克也をまじまじ見つめた。

「そう。」

 しばらく考え込んでいたようだが、説明を再開した。

「君のお父さんは交通事故で亡くなったんだよ。それがなくても健康状態はよくなかったようだけど、山道で運転を誤って車ごと道路の外側に飛び出してしまったんだ。幸運だったのは君が同乗してなかったことだ。友助、君のお父さんが亡くなったのに君が見つからないから、私はまた君のことを心配した。もし二人暮らししていたら、5歳にならない君はひとりぼっちだ。ところが君がまた見つからなくてね。高校生で科学コンクールで賞をとっただろう?あのニュースを見るまで私は君がどこでどうしているのか分からなかったんだよ。ニュースをみて、やっと見つけたと思って会いたいと思ったけれど、その頃私はアメリカにいてすぐには帰って来られらなった。帰国した時に君に会おうとしても、今の保護者の山城さんだね、山城さんが会ってくれるなというのでこんなに長い時間がかかってしまった。」

 男はそういうと一歩だけ克也の方へ近づいた。

「ただ、昔の同僚の忘れ形見に会って、お父さんとお母さんの話をしたかっただけなのにね。」

 そう言って男は笑顔を浮かべたが、克也にはその目が笑っていないことを見抜いた。この半年、心からの笑顔に囲まれていた。それに比べると、この笑顔は本物じゃないと思えた。ただ黙ってじっと見つめ返すと、細野はゆっくりと真顔に戻っていった。


「私の知っていることはそれくらいだよ。満足かな。」

 克也は首をかしげる。

「満足でも不満足でもないです。僕が何を知らないと言われているのか分からなかっただけなので。今、説明していただいたようなことを指して何も知らないと言われたのだったら、確かに知りませんでした。なので、先ほどの質問についての答えは『はい』です。」

 克也が淡々と答えると男はまた黙り込んでしまった。男は黙り込むことが多い。最近こういう反応を受けていなかったが、榊原研究室に入る以前は誰と話していても、こうして黙られてしまうことが多かった。


「そうか。あくまで君は両親については何も知らないというわけだね。君のおじいさんのことはどうかな。覚えている?」

「覚えています。」

 そう答えると男は目を輝かせた。

「では、おじいさんの話を聞かせてくれないか。なんでもいい。覚えていることを。」

 克也はまた首をかしげる。この男の言っていることはおかしい。

「なぜですか。おじいさんは何か関係がありますか。」

 克也には話の流れがわからない。男はまた少し黙って考える。

「思い出すため、かな。君のお父さんやお母さんのことを。私は、君のご両親の過去に何か不幸なことがあったのではないかと思っているんだ。それを解き明かす手掛かりが欲しい。おじいさんのことを話していればお父さんのことやお母さんのことを思い出すかも知れないだろう?」

 克也はますますわからなくなった。

「なぜですか。」

「家族だからさ。家族同士の話があっただろう。おじいさんがお父さんの子供の頃の話をしたり、君がおじいさんにお父さんのことを聞こうとしたかもしれない。記憶というのは近くにある似たような記憶が呼び起こされると刺激をうけて眠っていたものが起きてくることがあるだろう。そのためだよ。」

「おじいさんとお父さんやお母さんの話をしたのは二人の名前を教わった時だけです。それ以外には話していません。」

 克也は断言した。この男に聞かれる前にだって何度も思い出そうとしたことだ。しかし記憶はない。克也にとっては明白な事実だった。

「君はなかなか頑固だね。父親譲りだ。」

 男はそういうと、踵をかえして扉に向かった。片足を引きずっている。扉に向かって真っすぐ歩いて扉の前でまたくるりと振り返る。

「これでは話は平行線だ。私の知りたいことを君は知らないという。でも知らないはずはないんだ。君が4歳半まで一緒に過ごした父親のことなのだから。嘘は止めてもらいたい。君の記憶力なら覚えていないなんてことはありえない。私も君を余り長くここに拘束しておきたくはないのだよ。簡単な質問に答えてくれればいいんだ。」

「質問はなんですか。僕は聞かれたことには答えているつもりですが。」

 克也が問いかけると、男の血管が浮き上がるのが見えた。以前、最上が怒ったときにこうなっていたと克也は思い出す。怒っているのか。

「察しが悪いな。君の父親がいなくなったときに消えた仕事の成果のことに決まっている。君は父親とその話をしたのではないか。」

 克也は即答した。

「知りません。」

 そして、一拍置いて男に質問した。


「答えたから、帰っていいですか?」


 男は変な顔をした。

 どういう表情を作ろうとしたのか読みとれない。男は変な顔をしたまま出て行った。また扉に鍵がかかり、廊下は静かになった。


 克也は言われたことに素直に答えたのに帰してもらえなかったので、男は嘘つきだと腹立たしく思った。

 父親が研究所で働いていたことも、そこからデータが消えたということも、交通事故で死んだことも全て初めて聞く話だった。しかし克也にとって父親と言うのは縁もゆかりもない他人とそう変わらない。彼が何をしてどう死んだかということは、教科書で歴史上の人物について学ぶのと変わりなかった。気になるのは4歳の自分の記憶がないことの方だ。人の記憶というのはある時点から急に溜まり始めるものではないらしい。だとしたら、なぜ記憶がないのか。理由がわからなかった。

 今ある情報から分からないことを考えても仕方がない。座り心地の悪い椅子からベッドに移動して腰かけなおして、腕時計をみるともう夜中の12時を回っている。眠くならないのは普段と違う状況に興奮しているからだろうか。家族は心配しているだろう。しかし携帯電話はリュックの中に入ったまま車に置いてきてしまった。連絡のとりようがない。


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