事件発生 吉野-2
徐々に周りを走る車が減り、道幅の狭い対面交通の道路に入る。克也がはっとしたように振り返った。
「ついてきてた車が追い付いてきた。」
やっぱり、と思いスピードをぐっと上げながら、同時に吉野は克也も尾行に気づいていたのかと驚いた。吉野でさえ途中まで半信半疑だったほど巧妙な尾行だった。後ろからくる車はもう尾行を隠そうとはしていない。猛然とスピードを上げて迫ってくる。何とか追突されずに角を曲がった。この道を抜ければ人通りの多い大通りにぶつかる。そこまで来れば警察の前で車を止めてしまうこともできると吉野は最後の直線を一気に吹かした。
ものの2秒。吉野は逃げ切れたと思った。しかし3秒目で一方通行のはずの道に反対側からワゴンが侵入してきた。これは不運ではない。計画だ。角を曲がり切れたのもここに追い込むためだったのだ。もう一度だけバックミラーをみる。追ってきている車は2台。ワゴンと合わせて3台。中にいる人間の数は全部で10人くらいだろうか。この狭い道で克也を逃がしきれるか。
(無理をしないで)
乙女の言葉がむなしい。無理をしても克也を逃せる確率は高くない。吉野は車を止める前に、非常時に備えて用意してあった予備の携帯電話の電源を入れた。ポケットの携帯とストラップまでそっくり同じものだ。片手ですっと入れ替える。
「克っちゃん。」
もう一度声をかける。克也は怯えてはいない。じっと目の前の車を睨んでいる。
「克っちゃん。無理をしたらだめよ。」
乙女の言葉をそのまま引用して、吉野は目の前のワゴンにぶつけるようにして車を止めた。
まるで仕返しのように後ろから追突されて、吉野と克也の乗った車は前にも後ろにも全く進めなくなった。
かろうじて人が一人通れる隙間を通って後ろの車から人が降りてくる。そう若くない、和男と同年輩くらいの男だ。その後ろに更に男達が続いている。助手席のドアがノックされた。克也は吉野を振り返る。もう一度ノックされて窓を振り返ると窓ガラスの向こうに銃口が見えた。初めてみる銃が本物か偽物か吉野には分からない。しかし、こういう場合は悪い方を想定しておくべきだろう。無駄な抵抗をして克也を傷つけるわけにはいかない。
「降りて。」
吉野はドアロックを解除した。克也が頷いて車を降りると、ドアの向こうにいた男は薄い笑いを浮かべて頷いた。
「素直でよろしい。さあ、君はこっちだ。」
穏やかな口調とは裏腹に乱暴に克也の腕を掴んで引き寄せると、車のドアを閉めてからワゴンの方へ押し出した。
「吉野さんは?」
腕を引かれながら克也が問いかけると、男は首を傾げて運転席に残ったままの吉野を覗き込んだ。
「彼女には用はないよ。話が済んだら帰ってもらうさ。」
そう言って、そのまま克也が大人しくワゴンに引っ張って行かれるのを見送る。ワゴンはわき腹に開いたドアに克也を素早く取り込むと、すぐにバックして走り出した。
狭い路地には車の前後を潰された吉野の車と尾行してきた車2台が残る。車の前をゆっくりと回り込んで運転席の脇にきた男は窓を開けろと仕草で示す。吉野は目を見開きならも震える手で窓を少しだけ開いた。
男は目を細めて吉野を見やる。
「こんな優しそうなボディーガードが居ると思わないよね。貴方には随分手こずらされましたよ。家の窓際の観葉植物は狙撃防止?猫よけの反射材で家を覗こうとする人間を監視してたのも貴方かな?家の外に出れば出たで、毎日送迎ルートと時間を変えるし、追いかけて行くとアッとうまに巻いて逃げちゃうし。本当に苦労したんだよ。ねえ、吉野さん。」
つらつらと文句を並べながら男は嫌そうに眉を寄せた。それから少し表情を和らげて吉野の顔を覗き込むようにする。
「でも、やっと追い付いた。」
窓の隙間から、銃口を差し入れた瞬間に怯えたように男を見上げていた吉野の手がそっと動いたのを男は気が付かなかった。ちょうど運転席の扉の影になっていて彼からは見えない。銃口を引くより前に夜空をつんざく爆音がして吉野の車のトランクが火を吹いた。爆風で飛ばされたトランクの蓋が後ろに控えていた車を直撃する。フロントグラスが割れ、煙を吹いている車はどう見てももう走らない。また狭い路地の壁の中で行き場を失った熱風に外に立っていた男達は吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた。銃を構えていた男の左足には吹き飛ばされた後部座席の扉が直撃していた。意識を失いそうな激痛に男は憎しみを滾らせて吉野に目を向けたが、車の中で吹き荒れた爆風に巻かれた彼女はもう動いていなかった。
「くそ!」
月並みな罵り言葉を上げて、その背中に更に銃を向けようとするが先ほどの熱風のせいか銃身が妙な向きに固定されて動かない。引き抜くこともできない銃から手を離すと男は足を引きずりながら燃える車の脇を通り、後部に止まっていたため軽傷で残っていた車に乗り込んだ。
「出せ。」
運転手は、もの言いたげな顔をしたが無言で走り出した。まだ動いている路上の男達は自分達を置いて走り去る車に恨めしげな視線をやったが、もうどうすることもできなかった。車が走り出してすぐに、遠くからサイレンの音が聞こえてきていた。