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榊原研究室  作者: 青砥緑
第一章 春
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未知との遭遇-4

 克也が食べ終わるのを待って全員で研究室に戻ると黒峰はどこかに昼食をとりに出た後で、針生は出かけた時と変わらぬ様子で何か作業を続けていた。

 猿君と克也がオリエンテーション資料を読んだり、大木に廊下に呼びだされて榊原研究室の不文律を教え込まれたりして過ごしている間に、黒峰も戻ってきた。


 午後4時過ぎ、記入した書類などを克也と猿君が黒峰に手渡すと内容を確認した黒峰は帰宅を指示した。

「江藤君、今日やらなければならないことはもう終わったので、帰宅していいですよ。明日からは授業が無い時間にこちらに寄ってください。猿渡君は、復学に関する書類の続きがあるからもう少し待っていてください。」

 克也はPCをシャットダウンして机の上を片付け、巨大なリュックを背負うと研究室の扉へ向かった。

「では、お先に失礼します。さようなら」

「またな。」

「気をつけて帰れよ」

 克也は礼儀正しく一礼して去っていく。扉がしまり、軽い足音が聞こえなくなると何気なさを装って見送っていた面々が黒峰に目線をやる。黒峰が人の帰宅時間に口を出すようなことは普段あり得ない。

 黒峰は研究生達の視線に直接答えることはなく、教授室の扉を叩いて榊原教授と最上を呼び出した。榊原教授が咳払いをして「みんな、ちょっといいかな」と言ったときには既に全員の注目は黒峰から教授に移っていた。

「皆、知っての通り江藤克也くんは15歳だ。特例として本学に入学し、今年から研究室にも所属することになったが、特別に配慮が必要な点がある。これは彼の保護者が江藤君の入学を許可する条件とした事柄なので厳守してもらいたい。」

 そう言って教授はゆっくりと学生達を見まわした。

「まず、15歳の年相応の子供として扱うこと。深夜にわたる研究や週末返上の実験などは禁止。学校を退出する時刻は20時までが原則だ。それ以上残る場合は保護者に連絡の上、許可を受ける必要がある。それから、飲酒喫煙の禁止はもとより公序良俗にもとるような情報を与えないことに留意してほしい。

 二つ目に、大学生としてプライドを傷つけられるような言動をしないこと。研究や実験に終日時間を費やせないからと言って、彼を主要な研究から遠ざけたりしないこと。よいかな。」

 榊原教授が一同を見回すと、針生が軽く手を上げた。教授が頷いて発言を促すと難しげな顔で口を開いた。

「退出時間は共同研究をしない限り口を出す気はないですが、大学生としてのプライドと言われても、それは約束しかねます。江藤が大学生であること自体に無理があると思いますから。」

「無理があると思うかね。」

 榊原教授に問われて針生が再び口を開く。

「例えそれがどんなに人間として認識するには難しい外見だったとしても隣に座っている生き物が喋る猿か、人間かの判断もつかないような人間が大学生ですか。江藤のこれまでの飛び級のスピードなら、あれほど常識が欠落することはないはずです。もちろん15歳までに得られる教育について、江藤自身に責任があったとは思えないし、本人になんで飛び級したんだと責めるのがお門違いだと言うことくらい分かってますよ。周囲の人間が、飛び級を認めたことによってより高いレベルの教育を与えたのではなくて、社会人として必要な常識を得る機会を奪ってきただけというのが実態なんじゃないですか。彼のこれまでのレポートを見ました。その範囲においてですが、江藤の才能は理解します。自分に分かる限りでも傑出しているし、自分の理解を超えたレベルのものがあるとも思います。それでも俺は、今の彼を同じ学生として尊敬することはできませんよ。それに学生の身分でも一応大人のつもりなので、黙ってこの状況を受け入れることはできません。彼に今必要なのは世界最高峰のハードが完備した研究環境ではなく、しゃべる猿が大学に通うことはないという当たり前の常識を身につけられる環境ですよ。そのための友人と、指導者が必要なんじゃないですか。俺は、」

「だから、それが与えられるのがここなんだろう。お前らが友人で、俺と教授が指導者だ。文句あるか。」

 話に割り込んでこられた針生は細い目に力を込めて最上を睨みつけた。いつも細々としたことに苛立っている針生だが、本当に怒っているときには額から剃りあげた前頭部に向かって血管が浮きたつ。それは心の弱い人間なら10年うなされそうな見事な悪役面である。そこまでに述べている常識的な意見とのギャップに笑ってはいけないと思いつつも最上は口元が緩むのを止められなかった。それを見ないふりをして針生は続ける。

「文句ならありますよ。この研究室はいつから小学校レベルの情操教育を行う機能まで持つことになったんです。言っていることが無茶苦茶です。」

 少しトーンダウンしたものの針生は全く納得していない。スキンヘッドのおかげで丸見えの頭皮まで赤くしている。

「針生君」

 今度は榊原教授が口を挟んだ。

「君の意見はもっともだ。それでも、私は重ねて江藤君をこの研究室に受け入れることをお願いしたい。」

 針生は、普段から敬愛する榊原教授から直々に依頼されて更に少し怒りのボルテージを下げた。しかし感情と理性は別のものだ。

「納得しかねます。」

 榊原研究室において本気で榊原教授に逆らうなんて前代未聞の大挑戦、であったらここでもっと深刻なムードになったのだろう。しかしながら、最上を筆頭に常に皆が言いたいことをいう環境であるので針生がはっきり拒絶しても榊原教授の小さいため息が漏れただけだった。

「頑固だなあ、針生さんは。若いながらに立派な頑固おやじだ。」

 犬丸が首を軽く振ってため息をつく。首の動きに合わせて頬の肉と束ねられていない黒髪が揺れた。

「常識的な視点、今日会ったばかりの克也の人生を思いやる正義感、学内権力者に屈しない胆力。その鉄の意志があれば、克也の才能が生み出す富に目を眩まされたりせずに付き合っていける。榊原教授のお眼鏡にかなうだけの頭脳があれば克也の良き相談相手にもなれる。天才という外野の評価だけで無闇やたらと嫉妬もしない。」

 針生とはいつもレベルの低い小競り合いが絶えない犬丸がせっせと針生を褒め続ける。針生は毒気を抜かれて困惑顔だ。

「そういう学友が必要だって、最上先生は言いたいわけでしょ?針生さんは今、まさに克也が必要としている人物だってことを自ら証明しちゃったわけですよ。」

 そう言って、犬丸は自分の言っていることが正しいかと問う様に最上と榊原教授を順に見やった。

「それって、天才、天才と騒がれた子供が普通の人間扱いを受けられる環境を用意しようとしたら、こんなところになっちゃったってこと?」

 赤桐は呆れた顔で最上と榊原教授を交互に見る。最上は苦い顔だ。

「ここが普通かどうかは意見の分かれるところだろうが、まあ、そういうことだ。」

 フォフォフォフォと榊原教授が声を上げて笑った。

「そういう大人の事情まで汲んで状況判断ができる犬丸君も良き学友となってくれると期待しているよ。」

 最上と榊原教授、それぞれに明言はしていないが明らかに犬丸の発言を肯定している。針生は眼鏡をはずしてこめかみを押さえた。自分が克也の友人候補としてエントリーさせてもらっていたとは考えていなかった。

「針生君、改めてどうかね。」

 榊原教授がもう一度問いかけると、針生は眼鏡を机に下ろしたまま目線を上げた。

「大学生としてのプライドというところを江藤個人のプライドに置き換えて理解していいなら、いいですよ。」

 榊原教授は「それも結構だ」と笑顔で頷いた。

「良かった。よろしく頼むよ。他の皆も、言いたいことがあれば今のうちに言っておいてくれるかな。」

 教授は一同を見渡したが、それ以上の質問はなかった。犬丸、大木曰く「だって、針生さんが全部言っちゃったし。」ということであり、赤桐は可愛くない現在の後輩たちより克也がいる方が楽しいので文句はない。猿君としては克也自身に不満がなければそれ以上自分から言いたいことはなかった。

 換気扇の下でタバコに火を付けた最上が再び口を開く。

「授業が終わったら必ず研究室に来させるから、勉強に没頭し過ぎて遅くまでここに居残らないように気をつけてやってくれ。暗くなってきたら誰かしら早く帰って一緒に駅まで行け。ちなみに、大事なことを教えておいてやると、保護者の出した条件が飲めないなら江藤は退学になるが、ちょっとやそっとのことで江藤がこの大学を退学させられることはない。問題があった場合は、江藤に不利益を被らせた人物を辞めさせて、江藤は残す。という風に大人の世界は動く。分かるな?」

 犬丸が「ふあああ」としまりのないため息をつく。

「新時代の錬金術師の頭脳と引き換えじゃ、家にいくらお金積んでもらっても勝ち目がないなあ。」

 犬丸は以前から克也の評判を良く知っていた。犬丸の実家である大徳寺家は黒いお金で儲けを出している老舗の暴力団である。お金になりそうなことには詳しい。江藤克也の能力は「錬金術師」という言葉に示されるように、大きな金を生み出す可能性があると期待されていた。まだ試験管の中におさまる程度の実験しか行っていないが、少量で長期安定的なエネルギー供給を可能とさせる新たな触媒の開発において、彼は既に世界でもトップクラスの研究成果を挙げているのである。エネルギーを牛耳れば世界の覇権を握ることができるのはすでに世界の常識だ。克也は実用レベルまで昇華させれば世界の経済、勢力図すら書き換え兼ねない大発明の卵を握っており、かつその独創的な手法からいって、今後の応用開発を行うことができるのも江藤克也をおいて他にないとされているのである。大徳寺家にも当然、その噂は届いていたというわけである。

 当然のことながら克也が頭角を現した中学の終わり位から、彼の周りには常に金と欲望と政治の暗い影が付きまとっており、それから本人を守るために過保護なほどの配慮が求められた。そうなると、子供は傲慢に育ってしまいそうなものだが、本人は素直で真面目で礼儀正しい。この点においては、今は亡き克也の祖父も、現在の保護者の山城夫妻も克也の教育にここまで成功してきているといえるかもしれない。


 最上はもう一度だけ念を押した。

「世間が何と言おうと、江藤は見たまま15歳の世間知らずの坊やだ。弟ができたつもりで大事にしてやれ。」


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