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榊原研究室  作者: 青砥緑
第一章 春
34/121

夏休みの準備

 大学では試験の終わった学生から順に夏季休暇に入って行く。ちょうどその過渡期にあった夏のある日、榊原研究室にはちらほらと人の出入りがあったが、10時過ぎには部屋には克也一人になった。彼が黙々と針生に勉強になると勧められた壮大なクロスワードパズルに取り組んでいると廊下からドスドスと重い足音が近づいてきた。

「おす。」

 猿君の足音と声がしたのに、研究室に入ってきたのは違う人物だった。

 大きな体に大きな顔がのっかっているが、頭はさっぱりとスポーツ刈りで髭もなく、精悍な顔つきをしている。服装も革ジャンに破けたジーンズにブーツでフルフェイスのヘルメットなどを抱えており、ユニクロ一辺倒だった猿君とは全く違う。

「こんにちは」

 克也は、誰だろうと思いながら礼儀正しく挨拶する。

 その人物は勝手知ったる様子で猿君の席にすわり、猿君の机の上にヘルメットを置き、パソコンにスイッチをいれ、立ち上がるのを待つ間にブーツと革ジャンを脱いだ。革と汗のにおいが部屋に充満した。

 しばらく、その人物と克也の二人は無言でそれぞれの作業に没頭していた。


 その日の教授会では、今年度の秋に行われる学会に向けて各担当者の発表予定内容のレビューが行われていた。骨子や実験結果などを確認し最高学府の名に恥じない発表がなされるよう品質管理をしているのだ。今回は最上の発表もアジェンダに含まれており、真面目腐った顔で昨年からの研究結果を報告していた。

「以上で、学会発表予定の研究内容の報告を終ります。」

 最上が発表を締めくくると、聴衆から低いうなり声が漏れた。足を引っ張ってやりたくて仕方ないが、引っ張れる足がない。質疑応答含め、完璧な内容だった。最上は演壇からぐるりと周りを見回して大人しくなっているのを確認すると一礼し、いかにも真面目な表情で演壇を降りた。


 発表会が終了して、教授陣が各々の持ち場に戻っていく。榊原教授は廊下を歩きながら隣を歩く最上に声をかけた。

「君のポストを確保するのは一筋縄では行かなかったが、やはり呼び寄せた甲斐があったというものだ。私も鼻が高いね。」

 ここで普通の研究者であれば、改めて感謝の言葉を述べるところである。出世に意欲があればおべっかも述べるところである。しかし最上は、不愉快な様子であった。もう何度も口にしたので無言だが、言いたいことは要するに「頼んだわけじゃない」である。

 最上に目をつけて引き抜きをかけたのは二人の間に限っても榊原教授の独断であり、最上自身は榊原教授にアプローチをかけたことはなかった。有名教授なので最上も名前と顔は知っていたが、特に榊原教授に対する憧れはなかった。今でも憧れてはいない。

 榊原教授相手に、こうもつれない態度の教職関係者は少ない。その反応もまた榊原教授が楽しんでいるところであった。

「江藤君の件も、君が学生たちの現場指揮官として活躍してくれるから安心していられるというものだよ。」

 言い添えられて益々最上は嫌そうな顔で、そういう能力まで分かっていて引き抜いたのだろうと目だけで文句言う。高校時代までは音に聞こえた問題児であった最上一樹を従えた榊原教授は、ただ満足げにニヤリと笑っただけだった。


 ご機嫌と不満げの二人が研究室へ入ると、部屋の中には二人の学生がいた。榊原教授と最上は、それまでの機嫌も忘れて一歩部屋の中に踏み込んだまま立ちつくした。

 教授達がやってきたので挨拶をしようと顔を上げた克也は、学校一の剛の者、榊原教授があっけにとられた顔で、猿君の席に座る人物を見ているので今日やってきた人物が只者ではないらしいと判断した。

「おい、猿渡。お前、猿渡じゃないか。」

 その人物は、教授の変な呼びかけに振り返った。太い眉の下に大きな目がぎょろりと光っている。

「いかにも。」

 そう返答すると、教授の後ろにいた最上が鋭く返した。

「何もったいぶってんだよ。お前に急に髪なんか切って小奇麗にしてどうしたんだよ。誰かと思ったぞ。何だ、女か。」

「いや、ついにバイクを取り戻したんで乗ろうと思ったら、メット入んなかったんで頭も顎も刈っただけですよ。」

「ふん、バイクか。バイクに女乗せようって腹か。」

「いや、別に女は関係ないです。」

「なんだ、つまらん奴だな。」

 女絡みでないと分かると最上は本当につまらなそうに、その人物から目を離した。次に目の前に座って話を聞いている克也の方をみると、目を丸くして猿渡を名乗る人物を見ている。

「猿渡君、人間に戻れてよかったなあ。」

 榊原教授はしみじみとしている。

 克也は恐る恐る確認した。


「あの、猿渡さんって猿君ですか。」


 長い沈黙だった。

 沈黙に飽きた榊原教授と最上が部屋を去り、どこかで言いふらしたのか、それから次々と猿君の友達が部屋を訪れて咆哮し、瞠目し、感涙し、写真を撮っていったが、その間ずっと猿君と克也の間には沈黙があった。


「克也」


 昼食と食後の一服を終えた最上が部屋に帰ってきたときに発した猿君の一言が、その沈黙を破る一言だった。


「俺は猿渡桂蔵だ。髪を切って髭を剃って風呂も浴びて服も着替えたが、それ以外は変わっていない。」


 最上には口いっぱいに言いたいことがあった。しかし、克也の返事が聞きたくて我慢した。

「そうか。猿君、ごめんね。僕は全然気付かなかったよ。」

 そして克也は、思いついたようにカバンをあけ、山城乙女特製弁当を取り出した。腹が減ったことに今気がついたようである。


「猿!まさかとは思うが俺たちが出て行ってから今までずっと克也と見つめあってたってのか。お前ら、本当に恋にでも落ちたんじゃねえか。そういうときは申告しろよ。二人きりで野放しになどしてやらんからな。あと、お前の変貌ぶりは髪を切って髭を剃って風呂を浴びて服を着替えた結果、髪に潜んでいた数々の謎の生命体と考えたくもないような量の垢とフケが洗い流されたことによってもたらされたものだ。大事なところを省くな。克也、お前は朝こいつを見てずっと猿の席にいるのになんでほっておくんだ。別人だと思ったんだろう。不審者だったらどうすんだ。もっと警戒心を持て。今日の弁当は何だ。」

 最上が暴発した。

 克也は「鶏の唐揚げだそうです」と笑顔で回答した。

 猿君は何も言わなかった。猿君は克也の弁当を見て空腹を思い出し、二人は連れだって学食へと消えて行った。


「克也。車はないけどバイクなら二人で遠出できるようになるぞ。」

 猿君は食堂へ向かう途中でそう言って、二人は入院中に計画したデートプランの実現にむけて話し合いながら昼食を楽しんだ。

前期 最終話です。次回以降は夏休み編になります。

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