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榊原研究室  作者: 青砥緑
第一章 春
30/121

とりあえずの結論-1

 前期も終りに近づいたある日に、山城夫妻が榊原研究室を訪れた。

 梅雨明けが近いのか晴れた空は空調の効いた研究室から外を眺める分には気持ちがいいものの、一歩外に出れば蒸し風呂のような陽気だった。


「蒸し風呂?」

 黒峰に研究室に戻るように指示をうけた犬丸が、外の通路を通って研究室へ帰ってきて愚痴ったのを聞いて克也は猿君の方を見上げた。

「克也はサウナに入ったことはあるか。」

「サウナ?」

 なるほど、サウナも知らないのかと猿君は別の表現を模索する。こうしたやりとりは克也の教育だけでなく猿君の語彙力の向上にも役立っていた。

「蒸し風呂とサウナは基本的に同じものだ。風呂に入ったらあったかいだろう。あれをお湯なしでやってみようという奴だ。部屋全体を暖めて、お風呂のお湯につからなくても、部屋の中にいたら体が温まるようにしてある。その部屋をあっためるのに蒸気を起こしたりするから蒸し風呂っていうんだと思う。」

 克也は、ふむふむと頷く。克也の脳内では暖かい蒸気に満たされた湯船が想像されている。使う水の量が少なくて済みそうだと思う。

「梅雨の時期は湿度が高くて暑いから蒸し風呂に入っているみたいだ、と表現するわけだな。」

「分かった。猿君ありがとう」

 克也が素直に礼をいうと、猿君は笑って頷いた。

「蒸し風呂の説明聞いたら、暑さが蘇ってきた。」

 犬丸は団扇を取り出してハタハタと自分を仰ぐ。克也は自分の質問がいけなかったのかと困った顔になるが、当然犬丸は気にしない。

「お前はどうして余計なことばかり言うんだろうな。克也、蒸し風呂という単語はそれだけで気温を上げたり、湿度を上げたりはしない。心配する必要ないからな。」

 団扇の風が微妙に当たるのが気にいらないのか針生が心底嫌そうに犬丸を睨んだが、当然、犬丸は気にせず無駄に長い黒髪をなびかせている。

「せめて髪切ればいんじゃないの。」

 あきれ顔で赤桐が口を出す。赤桐も肩の下まで髪を伸ばしているが最近はずっと束ねっぱなしだ。毎日長い髪を束ねもせずに、なびかせているのは犬丸だけである。

「えー。」

 犬丸は不服そうに自分の髪をつまんだ。その仕草も、物憂げな美女がすれば絵になるが、丸々太った犬丸では話にもならない。どうして髪を伸ばしたいのかと赤桐が更に追求しようと口を開いたところで、研究室の扉がノックされた。この扉をノックするのは部外者しかいない。普段なら黒峰が対応するのだが、彼女がちょうど防音加工済みの教授室の中に入ってしまっているので部屋にいた面々は顔を見合わせた。予期せぬ来客は珍しい。


「はーい。」

 結局、大木が扉を開きに立ちあがった。一度病院で会ったことがある女性と見知らぬ男性だった。

「あ、乙女さん、和おじさんも。どうしたの?」

 克也が扉の方に寄ってきたので、大木は場所を譲る。

「今回の件でご迷惑をおかけした皆さんに御挨拶と、あと教授からも呼ばれているのよ。」

 乙女の返事をきいて、克也はあっさり納得する。彼は来るのなら朝言ってくれれば良かったのにとは思わない。朝のうちに聞いていても何も状況は変わらないのだから今知っても同じことだ。

「教授ー。」

 会話を聞いていた赤桐が教授室の扉をノックすると、奥から黒峰と榊原教授が出てきた。すぐに戸口付近に立っている二人の客に気が付いた。

「おお、山城さん、お呼び立てしてすみませんな。ええと、黒峰君、椅子を。」

 黒峰が教授室の中から程度のいい椅子を出して来て研究室の真ん中辺りに並べた。針生も腰をあげて手伝おうと教授室へ入ると、黒峰に椅子を奪われたらしい最上が立ったままコーヒーを飲み干そうとしていた。程度のいい椅子というものは意外と余っていないものだ。


「みんなも、集まってくれるかな」

 榊原教授が声をかけて、それぞれ自分の椅子を研究室の空いている隙間に移動させ、いびつな円を描くように全員が着席した。

「まずご紹介しよう。江藤君の保護者である山城さんだ。山城和男さんと乙女さん。殆どの人は病院で乙女さんにはお会いしたね。」

 この頃までには皆、克也が保護者のことを和おじさん、乙女さんと口にするのを聞いたことがあったので保護者の名字が江藤でないことも、二人とも克也とはちっとも似ていないことにも驚かなかった。

「で、ここにいるのが私の研究室に現在在籍している全員です。乙女さんには以前ご紹介しましたね。こちらにいるのが黒峰君と最上準教授。」

 榊原教授の斜め後方に両脇を固めるように座っている黒峰と最上は軽く会釈をした。

「最上君の隣から、大木君、赤桐君、克也君の隣が猿渡君、それからお二人を挟んでこちらに犬丸、いや失礼、大徳寺君、針生君です。」

 それぞれ名前を呼ばれると軽く会釈をしていく。克也はその作法について疑問に思って横に座る猿君を見上げたが、猿君はちょっと顔を横に振って今はダメだと意思表示をしてきた。


「山城和男です。息子がお世話になっております。このたびは皆さんにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。」

 和男が頭を下げると、犬丸は椅子の背もたれに寄りかかったまま「迷惑ではないでしょ」と一言つぶやいた。和男と乙女が不思議そうに顔を向けると、隣の針生も頷いている。

「みな、心配はしたでしょうが迷惑とは思っておりませんよ。」

 榊原教授が犬丸の言葉を補うと、二人は揃って教授に頭を下げた。「なんで教授に頭下げんの。」と団扇ごしに針生に囁いた犬丸は不満げだ。針生は黙殺する。

「そう言っていただけると有難いです。あの、猿渡さんその後お加減は?」

 乙女が猿君の方に向き直る。猿君は大きな手を振って、「いや」とか「もご」とか言った。大丈夫の意を示したかったらしい。

「今日は、今回の事件の首謀者についての確信が得られましたので、お呼び立てしたのですよ。ついでに皆にも聞いておいてもらおうと思って集まってももらったわけだ。」

 榊原教授はそう言うと一同を見回した。和男は慌ててちょっと腰を上げた。

「ここで、このまま話すのですか」

 榊原教授は悠然と頷く。

「この話は、子供には」

 和男氏が言い淀む。克也の前で話したくないのだ。克也には耳に入れなくていいことは聞かせたくない。榊原教授はそれを察したが、もとより聞く気はなかった。

「克也君も、知っておいた方がよいと思いますよ。何より一番の当事者であることだし。」

 克也は突然、名前を呼ばれて驚いた。驚いて猿君を見上げると、今度は頷かれた。

「榊原教授。僕が何を知っておいた方がいいのですか?」

 素直に質問する。

「克也。」

 乙女が諌めたが、克也は諌められた理由が分からずきょとんと乙女を見返した。

「江藤君、君を攫って行こうとした犯人と、今回の事件について君自身が知っておいた方が良いと言ったんだよ。そうしなければ、教訓を次に生かせない。」

 克也は、榊原教授の発言に異論はなかった。「はい」と返事をして静かにする。

 まだ不満げな山城夫妻の様子を見て、犬丸が口を出した。

「あんな事件にあって、真相を知らされなかったら毎日不安になっちゃうと思うけどな。」

 相手が初対面でも、どこにも遠慮が無い。とはいえ、最もな言い分ではある。

「よろしいかな?」

 榊原教授は山城夫妻の迷いを見てとりつつも割り込まれる前にさっさと話を進める。

「今回の事件の首謀者をちょっと独自に調査しまして、確証を得るにいたりました。ただし、警察に持ち込める種類の情報ではないので、ここで関係者だけに共有したいと思います。その点、ご理解ください。」

 警察に言えない情報というのは山城夫妻にも大いに心当たりがある。それについての異論はなかった。

「まずは、これまでに分かったことをお話します。その上で、どう対処していくかを御相談させていただきたい。」

 榊原教授は軽く咳払いして、カリスマ教授らしく一気に全員の注意を引き付けた。


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