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榊原研究室  作者: 青砥緑
第一章 春
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山城和男の悩み

お父さんの独白。

 江藤克也の現在の養父である山城和男は、出張先で妻から息子が運動会で活躍したのでお祝いの席を設けると連絡を受けた。どうして突然に運動会なのか分からないが、良いことがあったようなので、仕事を切り上げて帰路についていた。


 40代も半ばを過ぎて名刺も持たない彼のことを金持ちのどら息子と思っている人も多いが、働いていないわけではない。ただ、人に言えないような仕事をしているだけだ。後ろ暗い、平たく言えば産業スパイやあまり表に出せない興信所のような仕事だ。時には名前を変えたり、身分を偽ったりもする。名刺などおいそれとは差しだせないのはそのためだ。

 しかし、この職業が克也のために役立つことも多い。身の回りに不穏な影が絶えない克也のために、そこここに潜り込んで情報を仕入れることは親鳥が雛の為に餌を取るのと同じようなものだ。克也がやってきてからのこの5年間、和男はそればっかりしているとも言える。和男が、こんな調子なので代わりに妻の乙女が世間体を保ってくれている。実家でも大変評判のいい働き者の妻だ。愛情が深くて頭がいい。山城家にはもう一人、家族と言える同居人がいる。家政婦の吉野だ。結婚当時、自分の仕事から起こるトラブルが妻に及ぶことを恐れた和男はボディーガードを雇うことを検討した。ものものしい男など置いておいたら、この人を避けてから襲って下さいと言っているようなものだ。目立たない、それとなく守ってくれる人がいい。そう思って家政婦兼ボディーガードという求人を出した。応募してきたときの吉野は20歳そこそこで、幼い子供を抱えてお金に困っていた。子供好きの乙女は子供を連れて仕事に来てくれたら、自分も子供と遊べると大喜びした。もちろん家政婦の仕事も、ボディーガードとしても吉野は十分優秀だった。そうして数年がたって、家に克也がやってきた。以前に仕事で知り合った江藤幸助氏からの直々の依頼だった。

 うちの家族を見込んで、自分の死後は孫の世話をお願いしたいと言われた。可愛らしい克也。聞けば、その幸助が死ねば天涯孤独になるという。引き受けない理由はなかった。


 家に向かう途中の和男に、克也が襲われたと連絡が入る。残念なことに「またか」と思ってしまう。克也にはいつもいつも危険が付きまとう。山城家の財産をあてにした身代金目的の誘拐、大きくなってきてからは有名になってきた息子自身を人身売買のように求める者が次々現れた。結果の軽重を考慮しなければ、誘拐未遂だけで5回も事件に巻き込まれている。

 乙女が克也の元に向かっているということだったので和男はそのまま帰宅し、克也の帰りを待った。途中、乙女から電話が入り息子の無事と、一緒にいた友人が大けがをしたので手術終了まで待ってから帰宅するという。これまで克也のまわりで起きた事件の中で一番深刻な事態だ。とにもかくにも二人とも命に別状はないらしい。吉野と最近の出来事を話しながらただ待った。深夜にようやく玄関が開いた。

「お帰り、克也。」

 15歳の克也は相変わらず可愛らしく成長期の気配を感じさせない。

「ただいま。おかえりなさい、和おじさん。」

「おう。」

 和男は反抗期にも縁が無さそうな素直な克也の頭を撫でた。

 克也と乙女の帰りを待っていた吉野が寝る前に食事をとるかと確認する。本当ならばお祝いの席だったはずの夕食のメニューはトンカツだったが、この時間に揚げ物は厳しい。残念ながらメニュー変更となった。二人は何も食べていなかったようなので少し食べさせようと吉野は食事の準備を始めた。食卓の準備が整うまで家族は居間に落ち着いて今日の事件の経緯を聞いた。克也の話を聞く限り、これまでの事件の中でもっとも性質が悪い。八面六臂の活躍をしてくれた友人が一緒でなければどうなっていたか想像に難くない。友人は大けがをして入院中だと言うが、よくぞ息子を守ってくれたと、和男は今からでも駆けつけたい気持ちに駆られる。


 克也の帰宅が遅かったのでかなり遅くなってしまった夕食の席では、事件の話は一旦打ち切りとした。和男は最近聞いていなかった研究室のメンバーの話など学友の説明や、本当なら今日の主題になるはずだった運動会の話を聞く。やっと克也にも友達らしい友達ができてきたかと安心する。話が入院中の友人に及ぶ度に悲しい顔をする克也をみて、もっと子供らしく嬉しそうに自分の活躍を話してほしかったと思う。数時間前までは、きっとそうできただろうに、と悔しく思うが起きてしまったことはどうしようもない。

「よくやったな、克也。」

 和男はまた暗い顔になった息子の皿におかずを移してもっと食えと促した。楽しい思い出を大事にしなければ。彼はこれまでに辛い思いをし過ぎている。

 夕食が終り、皆でお茶を飲みながら再び誘拐未遂の話に戻る。今度は明日からの話をしなければならない。

「克也、今日の事件のことだけどな。」

 改めて口火を切る。

「また、似たようなことがあると困る。お前にもお前の友達にも怪我をさせたくないしな。まず通学は去年までと同じように吉野さんに送り迎えをしてもらおう。学校の中にいるときは、人の少ないところは避けるように気をつけるんだぞ。お前は何かに夢中になると他のことが一気に留守になるから、研究室以外の場所では研究のことは考えるな。わかったか。」

 克也はこっくりと頷いた。

「和おじさん、学校は休まなくていいんだよね?」

 聞きながらも克也は心配そうな様子で、そんなに学校が楽しいのかと周りの大人たちは場違いに嬉しくなる。

「休まなくていい。」

 克也はほっとしたようで、分かったというと吉野に向き直って「明日からよろしくお願いします」と頭を下げた。吉野はちょっと驚いたように目を瞬かせたが、すぐに笑顔になって「承りました」と頭を下げ返した。こうした状況で吉野に手間をかけることになると判断して頭を下げるなど、これまでの克也には出来なかったことだ。和男は驚いて妻を見やったが、妻は目だけで「後で」と返してきた。

「克也、私と和男さんで今日怪我をしたっていうお友達のお見舞いに行こうと思っているんだけど、いいわよね?」

 克也はどうして確認されるのか分からないという顔で頷いた。

「じゃあ、克也も今日事件の後に迎えにきてくれた先輩や、心配して来てくれた研究室の皆さんに明日ちゃんとお礼を言ってね。」

 乙女が念を押すと、今度は心得たように深く頷いた。

「よし、じゃあ、今日は色々あって疲れただろうからもう寝なさい。吉野さんには明日の朝、八時半出発で送ってもらえばいい?吉野さん、悪いけどお願いしますね。家の方は戻ってから片付けてもらえばいいから気にしないで。私も手伝うし。」

 克也は風呂に追い立てられた。警察が出動するような事件に子供が巻き込まれた家庭にしてはやたらとあっさりしたものだが、残念ながら進級と同じくらいの頻度で克也が事件に遭うので毎回お通夜のごとく沈んでも居られない。人間は慣れて行く生き物だ。


 克也と吉野が風呂に入って寝室に引き上げてしまって、和男と乙女は二人で居間に残った。

「なんだか、克也は随分人間らしくなったな。」

「あなた、なんて言い方ですか。大人らしくなったと言いなさい。」

 和男が声をかけると乙女はぴしゃりと言い返した。

「まあ、そうともいえる。いつ誰に感謝したらいいかとか、あいつずっと苦手だっただろう。いっちょまえによろしくお願いしますとかいうから、感動したよ。」

「そうねえ、私も事あるごとに言ってたけど、ケースバイケースでしか理解してなかったものねえ。最近よ、本当に4月に研究室に入ってからじゃないかしら。人に気を使うことを覚えだしたのね。」

 人間関係がずっと苦手なようだった克也にとっては大進歩だ。

「榊原さんとこに預けて正解か。こういう効果が出る分かってたのかね。」

「どうかしら。私は予想外だけれど。」

 山城夫妻は引き取った時から克也の進学先を幸助の遺言どおりにすることが正しいのか悩むことが多かった。彼の才能を誰より早く見抜いていたのは彼の亡父である江藤友助だったそうだ。ただし、友助は克也が物心つくかつかないかの時期に帰らぬ人になった。自分の妻が既に他界し、係累が少ない中で自分にもしものことがあればと心配していたのだろう。自分の実父である江藤幸助に万が一の場合の措置を依頼していた。この心配性な気配りがなければ今の克也は山城家にはいない。祖父に引き取られた克也は小学校から特殊な事情の子供たちばかりを集めた私立学校に通っていた。心配性は江藤の血なのか、自分が高齢であることを意識したのか江藤幸助も早めに自分の死後の手を打っていた。その中に含まれていたのが山城家に克也を託すことであり、成人まで榊原教授のもとで指導を受けさせることだったのだ。榊原教授の在籍する学校や学部が克也の進路として違和感のないものだったので、克也自身は祖父の遺言によって研究室が決まったとは気づいていないだろう。

 幸助の遺言に従うにあたり、山城夫妻も榊原研究室について下調べをした。幸助がこの研究室を指定したときから5年経っている。当時とは状況が変わっているかもしれない。自分達で確認した方がよいと思ったのだ。結果、驚くほどバラエティに富んだ経歴の集団で、ここに克也を預けていいものかと逡巡したが、榊原教授本人の説得もあって進学を認めた。何より幸助の遺言に背くということは非常に勇気のいることなのだ。見届け人がいるわけではないが、言うことを聞かなければ呪うという気迫に満ちた瞳で息子を託して逝った。その呪縛はいまだ有効だ。

 研究室に通わせてみれば、学校の友人の話を家でするなど、これまでついぞ見られなかったことが次々おこり、判断は間違っていなかったかもしれないと思えた。


 問題は一方で、匿名で研究室メンバーの情報を送りつけてくる人物がいることだった。馬鹿馬鹿しいと思いはするが、一部は山城夫妻自身が調べたものと同じ内容を含んでおり、まるっきり嘘だと無視することもできなかった。

 乙女がため息と共に居間のテーブルに置いた書類をぱらぱらとめくる。この春からずっと送りつけられてきている手紙の一部だ。

 一枚目のシートには最上一樹と名前が入っている。元広島の暴走族。窃盗、公務執行妨害の他、もちろん暴走行為による補導歴がずらりと並んでいる。とても最高学府で教鞭をとる人間の経歴ではない。もっとも成人してからは大人しくしているようだ。

 二枚目の赤桐唐子も同様だ。二人は同郷で時期はずれているが暴走行為に没頭して青春時代を過ごしたらしい。いずれも自分たちの調査内容と一致している。

 三枚目は針生義一。彼の経歴は綺麗なものだ。ただし東東大学の在籍期間が長く、榊原教授と一緒になって企業から金を巻き上げているとある。この事実については和男の調査では確認できていない。

 四枚目の大徳寺光明は古くからある暴力団大黒組の本家の息子だ。現役の暴力団構成員である。前科は全くないが、明らかに揉み消しているだけだと思われた。

 五枚目の大木圭介は東東大学への裏口入学について記述されていた。彼も若い頃に補導歴がいくつかあり、素行に問題があるようだ。彼の経歴は和男が調べる限りごく普通の学生であり、この調査結果も疑わしい。

 六枚目は猿渡桂蔵。消息不明になっていたこの4年間、海外で傭兵養成組織に身を置いていたとある。ゲリラと関係がある可能性も示唆されている。これについては全く確認する術がない。

 もう一枚、黒峰優花。彼女はメイクアップの専門学校を出た後ストレートで現職についており、その異色の経歴が目を引いた。ただし榊原教授との血縁関係があるとされており、縁故採用と思われた。榊原教授の血縁なら却って信用できる。もはや縁故採用など些細な問題だ。

 妻は、猿渡のシートを取り上げて破り捨てた。

「この人が、克也を守ってくれた。」

 次に最上のシートを取り上げて破り捨てる。

「この人も、絶対悪い人じゃない」

 残った4枚を見つめて眉を寄せる。

「4人ともお会いしたけど、まだ分からない。」

 そう言って4枚を重ねてもう一度封筒にしまう。克也の友人を信じられないのは悲しいことだが、山城夫妻はもう家族以外は無条件に信じないことにしていた。過去の誘拐未遂の中には学校の教師が手を貸していたことも、同級生の親が情報を流していたこともあったのだ。無邪気に人を信じるには克也の周りには羊の皮をかぶって近づいてくる狼の数が多過ぎる。


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