日常の綻び-3
一方、警察への通報の後で事件現場に駆け付けた最上は予備情報も無しに裏返されている車に御対面して絶句していた。
道路の上に腹を空に向けた車が天井をフェンスにもたれるようにしてひっくり返っている。既に怪我人はすべて救急車に収容されていたので、街灯の下、車だけがひっくり返っているようすはかなりシュールなものがあった。
「こりゃあ、猿だろうなあ」
最上は頭をかいて苦笑いした。綱引きで最後には大人4.5人を引きずった馬鹿力を体験した後なので、なんとか受け入れらる説明だ。警察の邪魔にならない程度に車の様子などを観察したが、予想していた通り、全く見覚えのない車だった。
程なく警察の担当者に声を掛けられ、研究室への通報の経緯などを説明させられた。警察側に逆に事情を聞いてみたが、あまり多くの情報は得られなかった。最上は放免されると、その足で君と克也の収容されている病院へ向かった。
猿君の顔をもう一度見られたのは、克也が目覚めてから1時間以上経ってからだった。
その間に最上も病院に到着し、克也の無事を喜び、実際に転がっていた車の様子と警察の困惑ぶりを語って聞かせた。
更に山城乙女が病院に駆けつけてきた。乙女は克也の姿を認めると駆けよってきて、無言で克也を抱きしめてしばらく離さなかった。だいぶ時間が経ってから、怪我人がいたと聞いたことを思い出したらしく、点灯中の手術中のランプに目を向けた。
「克也?一緒に帰っていたお友達は今、手術室の中なのね?」
そう確認すると、克也は頷いた。
「そう。」
乙女はそれ以上言わずに克也の手を握りしめて手術室の前のベンチに腰を落ち着けた。
ランプが消え、扉が開いてストレッチャーがでてくると大きすぎる猿君の足と腕は完全にはみ出していた。しかも背中に傷があるためという理由でうつぶせだ。大変喋りにくそうなので、みな無言で病室まで付き添った。
病室に着くと克也は猿君の枕元に座って何度もお礼をいった。猿君はうつぶせのまま腕を伸ばして無事でよかったと克也の手を撫でた。山城乙女も重ねがさね礼をいった。これには猿君はもごもごと不明瞭に返事をした。
赤桐と犬丸がうつぶせで横を向いている猿君の顔のつぶれ加減についてからかって少し固くなっていた場の空気が少し和んだところで、医師の説明を聞いていた最上が血相を変えて走ってきた。
「猿!」
そう言ったきり、しばらく絶句している。言葉が見つからなかったのかだいぶ溜めた後に
「このド阿呆が!」
と怒鳴りつけた。
「お前、傷があと一歩深かったら肺に穴開いてたぞ!チンピラ相手に背中とられてんじゃねえよ!」
最後の文句は一般市民相手に無茶な要求だと思うが誰も反論できる雰囲気ではなかった。あまりの剣幕に克也がびくっとしたので猿君が腕を伸ばして抱きしめる。椅子に座っている克也にベッドに寝転んでいる猿君が腕をまわしているので、克也の膝に猿君がすがりついているようにも見える。
「でも、刃渡りが短かったから。」
猿君が一言だけ反論するのを聞いて、最上は次の怒鳴り文句のために吸いこんでいた息を全部吐き出して、ぐったりと壁際の椅子に座りこんだ。ため息をつく最上と困ったような雰囲気の猿君を見比べて赤桐が質問する。
「話が見えないんだけど?」
「猿の背中の傷、ナイフによる創傷。背筋が異常に発達してなきゃ肺に穴が空いて致命傷コースだったそうだ。まあ、奴には勝算があったらしいけど?肉を切らせて骨を断つって、肉切らせすぎだろうがよ。お前自分のこと不死身だとでも思ってんじゃねえのか。」
解説するうちに怒りが再燃してきたのか最後は再び怒鳴りつけるように最上がいうと、一斉に猿君に視線が向いた。克也は猿君の背中に恐る恐る手を伸ばして撫でながら、ごめんね、ごめんねと繰り返した。
「どうして克也が謝るの?」
猿君は不思議そうだ。克也もそう聞かれると理由は分からない。でも自分がいなければこんなことにはならなかっただろうと思うのだ。
「結局死んでないし、克也も無事だし、それでいいだろう。」
克也はさっぱり納得できなかったが、反論する言葉が思いつかなかった。
「まあ、そういうことにしといてやるよ。克也に感謝しろよ、猿。お前は毎日風呂に入って無かったら今ごろ自分の皮膚か体毛が原因の感染症であの世行きだ。」
最上が言い添えると、乙女と克也を除く全員がその通りだと深く頷いた。
実は結構な大怪我でした。全然痛がってなかったですけども。