日常の綻び-2
意識が飛んでもしばらく克也は猿君の広い背中に寄りかかった状態で自転車に揺られていた。角を曲がろうとして克也が転落して、ようやく猿君は克也の意識が無いことに気が付いた。道路に落ちた克也の額から頬にべったり血が付いている。自分の血だと気が付いていない猿君は大慌てで研究室へ電話をかけた。幸いにもワンコールで黒峰が出た。
「猿渡です。克也が襲われそうになりました。逃げてきたのですが克也が気を失ってしまって、自転車から落ちて出血が。誰か迎えによこしてもらえませんか。」
「救急車ではなくて?今どこに居ますか。」
黒峰は一瞬息をのんで、すぐに質問を返してきた。
「どっちでもいいです。ああ、そうか警察も。今の場所はガソリンスタンドの脇から幼稚園に向かう角のところです。」
「分かりました。今の場所に留まっていて安全ですか?」
猿君は先ほどの男達が目を覚ましたら、ここまですぐに追い付かれると思ったが、克也が頭でも打っていたら担いで移動するのは危険すぎると逡巡した。
「あまり安全ではないですが、克也を動かす方が危険です。」
「猿渡君、すぐに犬丸君が向かいます。そこで待っていてください。」
「はい。」
電話が切れると、いつも通りの裏道にいつも通りの静かな空気が戻ってきた。
待てと言われたが犬丸の車ではここまで入って来られない。猿君は克也を抱えて車の通れる大きな通りから見える場所へ移動して座りこんだ。しばらく茫然と克也の額と頬を撫でて砂と血を払っていると、どこにも怪我が無いことに気がついた。はて、どうしてどこも切れていないのに血が出ているのだろう。猿君は見えないところに傷が無いか克也の頭の周りを確認したが、たんこぶを発見しただけだった。少しほっとして犬丸を待つ。
急ブレーキ音と共に大徳寺家の黒塗りの車がやってきた。予想通り狭い道には入れないので犬丸だけが降りてくる。犬丸をみた猿君が自分で克也を抱えて立ちあがると、駆け寄ってきて克也の顔を覗き込んだ。
「克也は?」
「いや、それが頭にたんこぶはあるんだけど、傷が無くて。血が付いていたから頭を切ったと思ったんですけど。」
猿君は困惑気味に報告する。犬丸は克也の首筋に手を当てて様子を見ていたが大事ないという結論に至った。自転車に残っていた荷物を抱え上げると猿君を促して車へ戻る。克也を抱いたままの猿君が後部座席に落ち着き、犬丸が前に乗る。背もたれに背を預けようとした猿君が、ふと背中に違和感を覚えて背筋を伸ばした。片手を背中に回して触ってみる。べったりとした感触がした。
「犬丸さん。」
既に車は学校へ向かっている。電話で黒峰に二人の回収報告している犬丸に後ろから声をかける。
「なに?」
電話を中断して犬丸は半身だけ振り返った。
「克也についてた血、俺のかもしれないです。俺の背中かも。」
「はあ?」
犬丸は高い声で聞き返すと今度は完全に振り返って車内灯を着けた。猿君の背中は見えないが、赤い血がべったりついた猿君の手と、後部座席の背もたれに触った時に付いたのであろう大きな血痕がはっきり見えた。犬丸は勢いよく振り返ったせいでずれた眼鏡を直すと前を向き直った。
「あ、黒峰さん。聞こえました?猿君が大量出血。明るいところでみたら血まみれでした。えー、だって暗くて分かんなかったですよ、克也についてた血もきっとそれですね。学校に連れて帰るとだいぶ目立ちますけど、このまま病院に向かいましょうか?」
しばらく何か相談していたが、電話を切ると行き先を大徳寺家が懇意にしている病院に変更した。犬丸専属のいかつい運転手は横で主が血まみれと叫んでも動じることなく、スムーズに進路を変更した。
病院について二人を下ろしてみると、歩いているのが奇跡かと思うくらい猿君の背中は真っ赤だった。よくふらつきもせずに克也を抱きあげていたものだと犬丸は小さな看護師に引かれて行く大きな背中を見ながら感心した。一方の克也の意識は戻っていないが怪我はないようだった。念の為、検査してもらうことにして克也も医師に預ける。
犬丸は、血まみれの車を一度家に戻して自分は病院に残った。改めて経過を報告するため研究室に電話をかける。
「大徳寺です。病院に着いてそれぞれ処置中です。命に関わるってことはないみたいですけど、猿君が思ったより出血が多くて。克也は猿君の血まみれの背中をみて卒倒したんじゃないですかね。襲撃犯の方はどうですか?」
黒峰によると、研究室からの通報より前に近所から通報があったらしく警察が駆けつけているとのことだった。犬丸はぜひとも現場がみたいと思ったが、今ここを離れるわけにもいかない。なけなしの弁えで見に行きたいというのを我慢する。現場には最上が向かったという。
「教授は?」
「連絡は入れていますが、今日は名古屋の大学での講義をなさっているので終わり次第、病院の方へ向かわれると思います。それから、江藤君の保護者の方も病院に向かっているとのことです。」
「ああ、そうか。猿君の家族は、確か遠いんでしたっけ?」
「九州です。」
少なくとも、すぐには駆けつけて来られないだろう。犬丸は電話を切って指定されたベンチで医師の報告を待った。克也の処置は比較的すぐに終わった。やはり軽く頭を打ってはいるが全く問題ないとのことだった。自然に意識が戻るのを待てばよいと言われベッドの脇に移動する。血の跡を綺麗に拭われた克也は眠っているだけに見えた。
まもなく赤桐と針生がやってきた。黒峰に報告したものと同じ説明を繰り返すと、赤桐は安心したように克也の頬を撫でた。
「良かったー。」
そのまま、ベッドに突っ伏しようとした赤桐が目測を誤って軽く克也に頭突きをかましたことで克也は目を覚ました。
「う、うーん」
「あたー、克也、ごめん。痛い?」
慌てて赤桐が顔を覗き込むと、克也はしばらく茫然と薄いベージュの天井を眺めていたが、赤桐の顔をみて、その後ろの犬丸と針生をみて、やっと本格的に目が覚めてきたようだった。
「赤桐さん、猿君は?」
寝起きのかすれた声で聞くと赤桐も犬丸の方を振り返った。
「今、治療中。この病院で克也を医者に渡すまでずっと猿君が抱きかかえて運んでいたから結構元気なんだと思うよ。」
犬丸の言葉に克也は少し安心した。意識を失う前の真っ赤な血に染まった自分の手を思い出し慌てて手を見るとすっかり綺麗になっていた。あれは幻だったかと思うが、そんなはずはない。初めて嗅いだ大量の血の臭いを鮮明に覚えている。思い出して少し気持ち悪くなり克也はぐっと目を瞑った。
「大丈夫?」
赤桐が軽く布団の上から腕をまわして抱きしめるようにしてくれる。そうされると少し落ち着く気がした。しばらくそのままじっと吐き気がおさまるのを待ってからゆっくり目を開けて頷くと、克也は体を起こした。体はどこもおかしくない。大丈夫だ。ベッドの上で起き上がると小さく一つ息を吐いた。
「克也、もし平気そうなら何があったか話してみてほしいんだけど。猿君からは4人組の男に襲われたことだけしか聞いてない。それを猿君がやっつけて、二人で学校に帰ろうとしたら克也が気絶して自転車から落っこちて、それで猿君が研究室に電話をかけてきたというわけなんだけど。克也が覚えていることは?」
犬丸に問われて、克也は車が自転車の脇に止まったところから記憶を高速で再生する。
「あの人たちはどうなったんですか。」
説明よりも前に克也が聞くと、犬丸は首を傾げた。
「さあ。警察がけっこうすぐ来たみたいだから捕まったかも。猿君がどのくらい大暴れしたか聞いてないから、生きてるかどうかとかは分かんないよ。」
犬丸の口調はまるでいつも通りだ。
「猿君は誰も殺してないです。たぶん。」
克也がそういうと犬丸は大きく頷いて「そりゃよかった」と言った。
克也は見ていたことを順序立てて話した。いくら動揺して気を失ったとはいえ、それ以前の克也の記憶は正確だ。研究室の面々もこれまで克也に物を教えてきた経験上良く知っている。彼は見聞きしたことを決して忘れない。三人はただ黙って克也の説明を聞いた。猿君の背中しか見えていなかった時のことは音声だけ伝えた。それぞれは勝手に状況を推測したが、それ程間違ってはいなかった。
克也が猿君が車をひっくり返したというと、犬丸と赤桐と針生は揃って頭を振った。
「あり得ないけど、あり得る。」
「猿君ならあり得る。」
「有り得る。」
今ごろ警察はひっくり返された車を発見しているのかと思うと三人は少し気の毒な気持ちになった。きっと困惑しているだろう。素手で人の乗っている車をひっくり返すなんて聞いたことが無い。
話し終えた克也が猿君の様子がみたいと言い出したので四人は病室を出て猿君の処置が続いている手術室の前に移動した。犬丸はいったん克也を赤桐と針生に任せると再び黒峰に連絡をいれた。
猿君が車をひっくり返した、というと鉄壁の冷静さを誇る黒峰をして一度聞き返された。