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榊原研究室  作者: 青砥緑
第一章 春
20/121

日常の綻び-1

本人は痛そうではありませんが、流血シーンがあります。苦手な方はご注意ください。

 最上の猿君洗浄計画がきちんと梅雨に間にあったのは実に良いことだった。その年の梅雨前線は6月半ばから律儀に毎日雨を降らせたので、洗浄前の猿君だったら湿気で何かの発酵が進んで大変な事態になっていただろう。

 雨が続くので自転車での克也の送迎が難しくなり、このところ克也は連日、赤桐の車に乗せてもらってターミナル駅まで送ってもらっていた。同じ車通学の犬丸の出番がなかったのは、赤桐がその役を譲らなかったせいでもあり、彼の実験が立てこみ20時に退出できる日が数えるほどしかなかったからでもある。そうしたわけで、折角苦手なシャワーを毎日浴びているのに克也と二人の時間を中々過ごせず、猿君はしょげていた。


 ある日、待ちに待った梅雨の中休みが訪れた。久しぶりに自転車で帰宅できそうだと思った猿君は、赤桐に克也を横取りされる前に克也を促し研究室を後にした。

 猿君は意気揚々と自転車を漕ぐ。久々に誰にも邪魔されずゆっくり話せるので、猿君は克也の声が聞こえやすいように車の少ない裏道を選んだ。並行して立派な国道が走っている裏道を通る車は少なく、道は細い。途中からはフェンスがはられた畑の間を通る一方通行の道になる。この辺りからは、たまに車とすれ違うときには注意しないとフェンスか車に足をこすってしまいそうになる程だ。


 運悪く、その最も細い道を通っている間に向かい側から大きめのセダンが入って来てしまった。猿君は電柱の手前で自転車を止めてやり過ごすことにする。車はスピードを落として走り去るかと思いきや、ぴったりと猿君と克也の乗っている自転車の脇で止まった。すぐに扉が開いて柄シャツに黒いパンツというVシネマスタイルの男が降りてきた。猿君は至近距離に降り立った男から自転車ごと克也をかばうように立ちはだかる。

「そこ、どきな。」

 実に横柄な態度である。当然、猿君は首を横に振った。

「何の用だ。」

 問い返すと、男は反対側の扉から降り立った二人の男と目を見合わせた。ちょっと口元が笑っている。

「お前には関係ない。いいから、どけ。」

 そんな回答で納得する人間はいない。黙っていると他の男が口を開いた。

「お前がボディーガードか?それじゃあ、簡単にどけないよなあ。いくらもらってんのか知らないけど、ちゃんと戦って敗れたようにしてやるから心配すんなよ。どうする?それとも本当に戦って敗れてみる?」

 猿君はへらへらと笑う男の言っていることがさっぱり理解できなかった。何の話かと首をかしげる。克也を見習って可愛く首を傾げたつもりだったが、首の骨がボキボキと音を立てたので、まるで挑発したようになってしまった。困ったな、と猿君は厳しくなった男達の顔をみて眉を寄せたが、鳴ってしまったものは仕方がない。

 男達は無言のまま、手に手に武器を取り出した。手前の扉から出てきた男はナイフを、車を挟んで奥の男の一人は銃である。猿君は薄暗い路地にぼんやりと光る白い刃を見て近くの人は銃じゃない、良かったなと思った。猿君の背中でそれらが見えていない克也はもちろん、猿君も武器に全く動じないので男達は一瞬自分達の手の中のものを確認してしまった。もちろん、それは期待通りのナイフや銃である。


 そのほんの数秒の間のことだった。

 猿君は手前にいた男の手をむんずと掴んで捻り上げた。もう片手でナイフを持っている手を掴んで開いたままの車のドアに叩きつけると、男は悲鳴を上げてナイフを落とした。手首付近を持っていた猿君には感触で分かったが、たぶん手首が折れている。手加減が足りなかったかと少し眉毛を下げて反省する。戦意を喪失した風な男を引き寄せて自分にはちょっと小さいながら盾の代わりにする。猿君は下手に動くと克也を背中にかばいきれなくなるので、立ちつくしたまま二人を見やった。

 もう一度、素朴な疑問が湧く。この人達はこんな物騒なものを持って何をしに来たのだろう。

「本当に、何の用なんだ?」

 男たちには、これもまた挑発にしか聞こえなかった。銃を構えた男が猿君の眉間に狙いを定めながら舌なめずりをして応える。

「お前には用はない。」

「何の用ですか?」

 猿君の後ろから今度は克也が質問した。克也には状況が見えていない。猿君に用でないのなら、きっと自分だと思って素直に質問してみたのである。男たちは鼻白んだ。彼らには本当の用事が何かなんて知らされていない。

「何の用にしたって銃を突きつけながら話もないだろう。」

 猿君は眉間を狙われるのは嫌いだ。当たったら死んでしまうではないか。目の前の男を片手で持ち上げて眉間をかばう。視界が悪くなるが死ぬよりマシだ。襟首を掴んで持ち上げられた男は首が締まって苦しそうだ。

 猿君と対峙していた二人の男は目の前で決して小柄ではない男を片手で持ち上げた猿君の姿に戦慄した。あのまましばらく吊るされていたら窒息してあいつは死ぬ。猿君の足元めがけて銃を放ったが、狭い路地で車が間に止まっている。的にできる範囲が狭すぎて当たらなかった。

 猿君は銃声を頼りに掴んでいた男を放り出した。いつまでも男をぶら下げておくわけにもいかない。銃を構えた男は車の上を飛んでくる仲間に誤って発砲しそうになって慌てて銃を下げた。よけきれずに二人して倒れ込む。

 もう一人、車の向こうにいた男は素早く車を回り込み猿君が吊るしていた男を放り投げた瞬間に襲いかかった。

 猿君の右肩にナイフを突き立てようとして片手で払いのけられる。それだけで自分の手にしびれが走った。飛んできた虫をいなす程度の動作から与えられた衝撃とは思えない。驚愕しながらも、今度は左手も添えて脇腹をめがけて飛び込む。猿君は腹筋に力を込めただけで避けようとはしなかった。避けるには空間が狭すぎたし、とにかく背中に克也がいる間は一歩も動けない。

 動かない猿君を見て、男は体ごとぶつかるようにナイフを突き立てようとした。しかし、猿君に達する前に前進が止まり、そのまま意に反して後ろへ戻された。両肩に猿君の毛深い手が乗っている。自分の体がいとも簡単に押し戻される感覚に男の額を悪い汗が流れて行く。猿君は相撲のはたき込みの要領で男の背中を下方向へ押して男を地面に寝転がらせた。片手で男のベルトを掴むと車の向こう側へ放り投げる。咄嗟に両手で持っていたナイフを片手に持ち替えていなければ、男は自分のナイフの柄でみぞおちを強打していたことだろう。それを回避できたのは良かったのだが、良くなかったのは、手首がぶらぶらになっている男をどけて、ようやく立ちあがった男が銃を構えているところに飛んで行ってしまったことである。

 今宵、二発目の銃弾は空に向かって飛んで行った。


「克也、しゃがんでて。」

 猿君は克也が小さくなる気配を確認しながら、落ちていたナイフをフェンスの向こうの畑へ放り投げた。そして立ち上がりざま車の下に手をかける。良く見ると車にはまだ運転手が残っていたが、目があっても彼は銃を向けては来なかった。

 猿君は「うっ」と野太い声を上げると車の下に手をかけた。

(まさかね。)

 運転手は一連の猿君の動作を見ながら、麻痺した頭に浮かんだ想像を打ち消した。

「うおあぁ。」

 咆哮しながら猿君は立ちあがった。もちろん車の下側を掴んだままである。

 車の片側を持ち上げるとどうなるか。当然反対側に倒れる。車は見事に横倒しになった。運転手の閃きは正しかったのである。ただし、自分で可能性を否定してしまったので無防備に地面に叩きつけられ意識不明である。

 車の外にいた黒い男たちは飛びずさってなんとか下敷きになる難を逃れた。

 猿君は克也の肩を抱いて車の陰に移動させた。銃を取り上げるまでは油断ならない。

 襲撃者たちは車を素手でひっくり返されてだいぶ冷静さを失っていた。銃を持った男は横倒しの車の天井側から腕を伸ばして、タイヤの間にかがみこんでいる二人の方へ出鱈目に撃ってきた。

 猿君はしゃがみこんだ克也に覆いかぶさって銃声が止むのを待った。車にぴったり身を寄せると車体がまだ熱かったが我慢する。やっと静かになったころに猿君はそっと体の向きを変えると車のサイドミラー越しに向こうの様子をのぞきみた。弾切れらしい。猿君は右肩を直立している車の底の部分に当てるとぐっと踏ん張った。

 車とは本来は横向きに安置されるものではない。元々安定が悪かったのか、ぐらりと傾いて今度はフェンスによりかかって底を空へむけるような角度になった。車に腕を置いて弾を込めていた男は車と畑を囲っていたフェンスの間に閉じ込められた。フェンスが思いっきり体に食い込んでボンレスハムにでもなったようだ。

 ナイフを持ったまま放り投げられた男は車の下敷きを免れて、もう一度、猿君の背後に隠れている克也の更に後ろから忍び寄った。しかし、素早く猿君が克也を引き寄せたので、伸ばした腕は宙を切った。再び猿君と対峙した男は先ほどの教訓に学んで闇雲に飛び込むことはしなかった。


 一瞬睨みあってから、たった一歩。


 猿君が大きく踏み込むタイミングで男は体を大きく横に交わしながら、猿君の脇へ回り込みナイフを背中に突き立てた。

 猿君は全くスローダウンせずに体を半回転させながら勢いよく手刀を男の首筋に叩きこむ。

 猿君が体をひねった拍子に背中から抜けたナイフを握りしめたまま、男は昏倒した。


 刺されたことなど気が付いていないように、猿君は襲いかかってきた全員が失神しているか動けない状態であるのを確認して回った。そして、頷くと止めてあったママチャリを拾い上げてこれまでと反対方向へ向けた。

「克也、学校に帰ろう。」

 大人しく丸くなっていた克也は頷いて猿君の方へ歩みよった。学校を出た時よりさらに暗くなった路上で再び二人乗りをして先ほど来た道を戻りだす。ふと、覚えのない臭いがして克也は鼻をひくつかせた。先ほどまで石鹸の匂いだった猿君から違う臭いがする。確かめるように背中をなでると、猿君はびっくりしたのかぶるっと背筋を揺らした。克也の手にはべったりとした感触が残った。見下ろすと黒く濡れている。自転車が街灯の下を通過した時に、それが黒ではなく濃い赤だと分かった。その瞬間に克也の意識が飛んだ。


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