運動会をしよう-9
黒峰からの連絡を受けた克也の里親、山城乙女は、そのときまだ会社で作業中だった。小一時間で克也が駅に着くが自分が迎えに行くのは無理そうだ。すぐに電話をして家政婦の吉野に迎えを依頼した。吉野は山城家の家政婦として働き出してすでに10年以上たっている家族のような存在である。克也にとっては和男と乙女が父、母であるとすれば吉野は叔母の感覚だった。
克也が最寄りの比較的小さな駅の改札を通って出口へ向かうと、吉野が待っていた。明るい色のエプロン姿で、手にはネギの突き出た袋を提げている。買い物がてら迎えに来たようだった。
「克ちゃん、おかえりなさい。」
「ただいま。お迎えありがとう。」
去年まで学校までの送迎を行っていたのも吉野だ。もう何千回とお迎えにきているが一度も欠かさず、克也は必ずお礼を言う。最初にお迎えに来てもらったときに乙女に教えてもらったことを律儀に守っているのだ。吉野は笑顔でどういたしましてと答える。家に向かって歩きながら、克也は今日の運動会の話をした。吉野は大学の研究室で突然、運動会が開催されたことに驚いたようだが克也が障害物競走で一位をとった話を聞くと、「それはすごいわ」と嬉しそうに笑った。
「だって、回りのお友達は体も大きい大人でしょうに。1位なんてすごいじゃない。それを知っていたら今日はネギトロ丼じゃなくてカツ丼にしたのに。あしたも丼物じゃ飽きちゃうものねえ。」
乙女は帰宅が遅く、夕食の支度は吉野に任せることが多い。その分、と張り切って弁当を用意するので克也の弁当はいつも手が込んでいて量も多い。
「お祝いのごちそうは乙女さんと相談しましょう。今日はもうすぐ帰って来られるから。」
山城家は山城夫妻、克也、住み込みの家政婦吉野の4人暮らしである。山城和男は家を開けることが多いので夕食の席には大抵乙女、克也、吉野の3人がつく。乙女の仕事がどうしても終らない場合だけ、吉野と二人で食事をすることがあるが、それは非常に稀だった。
その日も克也が配膳の支度をする吉野の後ろでレポートを読んでいると乙女が帰ってきた。吉野が年の割に大柄で骨太な西洋人体型であるのに対して、乙女は背が低く体型も少し丸みがある程度の小柄な女性だ。一応スーツを着て通勤しているが、それも学校の参観日によく見かけるようなスーツでありバリバリのキャリアウーマンには見えない。実は億単位の年商を上げる会社社長とはとても思えぬ外見である。
「ただいまー。いいにおい。揚げだし豆腐?」
乙女は6人掛けのテーブルと大きな食器棚で埋まっているダイニングルームに入ってくると台所の吉野に声をかけた。
「おかえりなさい。外れですよ。今日は茄子です。」
乙女は、あら、茄子もいいわねえ。と嬉しそうに台所の鍋を覗き込むと振り返ってダイニングの更に奥のソファーでレポートを読んでいる克也の方へやってきた。
「おかえりなさい、乙女さん」
克也は山城夫妻のことを和おじさん、乙女さんと呼ぶ。お父さん、お母さんとは誰も呼ばせようとしなかったからだ。
「ただいま。今日のニュースは何ですか。」
乙女はスーツ姿のまま克也の横に座って、訪ねる。これは一日の恒例行事で何か一つ、克也はその日の出来事を乙女に報告する。
「今日は、運動会に出たんだよ。」
当然、今日の報告内容は運動会になった。
「運動会?」
乙女は小さな目を見開いて、吉野同様驚いた顔をした。克也は少し愉快な気持ちになる。まさか自分が今日運動会に参加したなんて誰も思っていない。誰かがびっくりするところをみるのは愉快だった。
「乙女さん、ご飯できちゃうから先に着替えてきてくださいな。克っちゃん、運動会の話は夕飯食べながらでもいいでしょう。」
吉野が隣の部屋から声をかける。
「うん、いいよ。」
克也が頷くと、乙女は「そうね、そうしましょう」と立ちあがり自身の寝室へ入って行った。
吉野がネギトロ丼と茄子の揚げびたしとキャベツの酢のものを並べて、克也がお吸い物を並べるのを手伝い終わる頃には、イージーパンツにTシャツに着替えた乙女もダイニングに戻ってきた。吉野が最後に大きな煮物の鉢を食卓に置くと、いつも通りの夕食が始まった。最初は「あら、おいしい」と今日の献立の話をしていたが、すぐに克也の運動会の話に戻る。
「それで、克也。運動会ってどこの運動会に参加したの。」
「研究室だよ。」
克也が今日の経緯を話すと、乙女は「まあ」と嬉しそうに目を輝かせた。
「良かったわね。今度和男さんが帰ってきたら話してあげなくちゃね。ああ、でも写真があればいいのに。克也がゴールテープを切ってるところ見たかったわ。」
乙女と吉野が嬉しそうなのを見て、克也は好きな人に楽しい気持ちになってもらいたいという赤桐の言葉を実感した。
好きな人が嬉しそうにしていると自分も嬉しいものだ。
おうちに帰るまでが運動会ってことで、運動会編終了です。