運動会をしよう-8
その日、遅い時間の講義が入っていた猿君が19時頃に研究室に帰ってくると、さすがに打ち上げは終了しており、克也はレポート作成に励んでいるところだった。
「克也、遅くなってすまん。そろそろ帰れるか。」
克也の帰宅時刻は初日に教授からお達しがあった通りの刻限が守られている。また帰りの時間が重なる場合や、外が暗くなってしまった後はさりげなくだが、確実に誰かしらが駅まで一緒に帰るようにしていた。学校から駅までは自転車なら20分、バスに乗れば10分ちょっと程度である。遅くなった場合は、駅の近くに下宿している猿君か大木がスーパーが閉まる前に買い物をするだの、郵便局によるだのと何かしらの用事にひっかけては自転車の後ろに克也を乗せて送っていた。たまに赤桐が早く帰る日には赤桐の車で乗り換えのある駅まで乗せて行くこともあったし、犬丸と帰りが重なると黒塗りに運転手つきの物々しい車に同乗させてもらうこともあった。針生は学校から見て駅と反対方向に住んでいるため帰りが重なることが最も少なかったが、たまに本屋に行くとか、他大学へいくとかいう用事があると一緒にバスに乗っていった。針生の自転車は競技用で二人乗りには向いていないからだ。
この日は猿君の授業が終ったら、二人で駅前の本屋に寄ってから帰る約束になっていた。克也は扉の方を振り返ると、もう少しだけ待って、と言ってこれまでより早いペースでキーを打ち始めた。
「待つのはいいけど、本屋が閉まる前に着きたいからあと30分以内に出るからな。」
本屋の閉店時間が20時までに研究室を出るいい口実になるので、猿君と大木は年中本屋による用事があることになっている。
「うん」
そこから克也は猛然と作業をしていたが、ぴったり7時25分に作業を止めると7時半少し前に研究室を出る準備を終えた。猿君はその間、不在中に自分の机の上にお供えのように積み上げられていた打ち上げのお菓子の残りをぱくついて待っていた。
「では、お先に失礼します。」
結局、克也と猿君が連れだって研究室を出たのはちょうど7時半だった。そのまま校舎を出て、自転車置き場に向かい、猿君のボロボロの自転車の後部座席に克也が乗って駅へと走り出す。
自転車で誰かの後ろに乗せてもらうことも克也にとっては新鮮な体験だった。小さい頃を一緒に過ごした祖父は、自転車に乗っているところ自体見たことがなかったし、山城家にきたときにはもう10歳で大人の自転車の後ろに乗せてもらう機会はなかったのだ。
克也は帰り道に自転車に乗せてもらうことを楽しんでいた。大木の自転車には後部座席がないので立って乗る。そうすると大木の頭越しに随分と高いところから道路を見渡すことができた。一方、猿君の自転車は後部に固いながらも座席があるので座って乗ることができる。またがって座ると猿君の大きな背中しかみえないので、克也はいつも横座りしていた。克也は良くこの時間に、不思議に思ったのに誰にも聞けなかったことを猿君に質問した。猿君は何でも嫌がらずに納得するまで説明してくれた。克也の常識レベルの飛躍的向上の裏にはこうした猿君の日々の努力があるのだ。
その日は留守番電話について質問していた。
「うちの電話に留守番ていうボタンがあったんだけど、あれって携帯電話の留守録と同じだよね?」
ものを覚える順序が現代っ子だなあ、と思いつつ猿君は「そうだな」と返事をした。
「そうしたら、わからないのだけど、うちの留守番電話にずっと知らない男の人から伝言が入っているんだよ。間違い電話ってことをかけてきた人に教えることってできないのかな。『お手紙読んでいただけましたか。彼らに騙されないでください。お子さんのためにはもっと良い環境を用意して差し上げた方がよろしいのではないですか。よくお考えください。今ならまだ間に合います。』だって。うちには子供はいないのに何日もうちなんかにかけてきてて、本当にまだ間にあうのかな。」
猿君は自転車の運転を誤りそうになった。克也が子供かどうかは意見の別れるところだが、間違い電話にしては間抜けな間違いだし、そうでないなら何だか嫌な内容だ。
「ずっとか?」
「うん、ずーっと。電話の使い方教えてもらってから毎日聞いてるんだけどずーっと同じような内容で、同じ人から。間違いですよって教えてあげたいけど、僕は家の電話使ったらいけないって言われてるし。」
猿君は変質者かもしれないと危惧した。毎日ずっと変態電話をかけてくるとは気長だ。それを毎日克也が聞いているのも異常な気がした。家には保護者がいるのだろうから当然彼らも知っているだろう。有名人税としてはちょっと高いと猿君は克也一家を不憫に思う。
「あまりおかしなことを言っているようなら警察に通報するとか、電話番号変えるとかした方がいいぞ。家の人と相談してみろ。」
そうだねえ、と克也は珍しく言葉を濁した。留守番電話を聞いて遊んでいるのはまだ家族には内緒にしていた。昔電話に触ってはいけないと言い渡されたのを気にしているのだ。乙女に相談したら電話遊びがばれてしまう。幼い頃の言いつけを素直に気にするこれまで通りの克也と、犬丸や赤桐に唆されて楽しいことを我慢できなくなってきたいたずらっこの克也がせめぎ合っている。
駅のロータリー付近までやってくると、猿君は自転車を止めて本屋へ向かった。今日のお目当ては最上に依頼されていた雑誌である。猿君は無言でモーター雑誌の棚へ向かい、指定の雑誌をいくつか集める。この内容なら研究用ではなくて趣味だろう。一説によると最上と赤桐の共同研究は二人のモーター狂いが高じて自費でできないような改造を実現するために研究課題にねじこんだのだという話がある。
克也は猿君の後ろをついてきて普段は見向きもしない雑誌の棚を興味深そうに眺めている。
「克也は何かみたいものはあるか」
必要なものを全て揃えると、猿君は克也を振りかえった。
「今日はないよ。」
「そうか、付き合わせて悪かったな。」
猿君がそういうと、克也はふるふると首を横に振った。
「他の人と一緒にお店に入ると、普段なら見ないようなものを見るから面白いよ。」
家族以外の誰かと一緒にお買いものというのも、克也にとっては今年になって初めて体験したことだった。今年になってから、克也の周りは新しいことだらけだ。
「そうか。」
猿君は、頷くと会計に歩き出した。駅の改札まで見送るのがすっかり定着しており克也も無言で後についてきた。
その後、猿君は改札をくぐる克也を見送り、自分の自転車まで戻ると黒峰に電話をいれた。
「猿渡です。今改札を通りました。」
「分かりました。お疲れさまでした。」
黒峰は電話を切ると、すぐにメールを打つ。内容は定型化されているので打つと言っても送信ボタンを押すだけだ。そうして山城乙女の携帯電話に克也が最寄り駅を出た旨のメールが送られる。常々針生が過保護過ぎるとこぼすのも納得の構いっぷりだ。
「どうして克也の家族は送り迎えをしないんですか。」
4月の初めごろに針生が榊原教授にした質問である。学校の最寄駅から克也の家まで1時間程度かかる上に乗り継ぎもある。中途半端に帰宅時間に制限をつけるよりも、いっそ送り迎えをした方が安全に決まっている。
「去年までは、実際そうしとった。ただ、江藤君も普通に進学しておれば今年から高校生だったはずだ。多少距離のある通学も一人できるようになっていい頃だろう?だが、この春まで江藤君は一人で電車に乗ったことも無かったと聞いてね。御家族と相談して試しに送迎をやめることにしたのだよ。それでも暗くなった場合はなるべく誰かと一緒に帰るようにと、これは江藤君自身にも御家族から伝えられているはずだよ。」
「駅まで送っても、克也の乗換駅は新宿ですよ。駅構内とはいえ安全なルートってわけじゃないじゃないですか。」
針生としては納得いかなかった。克也に大人になるために普通の子供が体験するようなことをさせるべきだ、という原則は理解できるが今の暗くなったら送るという方法で安全が確保できているとは思えなかった。
「駅の中くらい選択肢の少ないところなら、多少常識がかけても帰宅できると思うがね。」
榊原教授は、実際のところ、と付け加える。教授は今年から全く送迎は無しにしたらどうかと提案したのだが、受け入れられず長い交渉の末にこのような結果に落ち着いたということだった。
針生は結局不満げだったが、それは自分が克也を送って行くのが面倒だからではなく、中途半端な保護の仕方が気になるという潔癖症的な彼の一面からくる不満だったので榊原教授もそこまで解決しようとはしなかった。
克也自身は自分を送るために学生達が都合を合せているという意識はなく、遅くなってしまったと思っていると大抵声をかけてもらえて助かる程度の認識しかしていなかった。そういう点において克也は普通ならどうするか、という常識のベースに不足があり、結果的に実際の出来事を正しく判断する能力に欠ける部分があると言わざるを得ない。