そして再び日常へ
桜の舞い散る公園で見知らぬ子供と遊んでいる幼い我が子を見つめながら男は微笑みを浮かべる。
希望は、私達が夢に描いた通りの子供になった。五感すべての完璧な記憶。完璧な思考。神経をすり減らす生活の中で明るく成長してくれるその姿に何度も救われた。しかし如何に希望が素晴らしくても、私が永久に希望と共にあれるわけではない。体の不調が誤魔化しきれないところまできている。落ち着いて休むこともできないままもう4年を過ぎた。不摂生な生活をしてきた私にしてはよくもったと思うべきなのかもしれない。もっと、叶うなら希望が一人で生きていけるようになるまで一緒にいたい。その輝きが誰よりも大きくなっていくのを傍らで見守りたい。自分にそれだけの時間が残されていないことが悔やまれる。せめて手遅れになる前に、希望の生きる道を用意しなければならない。今、私が希望を託すことができるのは、私にこの道を歩むきっかけを与えた人物しかいない。希望の誕生さえ知らせていない父。
彼の元に行く前に、希望が安全に生きていけるように全ての手を打たねばならない。何よりも愛しい我が子のために。
春が来て、東東大学はまた入学式を迎えた。今年の榊原研究室には新入生はいない。
赤桐と最上は引き続き軽量金属の研究を続けていく。赤桐は博士課程満了後も何気なく研究室に通ってきているのだが、どういう身分でそこにいるのかは判然としていない。
針生の退院は結局後期の終了にも間にあわず、ようやく新学期から学校に戻ってくることになった。なんとか卒業前に昨年度に発見した素材を元に博士論文を書くという。榊原教授は迫る自分の退官の日までにどうしても針生に教職のポジションを与えようと画策を始めている。大事な後継者を失いかけたことで、さすがの教授も焦ったらしい。針生も積極的な態度なので榊原教授の計画通り近い未来に教授室に針生の机が移動することになるだろう。こちらの方は教授が本気なので間違いないとみて良い。
犬丸も博士課程を無為に引き延ばすのは止めたようである。就職先はまだ明かされていないが、学究の世界には残らないと言っているので家業を継ぐか、何かビジネスの世界に出て行くことにしたようだ。
榊原教授は約束通り、猿君に遺伝子学の勉強を始められる環境を用意した。猿君は別のキャンパスの別の学部へ移籍になる。猿君が不在となる研究室で物理的に克也の保護を引き継ぐのは大木だ。大木は榊原教授から正式に克也のボディーガードを依頼され、喜んで引き受けた。彼の卒業は克也の卒業か猿君の帰還を見届けてからになる予定だ。
克也はこれまで通りの研究を続けるため猿君とは離れ離れだ。しかし猿君が山城家に完全に住みついてしまったので家に帰ればいつでも会える。彼は今年の初めごろから待ちに待った成長期を迎え、すぐに赤桐の身長を追い抜いた。まるで16歳という父と祖父のかけた成人の呪いが解けるのを待っていたかのようだ。赤桐からは大きくなって抱きしめにくいと不評だが、本人はとても喜んでいる。
克也は優しい仲間と出会い、苦労を乗り越え、それでもまた笑い合いながら新しい一年が始まって行くことに感動を覚える。これまで同じ様に毎日を淡々と記録してきた克也の記憶の中で、昨年は特別に大事なページがたくさんある。思い出そうとすれば温かい想い出がいくつも湧いてくる。それを与えてくれた大切な人達に囲まれて、新たな時間を過ごして行くことができることをとても嬉しく思う。
まだ克也を見慣れない新入生の好奇の目に晒されながらも、弾む足取りで意気揚々と研究室に辿りついた彼は研究室の面々の反応に胸を躍らせながら研究室の扉を開いた。
「おはようございます。」
春休みに変声期が訪れて少しかすれて低くなった克也の声に、一瞬静かになった研究室の面々は盛大に歓声を上げて克也を迎え入れた。そのまま、研究などそっちのけで声変わり祝いだなどと騒ぎ出した。
榊原研究室は今年も優秀な問題児をたくさん抱えながら、新たな一年を歩み出す。
これにて本編完結です。ご愛読ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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