共に歩く未来
友助の残した記憶を取り戻してから、克也は数日じっと一人で考え込んでいるようだった。猿君はまた学校を休んで一緒に過ごした。今度の克也は喋らないので二人で黙って座っているだけだったが、一人にはしておけなかった。欠席連絡をしたときの黒峰の様子からは、少なくとも黒峰は事情を理解しているようだったので猿君はつきたくない嘘をつかなくて済むことにほっとした。そして一週間後にはとにかく経過報告に向かうと約束した。
克也は一人静かに記憶を浚いあげていた。頭の中にある情報量が多すぎて克也の情報処理速度をもってして全て浚うのに1週間もかかってしまった。克也は思い出すことを終えると考えることを始めた。克也は初めて自分の全ての記憶を並べて自分という存在について考える時間を持っていた。自分はどこから来た、何者なのか。
約束の一週間が経ったので、猿君は一度学校へ行った。榊原教授に毎日の克也の暮らしぶりについて報告してから、研究室のメールチェックをしていると学生達が代わる代わる克也の様子を聞いてきた。榊原教授は克也が記憶を急に取り戻し、すこし混乱しているとだけ説明していたので猿君も、頭の整理に時間がかかっているようだとだけ説明した。猿君は克也のそばにいる必要があると、猿君自身が感じる限りいくらでも休めと言われたことに安心し、夕方には山城家に帰った。
部屋に戻ってドアを開けたところで一瞬立ち止まり、慌てて部屋に入ってドアを閉めた。克也がパソコンで最上からの誕生日プレゼントを見ていたからだ。音量は大きくないので扉を開けない限り気がつかないだろうが、猿君が家を空ける今日は吉野に特別来てもらっていた。思わずきょろきょろしてしまう。最上からの誕生日プレゼントは最上が入門編と位置付けたアダルトビデオだった。なぜ今。猿君は克也がどこか壊れてしまったかと声をかけられずに立ちつくした。
「ねえ、猿君。」
克也が画面にむかったまま話しかけてきた。振り返らなかったが足音だけでも克也はやってきた人を間違えない。
「僕は、こうやってできたんじゃないんだね。」
大抵の子供はそこまで手の込んだことをしなくてもできると思ったが、今はそれを指摘すべき時ではないと猿君は沈黙した。しばらく返事ができなかったが、とにかくこれまで克也が考えていたであろうこととアダルトビデオとの間に納得の行く関係性を見出し、安心した。
「人工授精で生まれる子供はたくさんいるよ。」
猿君はそう言って、克也の目を大きな手で塞いだ。そのまま片手でDVDの再生を終了する。克也は目を覆われるままに大人しく椅子に座っていた。猿君が椅子を回して自分の方に克也の体を向けてから手を下ろした。
克也は猿君の顔を見ながら話しはじめた。
「ずっと考えていたんだけど、やっぱり分からないんだ。僕のどこからどこまでが実験でできたもので、どこからどこまでが自然にできたものなのか分からない。天才だって言う人もいるけど、どこまでが元からあった能力で、どこからが作られたものなんだろう。ただの実験結果の部分を取り除いたら何が残るんだろう。僕が、これまでやり遂げたと思ったもののうち、純粋に僕の元々の能力だけでできたことはどれだけだろう。飛び級して今の学校にいて、今の研究室にいる。でも飛び級できたのも何もかも実験が上手くいったからなのかもしれない。全部が実験の結果で、僕の僕自身のものなんて何もないのかもしれない。」
「そういう風に考えるな。克也が生きてきて経験したことは実験じゃないだろう。そうやって学んだことも実験結果なんかじゃない。」
猿君は克也の肩に手を置いて顔を覗きこみ話しかける。
「皆が誕生日祝いに集まってくれたのも、今年克也が自分で考えて行動して、手に入れた友達だからだよ。克也が天才だからとか見た目がどうとか、そういう理由で集まったんじゃない。克也の一番大事なところは気持ちだよ。それは遺伝子情報には書いてない。だから、実験とも関係ない。」
「気持ち?」
克也は小首をかしげる。
「そうだ。それは絶対に実験結果じゃない。克也が誰かを好きだと思うのも、嫌いだと思うのも、実験結果じゃない。」
克也はまた考える。自分の形や能力は作られて与えられたものかもしれない。でも、そうではないものもある。それは克也だけの、克也が勝ちとったものだ。
「僕の経験は、実験結果じゃない。」
そう克也が呟くと、猿君は「そうだ」と力強く頷いた。
克也は部屋に運び込まれたままのプレゼントの山に目をやった。克也の経験において一番大事な一年の結晶がそこにある。視線を自分の手に落として、少し落ち着いた気持ちで考える。経験と気持ちが実験結果でないなら、実験結果を取り去れば克也が全部なくなってしまうということはない。そう思うと自分という存在が足元から砂のように崩れ去る恐怖は薄らいだ。
「僕が何にも覚えられなくなって、何にもできなくなっても、僕は僕なのかな。」
「天才じゃなくても、克也は克也だよ。」
「じゃあ、天才のところは僕じゃないのかな。」
全てが実験結果でないのなら、どこまでを自分と信じていいのか。猿君はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「友助さんと緑さんの実験のことをちゃんと理解できれば何が実験と関係があって、何が関係ないか分かるかな。」
克也が顔を上げて目が合うと、さらに続きを口にする。
「克也、俺は遺伝子の勉強をしてもいいかな。」
克也は意外な言葉に目を瞬かせた。
「俺がいつか、友助さんと緑さんの実験結果を理解できるようになったら、克也にちゃんとどこまでが本当の克也なのか説明してあげられるかもしれない。そういうのは嫌か?」
猿君が黙り込む克也の隣でずっと考えていたことだった。そしてそれは克也にとって、抗いがたく魅力的な申し出だった。自分の記憶の中にあるデータを克也は読むことができるが、全てを理解することはできない。自分の両親の実験結果として自分が生まれてきたことは分かるが、実験がどういうものだったか詳細は分からない。自分の性格や能力や体のどこに影響しているかも分からない。知りたいというのは当然の欲求だ。しかし、この実験結果を理解できるようになるということは、いくら猿君に素質があっても非常に長い時間を費やす必要があるということは克也にもわかる。自分の両親が20年は研究していただろう内容だ。これに取り組ませれば彼の人生の進路を決定づけてしまうことになる。何より自分と人生を別ち難く結びつけるということは克也の背負う江藤友助の実験結果という重荷を共有するということになる。それも簡単に首を縦に触れるものではない。
一方で、もし、父と母の実験データを本当の意味で解読するとすれば、それに取り組めるのは自分と非常に信頼のおける人だけだ。そして榊原研究室のメンバーで生物を専門にしているのは猿君だけだ。それはつまり、この猿君の申し出を受けないのなら克也は頭の中の自分の設計書と一人きりで向きあわなければならないということになる。自分が人間ではないかもしれない証拠がいつ現れるかという恐怖を味わって記憶の中のレポートを読んだ後では、あの作業をもっと厳密に、時間をかけて一人で乗り切れるとは思えなかった。
克也はただ沈黙した。猿君に助けてほしい気持ちと彼を危険で狭い道に引きこみたくない気持ちが戦っていた。
「克也。すぐに決めなくてもいい。でも、もし克也が嫌じゃないなら俺は友助さんと緑さんの実験について調べたい。ちゃんと克也に説明したい。」
克也と猿君はしばらく見つめあっていた。
「猿君。僕のせいで猿君の人生が台無しになってしまうかもしれないよ。」
猿君は笑顔を浮かべた。
「そんなことない。俺は克也が一緒にいてくれれば台無しじゃないよ。それに、二人で同じ目標を持てると思えば悪くないだろう?」
それから長く長く二人はじっとしていた。克也が考える間、いつも猿君は黙って傍にいてくれる。話しかければ答えてくれる。いつものように、克也が悩む間、猿君は黙って待っていた。
やがて猿君と見つめあったままの克也の瞳からパタパタと涙がこぼれた。猿君と知り合ってから克也が初めて流す涙だった。
「猿君、ありがとう。」
翌週、克也と共に登校を再開した猿君が教授室を訪れ、遺伝子の勉強をすると言ったとき榊原教授と最上は驚かなかった。
「江藤君は何と言っているんだね」
「待ってくれるそうです。俺が、友助さんと緑さんのレベルまで到達するまで。」
榊原教授はため息をついた。
「君達二人が納得していれば私に異論はない。ただ、そうなるとさすがに榊原研究室では指導しきれない。転籍の手続きをしなければならないね。」
最上は椅子の背もたれに寄りかかったまま、直立する猿君に声をかけた。
「針生の退院祝いと合わせて送別会でもやるか。お前の可愛い子ザルはこっちに置いて行くんだろ?」
猿君は頷いた。
「よろしくお願いします。」
猿君に頭を下げられて最上は姿勢を正した。
「まかしとけ。」
しかし、すぐに元の姿勢に戻って笑う。
「って、お前は本当に克也の親ザルっつうか旦那みたいだな。」
猿君はそうだろうかと不思議そうにしたが、榊原教授まで苦笑いなので克也がお嫁さんになっているところを考えてみた。可愛いけどちょっと違うなと打ち消した。
「克也は男ですよ。」
一応猿君がそういうと最上は呆れたように「知ってるよ」という。
「それでもお前があいつの嫁だというよりは気持ちのいい例えだっただろうが。」
猿君は素直に先ほどの想像の男女を入れ替えて、うなだれて頷いた。
「まあ、関係なんてどうでもいいよな。頑張れよ。」
最上は立ち上がって猿君の肩を叩いた。猿君はしっかり頷いた。
榊原教授も立ち上がって猿君と握手した。
「私からも江藤君のこと、よろしく頼む。私ができる限りの援助は惜しまんよ。」
猿君は榊原教授の手を握りつぶさない程度に力を入れて握り返した。
研究室に戻ってきた猿君が克也に頷いて見せると、克也はまだちょっと複雑そうだが一応笑顔を返した。その様子をじっとみていた犬丸が「怪しい」と叫ぶ。例によって、どうしようもない仮説を並べ立てては赤桐にめった切りにされ、あっという間に研究室はいつも通りの喧騒に包まれた。