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榊原研究室  作者: 青砥緑
第五章 冬
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大人の役割-2

「私からもお聞きしていいですか」

 榊原教授に問われて、乙女も頷いた。

「私が頼まれたのは、お母さん、鍵をくださいと言われたら、今日のあの言葉を言うことでした。催眠術みたいなもので、これを聞けば克也は自分の両親の研究成果を思い出すと聞いていました。それがあまり嬉しくない出生の秘密に関するものであるということも。誰かにこのことが知れれば、お金目当てに克也の頭脳を奪いにくるから誰にも言っていけないとも念を押されました。研究成果の出元がS&Kリサーチだろうというのは友助さんの略歴から想像がついていましたが、確証はありませんでした。ただ、幸助さんの遺言が頭にあったものですからS&Kリサーチ関係からの連絡は全てシャットアウトしていました。あの誘拐事件を思えばそうしておいて良かったのだろうと思っています。」

 乙女は淡々と説明する。和男は妻の秘めていた秘密に驚いた。なぜ話してくれなかったのかと思うが、自分が今の妻ほど立派に榊原教授と渡り合えないことも自覚があった。つまり江藤幸助は、この差を見抜いていたということだ。ずっと父親として、乙女と克也と3人で家族として一番近い位置に居たつもりが、まるで自分は蚊帳の外で、こんなに重大な秘め事がなされていたことに落ち込み、憤りも感じる。しかし和男にとって、それよりも克也のことが何よりも心配だった。自分が頼られなかったのが頼りないせいならば、それは甘んじて受け止めよう。和男は黙って教授と妻の会話を聞いていた。江藤幸助が克也を託したのはこうした山城和男の身の程を弁える潔さと、後ろ暗い商売をしているにも関わらず損なわれない、甘さあるいは優しさを評価してのことなのだが、和男にそれを知る由は無い。


「ごめんなさい、和男さん。ずっと黙っていて。それが幸助さんからのお願いだったの。」

 乙女に謝られて、和男は微笑んで首を横に振った。

「幸助さんがそう決めたなら、乙女が謝ることじゃないだろう。これまで、一人で良く頑張ってあの子を守ってくれたね。」

 罵られても仕方がないと思っていた乙女は夫の思いがけない優しい言葉に目を真っ赤にして和男の手をテーブルの下で握った。しばらく必死に涙を堪えていたが、それも長いことではなく、きりりと顔をあげると改めて榊原教授の方へ向き直った。


「克也が知った事実は一人で抱えるには重すぎます。私達はこれからどうやってあの子を支えてやればいいんでしょう。」

 秘密があると知っていた乙女ですら驚いたような自分の出生を知って、克也がどうなって行くか全く予想がつかなかった。今の優しくて素直な克也が、失われてしまう気がして気が気ではなかった。なぜ、こんな過酷な過去を、彼の父親は克也に言い遺し、江藤幸助も完全に奪い去ることをしなかったのか。克也を思うと、どうしても不憫だと言う思いが付きまとう。親なのだから厳しく接しなければと思いながらも、どうしても克也に甘くなってしまうのも彼の出生の秘密があったからだ。どうにか力になってやりたい。守ってやりたい。襲い来るものが強大だと分かっているからこそ、強くそう思うのだ。周りから過保護だと言われようと、乙女はこれまで気にもかけなかった。誰も克也の背負うものを分かっていないのだ。自分達だけが理解して、彼を守ることができる。克也自身が、過去の記憶を取り戻した今、新しい守り方を考えなければいけないだろう。ただ、危険がやってくるのを防ぐだけではもう足りない。何より今は克也の心が壊れてしまわないように彼を支えてやらなければならないはずだ。

 しかし、榊原教授の返事は乙女の期待とは違うものだった。

「今は黙って見守りましょう。いつかうちの針生が言ったように一人立ちするまでは大人が守り育ててやらなければなりませんが、最終的には彼自身の選択の問題になります。どう生きたいか。彼の過去に何があろうとも、結局立ち向かうのはその問いでしかない。そう思えば、どんな若者も必ず行きつく問いではないでしょうか。彼もまた、その問いに答えられる準備ができれば自分で選ぶことになる。ただ、今はまだ選択に必要な準備が彼自身の中で整っていない。ゆえに、我々にできることはその時まで選択の余地を残しておいてやるということしかないと思うのですよ。人より考えなければいけないことが多い分、人より長くかかるかもしれませんが、いくら時間がかかろうと待っていてあげようと思います。彼を導くことは難しいでしょう。しかし彼には共に歩いてくれる仲間があります。重荷を分かち合うのも、行く先を示すことも、もう我々の仕事ではなくなってきていると思いますよ。」

 榊原教授は目線で二階を示した。二階の克也の自室には克也の隣に猿君がいるはずだった。

「そんな簡単なことでしょうか。あの子の過去は、思い出したものは、他の子供たちが親の離婚やなんかと向き合うのとは全くレベルの違うことなんですよ?」

 乙女が半ば榊原教授の楽観を咎めるように言うと、教授は静かにそれを否定した。

「何が大変なことで、何がそうでもない悩みかなんてことは、誰にも言いきれません。克也君の悩みはそれは大きなものでしょう。ですが、絶対に一人で抱えきれないと言いきることはできないでしょう?彼はまず自分の足で立って、自分で向き合わなければいけません。私達は見守り、支えることはできるが、彼の悩みを奪い去ることはできないのですよ。」

 榊原教授の諭す言葉に乙女は口を閉ざす。納得したわけではない。だが、分からないわけでもない。病室で克也の苦しみをどんなに代わってやりたいと願っても代わってやれなかったように、乙女が克也になってあげることはできないのだ。

「大人の役割は見守ることです。待ちましょう。彼はとても強い子です。克也君を信じて、待ちましょう。」

 榊原教授に重ねてそう言われて、乙女はゆっくりと頷いた。克也が本当はとても強いということは、ここ数カ月の間で乙女も嬉しい驚きをもって学んだ。我が子を、信じる。今、きっと自分も克也と一緒に試されているのだ。


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