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榊原研究室  作者: 青砥緑
第四章 秋(後篇)
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傷は癒える-1

 克也は警察の事情聴取を終えた山城夫妻から吉野が爆発事故に巻き込まれたことを聞いた。爆発事故が起きた経緯は吉野の意識が戻った今も明確にはなっていない。爆発が起きたのは間違いなく吉野が運転していた車のトランクだが、爆発物らしいものが発見されず前後を車にぶつけられたことで吉野の車から燃料が漏れだし、何かのはずみで爆発に至ったという説が最も重視されていた。山城夫妻も警察の報告通りに克也に説明したが、目が覚めてすぐに吉野が針生と犬丸を名指しで礼を述べたことで彼らに何かしら関係があるのだろうとは思っていた。詳しくは吉野が語らない限り聞かないつもりだった。そのことも一応克也には伝えておく。


 克也はまだ少しふらつくものの、自分で歩き回れるところまで回復していたので翌日の朝食後すぐに山城夫妻に付き添われて隣の病棟の吉野の病室へ向かった。病室には吉野の息子の悟がいた。山城一家が姿を見せると悟は無言で席を外した。悟は母の仕事をある程度理解していて仕事内容に深入りしない。当然、山城一家とも一線引いている。克也も数回顔を合わせたことがある程度だ。

「吉野さん」

 和男が声をかけると、吉野は首を持ち上げて和男の方を向き、和男に肩を押されている克也を目にいれた。

「克っちゃん!」

 かすれ声で名前を呼ばれた克也は体中包帯だらけの吉野を見て泣き出しそうな顔をして吉野に駆け寄った。

「吉野さん、ごめんなさい。ごめんなさい。」

 克也は消え入るような声で謝り続けた。

「どうして謝るの。克っちゃん。」

 気丈な調子で名前を呼ばれて顔を上げると、吉野はあちこちにあざと赤い火傷が残る顔で笑顔を浮かべて「おかえりなさい」と言った。

 克也は泣き笑いのような笑顔で答えた。


「ただいま。」


 そのまま、吉野の傷を気遣って控え目に抱きしめあう。たった一週間離れていただけなのに生きた心地がしなかったと吉野は何度も克也の顔を確認して元気そうな様子を喜んだ。



「吉野さん、家に帰ってくる?」

 克也は少し自信なさそうに尋ねた。もうこんな目にあったら仕事を止めてしまうのではないかと不安になったのだ。先ほど病室に入るときに無言で出て行った吉野の息子も気になっていた。それでも、克也にとって吉野は大事な家族だ。居なくなってしまうのは寂しい。それが自分のせいであればなおさら辛い。

「ええ。」

 吉野は笑顔で頷いた。克也は嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちで自分が訊いた癖に返事ができず、ただ頷いた。


 乙女と和男は後ろで克也と吉野の様子を見守りながら、感情の起伏が少なく他人のことに興味を示さなかった克也の変わりように改めて驚いていた。吉野がおかえりと声をかけたときなど、泣くかと思った。春から少しずつそういう変化はあった。人を気遣うようになり、夏になる頃には家でもよく笑うようになった。多様な感情の動きを段々と覚えてきた。吉野にも分かるようで、複雑そうな表情を浮かべた克也を成長した息子を見る目で見つめていた。辛い思いをして可哀相、可哀相と思うが、克也はただ辛いだけでなくちゃんと日々起きる出来事の中で成長している。

 克也はそのまましばらく吉野の病室に留まり、お互いの身に起きたことを説明していた。昨日、細野が病室に忍び込んできたと聞いて吉野は思わず自分の病室の戸口を向いたが、ふと克也を振り返って「それは何時頃?」と訊いた。

「僕は覚えてない。でも昨日の夜なか2時ごろだって。」

 そう答えると、吉野は「ああ」と頷いた。

「看護師さんが良く来てくれるなと思ったのよ。こっちにまで手を回してくれたのかしら。」

 克也の病室は猿君が常駐しており、手洗いにでも外すときは必ず最上と交代する。吉野の部屋は主に息子が付き添っていたが昨日から看護師が顔を出す頻度が増えていた。吉野自身気づいてはいないが隣の個室は病人ではなく吉野の保護のためだけに大徳寺家の人間が詰めている。


「でも、捕まってよかったわね。針生さんが捕まえてくれたの?」

 話の流れ上、部屋にいたのは針生と乙女だ。なんとなく針生が捕まえたのではないかと思って聞いてみると克也と乙女はそれぞれに微妙な表情をした。

「乙女さん、あのとき針生さんはどうしたの?」

 克也は途中からまともな記憶がなく、細野がどうやって捕まったのか覚えていない。克也に振りかえられて乙女は、克也の背に手を乗せてからゆっくりと説明した。

「捕まえたのは最上先生よ。針生さんは克也を庇ってくれて具合を悪くしてしまっていたから。」

「怪我をしたの?」

 克也の声は穏やかだが、背に置いた手から彼が緊張していることが分かった。目の前の吉野の姿を見て泣きそうになったばかりなのに、また一人自分の周りで怪我人が出たと思ったら耐えられないだろう。針生の件は、絶対本人も文句を言わないから、と犬丸に押し切られて克也にはせめて針生が意識を回復するまで伏せておくようにと言われていた。しかし、まるで嘘をつくことはできない。

「怪我ではないわ。あの人が持っていた注射が針生さんに刺さってしまったから具合が悪くなってしまったのよ。」

「どのくらい?」

 克也は真剣だ。乙女は和男を振り返った。和男が口を開く。

「完治するのに何カ月もかかるそうだ。」

 小さく息を吸う音が二つした。克也と吉野である。

「治るの?」

 克也が恐る恐る聞くと、和男は今度は自信を持って頷いた。

「治る。」

 それだけが救いだった。実際のところ治ると言っても治療はかなり辛いものになるという話だった。「あいつはマゾだから治療が辛いほど嬉しくて退院をしぶるだろう。」と榊原研究室の面々は大したことない風に説明してくれたが、今朝駆けつけた針生の母親の泣きはらした顔を見れば、それが気休めに過ぎないことはすぐ分かった。


 克也はじっとしていたが、吉野がそっと肩を叩くと顔を上げた。

「克っちゃん、私は大丈夫だから。針生さんに会えるようになったらお礼を言いにいったらいいわ。傷ついても皆治るのよ。心配いらないわ。克っちゃんは自分の心のね、傷をきちんと治すのよ。それが一番大事なことよ。」

 克也は首をかしげる。心の傷に覚えがない。

「気を失ってもいなかったのに隣にいた人のことを覚えてないなんて、克っちゃんらしくないもの。すごく怖かったんでしょう。」

 そう言われてみれば、確かにそうだ。それを心の傷というのか、と克也は学習する。

「ありがとう。吉野さん、本当にありがとう。」

 山城夫妻は吉野に向かって頭を下げて、吉野を恐縮させた

「針生さんは、まだ会えないから会えるようになったらすぐにお礼を言いに行こう。他の皆さんにも改めてお礼を言おうな。」

 病室へ戻る途中、和男はそういって克也の肩を抱いた。もうそろそろ16歳になるというのに相変わらず小さい体。声変わりしない声。どうしても頼りなく思えてならない息子に不幸が次々と振りかかるのが悲しく、火の粉を振り払ってやれないのが腹立たしい。針生が身代わりになってくれた注射も、彼の体格と体力だから完治が望めるのであって同じ量を克也に投与していたらおそらく死んでいた。自分の無力を思い、孫を託してくれた江藤幸助に申し訳が立たないと思った。落ち着いたら墓参りにでも行ってもっと力強く見守ってくれるように頼まねばなるまい。


本作における母性の代名詞は実は吉野だと思います。

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