慣れたら良いね
人間は慣れる生き物だから。昔母さんがそんな事をよく口にしていた。
楽しい事や嬉しい事も慣れてしまうけれど、苦しい事も辛い事もいずれは慣れるから。今だけ我慢すれば良いんだよ。
頬に付けられたお揃いの痣を手当てしながら、まるで生気のない瞳でそんな事を呟いていた。
住宅街に続く通りの内の一つ、一番の近道は狭くて暗い。
街灯があまりないことを知っている女子供が避ける道で、深夜ともなれば自分の足音さえいやに響いて気分が悪い。
恐怖を紛らわすために繋げた電話は然したる意味もなくて、反響する自分の笑い声に慄いて思わず背後を振り返った。
如何に満月と言えど曇り空では何の役にも立たない。——どうしたの。通話相手に何でもないよと震える声で答えて、心持ち足を早めた。
ローファーの底がアスファルトに当たる。かつかつかつ。家まではあと五分ほどだろうか。角を曲がって。突き当たりにぽつんと立った街灯を左に入って。かつかつかつかつ。ふうふうと呼吸が浅くなる。
塾で友人と話しているくらいならさっさと帰れば良かったのに。ポケットの上から鍵の入っている事を確認する。飛び出たキーホルダーが腕時計に引っかかって、かしゃり、と音を立てた。
あ。小さな声が漏れる。余計な動作のせいで引き摺り出されたそれがポケットから落ちてしまっていた。ぴたりと足を止めて拾い上げようと再度振り向く。
不意のそれに間に合わなかった足が一歩踏み出して、じゃり、と一つ余分な足音が立った。
「え」
か細い声が暗闇に響く。息を殺す。何かあったの。通話相手の声がしんとした通りにいやに大きく聞こえた。
何でもない、と、思う。分かんない。半分息みたいな声で彼女はそれに答える。ごめん、急ぐ。振り向いて思い切り走り出す。がちゃがちゃと鞄の金具が煩く鳴った。
角を曲がって。
突き当たりにぽつんと立った街灯を左に入って。
握り締めるだけになったスマートフォンから叫ぶような女の声がここまで聞こえる。ねえ、大丈夫なの? どうしたの! 涙目の彼女は分かんない、分かんない、と壊れてしまったスピーカーのようにそればかりを返した。
「ママ! ねえ! 何かいるの」
街灯に照らされた影は彼女のそれ一つではなかった。隠す気もない足音がどんどん彼女に迫っていく。
「変な人が」
人間は慣れる生き物だから。昔母さんがそんな事をよく口にしていた。
楽しい事や嬉しい事も慣れてしまうけれど、苦しい事も辛い事もいずれは慣れるから。今だけ我慢すれば良いんだよ。
頬に付けられたお揃いの痣を手当てしながら、まるで生気のない瞳でそんな事を呟いていた。
この苦しさにも慣れるの。
この悲しさにも慣れるの。
子供の頃の呪いのような、譫言のような母さんのそれを思い出す。
馬鹿な女だ。愛人なんて気取ってさ。結局はあの男も正妻のところに帰ったのに。閑散とした葬式で、知らない大人が遺影を見て笑っていた。
慣れたらどう良いことがあるの。母さんは結局教えてくれることもないまま苦しみのないところに一人で逃げてしまった。
「ママ!」
はあはあと息が荒くなる。半分血は繋がっているはずなのに、彼女は随分と怖がりであるらしい。似ても似つかない。我ながらそう思った。
興奮を抑えきれないまま鞄を思い切り掴んで彼女を引き倒す。きんきんと煩い女の声を出し続けていたスマートフォンは、衝撃で遠くへ吹き飛んでいった。
人間は慣れる生き物だから。おんなじ文言を嘯く。
見開かれた目がおれを見上げる。慣れるよ、お前も、あの男も。悲鳴でも上げるみたいに大きく息を吸い込んだ彼女の口を、ぎゅう、と拳で上から抑え込んだ。




