あの日、私を刺したのは
玉ねぎを刻む音が、静かな台所に響いていた。
涼森鈴は、まな板の上の玉ねぎを手際よく刻んでいく。
「うわ、目にしみる……」
思わず顔をしかめながらも手は止めない。
母は仕事で帰りが遅い。
高校生になってからは、こうして鈴が夕飯を作ることも珍しくなかった。
壁の時計を見る。
午後六時十三分。
妹が帰ってくるまでには完成させたい。
「よし、次は人参っと」
そう呟いて冷蔵庫へ向き直ろうとした、その時だった。
不意に、背後から人の気配を感じた。
誰かいる。
一瞬、妹が帰ってきたのかと思ったが、玄関の開く音は聞いていない。
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
反射的に振り返った瞬間。
腹の奥に、焼けるような熱を感じた。
「え……?」
何が起きたのか理解できない。
ぽたり、と床へ落ちる液体の音が耳に届いた。
ゆっくりと視線を落とす。
腹部に銀色の刃が突き刺さっていた。
その事実を理解した途端、激痛が身体に押し寄せてくる。
「ぁ……っ!」
喉から掠れた声が漏れる。
足から力が抜け、膝が床へ落ちた。
呼吸がうまくできない。
苦しい。
視界がぐらぐらと揺れる。
その中で、ようやく目の前の人物の姿が見えた。
二十歳前後と思われる女性。
長い黒髪。
見覚えのない顔。
「そんな……」
だが、その女性は鈴以上に青ざめていた。
まるで自分が刺されたかのような顔。
唇は震え、瞳には涙まで滲んでいる。
「違う……なんで……?」
女性の口から、かすれた声が漏れる。
意味が分からない。
刺してきたのはそっちだ。
それなのに、なぜそんな顔をしているのか。
どうしてそんなにも狼狽えているのか。
次の瞬間、逃げるように台所を飛び出していく。
残されたのは鈴一人。
床には血だまりが広がり続けていた。
意識が急速に遠のいていく。
「……ふ、ぐ……っ!」
鈴は震える手で腹に刺さった包丁を掴んだ。
助からなければ。
このままでは死んでしまう。
本能のままに、勢いよく刃を引き抜く。
ずるり、と嫌な感触がした。
「……あ、れ……?」
傷口から血が溢れ出した。
手のひらで押さえようとしても意味がない。
指の隙間から温かい血が次々と流れ落ちていく。
そういえば以前、テレビで見たことがあった。
刺された時は抜いてはいけない、抜かずに救急車を呼べと。
そんな知識を思い出した時には、もう遅かった。
力が入らない。
指先が冷たい。
寒い。
お母さんと妹は大丈夫かな。
帰ってきたら、びっくりするだろうな。
せっかく夕飯を作ってたのに……。
そんな取り留めのないことを考えながら、鈴の意識はゆっくりと闇の底へ沈んでいった。
◯
「――っ!?」
鈴は勢いよく身体を起こした。
呼吸は荒く、全身が汗ばんでいた。
心臓が強く脈打つのを感じる。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
脳裏へ焼き付いた光景が離れない。
「……っ」
鈴は反射的に腹を押さえた。
だが、そこに傷はない。
あるのは身体の奥に残る倦怠感だけだ。
「ここ……どこ……?」
辺りを見回す。
見覚えのない部屋だった。
白い壁、質素なベッド、小さな机、本棚。
間違いなく自分の知らない場所だった。
夢とは思えない。
頭も冴えているし、身体の感覚もある。
鈴はゆっくりとベッドから降りる。
足元がふらついた。
身体が重い。
熱でもあるのだろうか。
頭がぼんやりする。
その時、部屋の隅に置かれた姿見が目に入る。
何気なく視線を向けた鈴は、その場で動きを止めた。
「……え?」
鏡の中に映っていたのは自分ではなく、見知らぬ女性だった。
「なに……これ……」
震える手を持ち上げ、顔に触れる。
鏡の中の人物も同じように手を上げ、顔に触れた。
「……あ」
脳裏に、あの光景が蘇る。
鈴を刺した女の顔。
忘れられるはずがない。
「うそ……」
全身から血の気が引いていく。
理解が追いつかない。
理解したくもない。
だが、目の前の現実は容赦なく答えを突きつけてくる。
この身体は自分のものではない。
自分を殺した犯人の身体だった。
「……入れ替わった?」
それ以外に説明がつかなかった。
頭が混乱する。
考えようとしても思考がまとまらない。
その時、机の上に置かれたスマートフォンが目に入った。
鈴は吸い寄せられるように手を伸ばし、震える指で画面を点灯させる。
「……六月、二十一日?」
六月二十一日。
紛れもない今日の日付だった。
それだけではない。
「五時五十二分……」
刺されたのは六時過ぎだったはずだ。
つまり。
「まだ……刺される前……?」
スマートフォンを握る手に力が入った。
自分は確かに刺されて死んだはず。
腹を貫かれる感触も、流れ出る血の温度も覚えている。
あれが夢だったとは思えない。
ならば、今の状況は何なのか。
「……っ」
ある考えが脳裏をよぎる。
鈴は鏡へ視線を向けた。
そこに映るのは、自分を刺したあの女の顔。
もし、本当に身体が入れ替わっているのだとしたら。
今、この身体に自分の意識があるように。
自分の身体にも、誰かの意識が入っているはずだ。
そして、その誰かは。
「まさか……」
嫌な予感が膨れ上がる。
自分の姿をして、母と妹に近づく犯人。
「帰らなきゃ……!」
母と妹が危ない。
もうすぐ二人は家へ帰ってくる。
もしあの女が、自分の身体を使っているのだとしたら。
「お願い……!」
鈴は部屋を飛び出した。
何が起きているのか分からない。
なぜ入れ替わったのかも分からない。
死んだはずの自分が、なぜこうなっているのかさえも。
だが、そんなことは後回しだった。
今はただ一つ。
家族を守らなければならない。
その想いだけを胸に、鈴は全力で走り出した。
◯
住宅街を全力で駆け抜ける。
息が苦しくても、足が痛くても、鈴は走った。
立ち止まるという選択肢はなかった。
頭の中で最悪の事態を考えてしまう。
「やだ……!」
絶対に防がなければならない。
角を曲がった瞬間、見慣れた一軒家が視界に飛び込んできた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
家の前で足を止める。
外から見る限り異変はない。
何も起きていないが、胸騒ぎは消えない。
鈴は玄関へ向かいかけて、足を止めた。
駄目だ。
もし家の中にあの女がいるのなら、玄関を開けた瞬間に気付かれる。
鈴は家の裏へ回った。
見慣れた窓が少しだけ開いている。
我が家のルール。
共働きで家を空けることが多いため、戸締まりは徹底する。
その代わり、誰かが締め出された時のために一階の窓だけは少し開けておく。
母が決めたルールだった。
昔は不用心だと思っていたが、今だけは感謝した。
鈴は静かに窓を開ける。
音を立てないよう慎重に身体を滑り込ませた。
誰もいない。
時計の秒針だけが静かに時を刻んでいる。
鈴は息を潜め、耳を澄ませる。
すると。
台所の方から、かすかな物音が聞こえた。
金属が何かに触れる音。
鈴の身体が強張る。
母か妹であってほしい。
だが、そんなことはあり得ない。
六時十三分までに、二人は帰ってきていない。
それが紛れもない答えだった。
鈴は右手に握った包丁へ視線を落とした。
部屋を飛び出す前、護身用にと掴んだものだ。
手汗で柄が滑りそうになる。
自分でも分かるほど手が震えていた。
人を傷付けるためじゃない。
自分や家族を守るためだ。
もし襲われたら。
母や妹に危害を加えようとしたら。
その時は。
鈴はゆっくりと廊下を進んだ。
鼓動と耳鳴りがうるさい。
一歩、また一歩と足を進める。
そしてついに、台所が視界へ入った。
人影がある。
その人物は包丁を握っていた。
銀色の刃が照明を受けて鈍く光っている。
鈴は息を呑んだ。
制服と肩まで伸びた髪。
小柄な背格好。
見間違えるはずがない。
自分自身だった。
だが、中身は違う。
自分を刺したあの女だ。
相手はこちらに気付いていない。
今なら先手を取れる。
そう思った。
なのに、足が動かない。
本当に人を刺すのか。
一瞬だけ迷いが生まれる。
その時、目の前の人影が動いた。
振り返ろうとしている。
鈴の脳裏に、あの光景が蘇った。
恐怖が理性を押し潰した。
今度は家族がやられるかもしれない。
「――っ!」
鈴は床を蹴った。
一気に距離を詰める。
相手が気配に反応して振り返ったその瞬間。
鈴は震える手で包丁を突き出した。
ぶつり。
柔らかい何かを裂く感触。
時間が止まったような気がした。
相手の身体が小さく揺れる。
そして。
「……え?」
その声を聞いて、鈴の心臓が止まりそうになった。
驚愕と困惑。
理解できないという戸惑い。
それは、あの時の自分と全く同じ反応だった。
「そんな……」
顔が青ざめていく。
唇が震え、瞳には涙が滲んでいた。
「違う……なんで……?」
鈴の手から力が抜けた。
忘れるはずがない。
自分が刺された時、目の前にいた女が、全く同じ反応をしていた。
今の自分の言動が、そのまま重なる。
頭の奥で、バラバラだったピースが繋がっていく。
なぜ彼女は、自分が刺されたかのような顔をしていたのか。
どうして狼狽えていたのか。
答えは目の前にあった。
今、自分が見せている反応こそが、その答えだった。
違う。
違うはずだ。
そんなこと、あるわけがない。
自分を刺した犯人は――。
吐き気が込み上げる。
受け入れられない。
受け入れたくない。
だが、目の前の現実は容赦なく真実を突きつけている。
気付けば鈴は背を向けていた。
現実から逃げるように、ただ無我夢中で、その場から走り去っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
暇つぶしで適当に考えて思いついたものを練習として書いてみました。
設定や文章がボロボロだと思うので、ぜひお気軽にご指摘やご感想などのコメントをいただけるととても嬉しいです。




