"お兄さん"だった彼が私の恋人になる話
「フィオナはねぇ、カイお兄ちゃんと結婚するの!」
幼い頃の、フィオナ=レインバットの声が響く。フィオナが見上げた先にいるのは、少し困ったような照れているような、そんな笑みを浮かべた青年だった。
青年が何かを話す。フィオナが怒る。
地団駄を踏んで……
そこで夢から覚めた。
♢♢♢
「おはよう、お父様、お母様」
クロワッサンにウインナー、紅茶や蜂蜜など美味しそうな朝食が並んだ食卓に、フィオナの両親がすでに席についていた。
楽しそうに話していた二人は、フィオナの挨拶に笑みを浮かべながら挨拶を返してくれる。
「おはよう、フィオナ」
「おはよう、フィオナ。そういえば今日はカイくんが来るそうよ」
母が言った言葉にフィオナは椅子に座りながらえっ、と叫んだ。明るい翡翠色の瞳には喜色が広がり、美しい唇は嬉しそうな笑みを描く。
目に見えて喜んでいる娘を見て、母が笑みを深めていると、父は不機嫌そうになった。
「全く、フィオナもいつまでカイにくっついているつもりだ?」
「あらあら。フィオナ、気にしなくていいのよ。お父様は貴女が自分に甘えてくれなくて、寂しがっているだけだもの」
「ええ、お母様。わかっているわ」
ふふ、と笑みを零し、フィオナは食事を始める。
フィオナ=レインバットは、リエル公爵家の長女であり、第二子だ。上に兄がおり、両親と四人で暮らしている。
公爵家ともなれば、やはり領地は広く、莫大な資産を所有している。
そんなフィオナに、婚約者はいない。本人が嫌がって婚約を全て蹴ってしまっているからだ。その理由の一つとして、カイ・レーベルがあげられる。
カイ・レーベルはディシュリー伯爵家の次男である。海のような青い瞳に、銀髪の美しい青年で、大層頭がよく、さらに性格も良い。
フィオナ=レインバットの七歳年上だが、領地が隣同士であるため、幼い頃から交流があった。いわば、幼馴染だ。
何を隠そう、フィオナはカイのことが好きだ。
幼い頃から、彼しか見てこなかったフィオナはデビュタントをすませ、社交界に出てからもずっと彼一筋で生きてきた。幼い頃は、彼と結婚すると言って憚らなかった。だが、十六になったフィオナは流石にもうそれも慎み、やんわりと好意を伝えるにとどめている。彼はそれに気づいているのか気づいていないのか、それすら分からないが常と変わらない態度でフィオナを可愛がってくれていた。
「カイ様に会うんだったら、急いで朝食を終わらせて、支度しないと」
「あらあら。フィオナはそのままでも充分可愛いわよ」
「ありがとう、お母様」
にっこりと微笑み、母からの賛美を受け取りつつも、今からどんな色のチークにしようかとフィオナは頭を悩ませるのだった。
♢♢♢
「やあ、フィオナ」
爽やかな笑みを浮かべて応接室に現れたカイを見て、フィオナは立ち上がった。美しいと称される顔に、優美さが滲む笑みを浮かべ、フィオナも口を開く。紫がかった金色の瞳を、にっこりと細めた。
「ごきげんよう、カイ様」
そう挨拶すると、カイは少し寂しそうな笑みを一瞬見せたが、その後は何もなかったかのように微笑んだ。
「ああ。フィオナ、綺麗になったね。そのドレスもよく似合っているよ」
「ありがとうございます。カイ様、近頃は騎士としてご活躍だと聞いておりますわ。大変喜ばしいことだと両親とともに嬉しく聞いておりますの」
カイ・レーベルの名前は今やかなり有名になっていた。それは、彼が戦場にてかなり華々しい成績をあげているためだ。
カイは三年前から王国の騎士団に所属していた。王立騎士団は国王が頂点に立ち、国の安全を守る重要な役目を負っている。そのため、華々しい活躍が国中に響き渡り、王立騎士団は戦闘職種の花形と言われるほどの憧れの職場なのだ。カイもご多分に漏れず、昔から王立騎士団に入りたいんだとフィオナに夢を語ってくれたものだ。
そのときの嬉しそうに夢を追いかけ、きらりと輝きを放つ青い瞳にフィオナは虜になった。そのことを懐かしく思い出しつつ、頬を緩めているとカイが頬をかいた。
「ありがとう。しばらくしたら、小隊も任される予定なんだ」
「まあ! おめでとうございます。カイ様だったらきっと、将来は騎士団長を任されるに違いありませんわ」
「……はは、ありがとう」
何故か、あまり嬉しく無さそうな表情だ。フィオナは不思議に思ったものの、あまり深く追及することなく次の話題について話し始めた。
♢♢♢
フィオナ=レインバットは昔から、こうじゃなかった。決して、昔からカイ・レーベルに対して、このようなよそよそしい態度をとっていたわけじゃないのだ。
まるで社交界にて出会った知り合いの貴族と話すときの淑女のような、朗らかだけれどもどこか壁を作っているような、他人行儀な態度をとり始めたのは、つい一年前のことだった。
その日は、フィオナの誕生パーティーが行われる日で、もちろんカイのことも招いていた。フィオナは朝からうきうきしてカイを待ち、パーティーが始まり人が続々と来て祝福の言葉を述べるのを上の空で聞き流していた。
そして、やってきたカイを見て、フィオナは絶句した。格好良すぎたのだ。
フィオナの瞳の翡翠色をポイントに入れた素敵な衣装は、今でも忘れられない。カイの青い瞳を煌めかせ、銀色の美しい髪を際立たせるようなその衣装は、本当にカイによく似合っていたのだ。
カイ・レーベルは社交界でも美青年で有名だった。一時期は、『麗しの貴公子』とあだ名をつけられ、簡素ながらもかなり恥ずかしい名前で呼ばれてしまっているとひっそりと頭を抱えていたのには笑ってしまった。
しかし、笑ったのには、カイが実はポーカーフェイスの裏で恥ずかしさを抱えているということを知っているのは自分だけという優越感を持ち、社交界でのカイとは違うカイを知っているのも自分だけという余裕ゆえだった。
普段から、フィオナにはよく笑みを見せ、饒舌に語り、フィオナのことを慈しんでくれるカイは、実は社交界では本当に人気で誰もがため息をこぼすような男性だったとその時初めて思い知った。
それからというもの、フィオナは大人の女性になることを決心した。
決して大きな声で笑わない。走らない。マナーをしっかりと守る。
淑女になり常に紳士たるカイの隣に立てるならば、と思えば、今まではずっと無視してきた淑女のマナーを守ることも、難しくなかった。
母からは褒められ、父からは寂しがられた。
カイからは―――心配された。
それもそうだ。今まで楽しそうに大口開けて笑い、廊下を走り回って使用人を困惑させていたフィオナが急にお淑やかになり、カーテシーで自分を迎えるようになったのだから。
一体何があったんだと心配そうに何度も問われた。
そのたびに、フィオナは淑女に相応しい笑みをもってして、答えた。
『わたくし、もうレディですのよ。だからこう振る舞うのは当たり前のことですわ』
と。何度も聞かれるたびにこう答えるため、とうとうカイも諦めたのか、質問されなくなっていた。
しかし、その代わりに失ったものはあった。
たとえば、カイの悪戯っぽい笑み。
たとえば、カイの砕けた口調。
たとえば、カイの趣味の話。
たとえば、カイとの親密な間柄。
♢♢♢
「じゃあ、これで失礼するよ。フィオナ、また会おう」
柔らかな笑みを浮かべ、さらりと手を振るさまは、もう立派な一人の紳士だ。
そんなカイにフィオナも一人の淑女として言葉を返す。
「ええ。またお会いしたいですわ。次はいつお越しになられますの?」
「多分、二週間後かな。再来週、両親に呼び出されているからその帰りに寄れるよ」
心にメモし、絶対に他の予定を入れないと心に決める。
「楽しみに待っていますわ」
にっこりと微笑み、言葉を贈る。これは、フィオナの本心でもあった。だが、カイに伝わったかどうかはわからない。それでも少しでも本心を伝えたかった。
♢♢♢
「フィオナ? あのね、来週にリドルティー伯爵夫人でお茶会があるのだけれど、わたくしは隣国に向かうでしょう? だからフィオナ、代わりに出てくれないかしら」
そう母に言われたのは、カイが来てから一週間のことだった。
両親は隣国に正式に招待され、来週一週間、留守にする予定だった。
フィオナは了承しようとして、はたと思い至った。来週は、カイがやってくる日だ。もしお茶会に行ったら、カイに会えないかもしれない。
「……お願い、フィオナ。頼めないかしら?」
さりとて困ったように眉を下げ、フィオナを見つめる母の頼みを断りたくもなかった。
何より、もし参加するとなれば、リエル公爵領から王都まで一日で着くといえど、タウンハウスである程度の日数を過ごし、落ち着いた状態でお茶会に参加したいので、遅くとも二日後には出なければならなかった。
「……分かりました。わたくしが出席致しますわ」
「ありがとう! フィオナ、本当に助かるわ。よろしく頼むわね」
「ええ、お任せくださいませ」
カイに手紙を書く必要がありそうだ。
フィオナはすぐさま、来週は急用ができたため、邸にはいないという旨の手紙を書き上げ、送った。
♢♢♢
「まあまあ、リエル公爵令嬢! お久しぶりね。すっかり立派な淑女になって......」
王都に着き、数日滞在したのち、フィオナは招かれていたお茶会に参加していた。
リドルティー伯爵夫人は、母、リエル公爵夫人の親しい友人で、フィオナも昔から面識があった。だからこそ、安心して参加ができたのだが、予想通りリドルティー伯爵夫人は大層可愛がってくれた。
「お久しぶりでございます、リドルティー伯爵夫人。お褒めいただき嬉しいですわ。わたくし、久しぶりに王都に参りまして、少し緊張しておりますの」
「まあ、そうなのね。でも大丈夫よ、あなたも知っている人は多いと思うわ」
「まあそうなんですね。ありがたいですわ」
にっこりと淑女の仮面を被り、当たり障りない会話を繰り広げる。
そうこうしているうちに、他の参加者たちも来て、フィオナはリドルティー伯爵夫人に連れられる形で様々な人と挨拶をした。
「まあもうこんな時間? 皆さま、名残惜しいですけれど、今日はもうお開きにいたしますわ。本日はいらしてくださってありがとう。またお越しいただけたら幸いですわ」
最後に、リドルティー伯爵夫人はお土産をたんまりと持たせてくれた。フィオナは笑顔で今日の礼を伝え、リドルティー伯爵邸を辞した。
翌日、リエル公爵家が懇意にしている、ドラエラ伯爵家から夜会の招待状が届いた。本来ならば、フィオナではなく兄が参加するべきなのだろうが、兄は今領地にかかりっきりで忙しい。さらにはドラエラ伯爵家からもフィオナ嬢にリエル公爵家の代表としてぜひとも参加して欲しいと誘われたので、参加することに決めた。
そんなに格別高い夜会でもないというのも決め手だった。
しかし、問題はパートナーである。誰かパートナーを探したくとも、デビュタントを済ませてまだそう経っていないフィオナにはまだ社交界の繋がりがなく、頼める人が少ない。
となると、従兄弟のジャック・アダートか、最終的にはカイに頼もうかとフィオナは頭を悩ませていた。
♢♢♢
それから二日後。夜会のために残らねばならないので、久しぶりの王都を楽しんでいると、来客があると家令が伝えてきた。
「え? 来客? でも、なにも前触れはなかったわよね?」
「はい。ですが、お通ししたほうが良いかと存じますよ」
なぜかニコニコと満面の笑みを浮かべている家令を見て、フィオナは了承した。
応接室にお待たせし、支度を整えて中に入る。
「失礼致します。……!?」
「やあ、フィオナ。久しぶりだね」
そこにいたのはカイだった。フィオナが驚きに目を見張っていると、まず座ろうよと促され、ソファに対面する形で座った。
「か、カイ様。どうしてこちらに? 王都に来ていることは、お伝えしていないはずなんですけれど……」
そして、相変わらずかっこいい。ありえないほどに美貌が眩くて、もう目が潰れそうだ。
そんな美貌を、彼は笑みに歪めてみせた。もちろん、紳士として、何の他意も含まないであろう笑みをだ。
「ああ、リドルティー伯爵夫人から手紙をいただいたんだ」
「リドルティー伯爵夫人から……?」
そういえば、最近カイとはどうなのかと何度か聞かれたなと思い出す。彼女には、フィオナの恋心などお見通しなのだろう。だから、カイに向かうように伝えてくれたのだと思い至った。
「まあ、そうなのですね。でもカイ様、訓練の方は大丈夫なんですの? お時間は……」
「大丈夫だよ。今日は有休をとっていたから。それより、夜会に出るんだって? 巷で噂になっているよ」
「え?! う、噂に、ですか?」
驚きだ。そんなこと、初めて知った。
「なぜでしょう? わたくし、何かしたのかしら」
返事を書く際、何か不手際をしただろうかと思い返していると、カイが笑った。
「ああ違う違う。あのね、今まで出てこなかったリエル公爵令嬢がようやく表の場に出てくるということで様々な貴族が注目しているんだ」
「まあ……確かに、あまり夜会などは好まないので必要最低限のものにしか出席していませんでしたわ」
まあ今回のものも必要最低限といえばそうなのだが、普段は両親が出席しているので珍しかったのだろう。
もしかしたら、ドラエラ伯爵はそれを狙ったのやもしれない。
「誰か、パートナーはもういるの?」
「え? ……あ、ええ。も、もういますわ」
咄嗟に嘘をついてしまった。
実はいないなどといえば、優しいカイはならば自分と一緒にと申し出てくれるだろう。しかし、それは嫌だった。兄としてのカイの優しさでパートナーになどなってほしくなかったからだ。
(もう、ないとは思うけれど……恋人としてのパートナーがいいんだもの)
カイは何を思ったのか、眉毛をぴくりと動かしたあと、何事もなかったかのように微笑んだ。
「そうなんだ。残念、麗しのお姫様をエスコートできるチャンスかと思ったんだけど」
「カイ様、ご冗談はおやめくださいませ」
カイの冗談は笑えない。少し期待してしまうからだ。それでもフィオナは無理やり口の端を持ち上げて、微笑んでみせた。
♢♢♢
夜会の日。
フィオナは焦っていた。人生最高に焦っていた。
(本当にどうしよう、カイ様に嘘をついたまま、誰も見つからなかった……!!)
顔面蒼白のフィオナを、タウンハウス常駐の侍女が呆れ顔で見つめる。
「お嬢様ったら、意地を張らずにレーベル様にお頼みすればよかったのですわ」
「レーベル様ならばきっと喜んで引き受けてくださったでしょうに」
侍女たちの言葉に、フィオナはぐっと言葉に詰まった。
「で、でも嫌よ。だってカイ様はきっとお優しさで受けてくださるんですもの。それだと嫌なの」
「まあ。別によろしいじゃありませんか。わたくしはいいと思うんですけれどねぇ」
それでも嫌なものは嫌なのだ。カイはフィオナを好いてくれているわけでもないのに。
それとも……。
(わたくしが、我儘なのかしら)
この気持ちを我慢して、カイに頼めば良かったのだろうか。でもきっと、それはフィオナが辛くなるだけだ。カイがフィオナのことが好きではないと思い知らされるだけなのだから。
それならばきっと、この選択は正しかったはず。
「……仕方ないわ、お兄様を呼んでちょうだい。衣装などたくさんあるでしょ、あのお兄様なんだから」
あらあら〜、最終兵器のご登場ですね〜。
不吉かつ失礼極まりない発言を残して、一人侍女が部屋から出ていく。
フィオナは眉間に皺がよるのを自覚しながら、最終兵器を呼ぶことを決めた。
♢♢♢
煌びやかなシャンデリアの光の下で、フィオナはーーー
死んだ魚の目をしている兄と佇んでいた。
「何で僕が呼ばれるんだよ……カイを呼べばいいだろ、僕は夜会が嫌いなんだよ、こんな煌びやかな世界は僕には不釣り合いだって昔から言ってるじゃないか何で忘れるんだこのバカ妹僕の気持ちを尊重してくれたっていいだろ大体夜会なんてのは馬鹿がやるやつなんだこんなのはもっと煌びやかなやつに頼むべきだろ僕に頼むなんて本当に信じられない僕をそっとしておいてほし……」
「お兄様、お久しぶりですわね! 可愛い妹に会えて嬉しすぎて興奮のあまりよくわからないことを口走ってしまっているのですね、お可哀想に」
フィオナはにっこりと、しかしちゃんとした声量でぶつぶつ呪いの言葉を吐き続ける兄を遮った。
兄は見目が大変麗しい。
そのせいで、兄がまだ7歳の頃、目がハートになった少女たちに追いかけまわされ、兄は大変なトラウマをつくりあげてしまった。そのため、夜会に出たとしてもせいぜい十分、長くて三十分で帰ってしまうので、『早帰りの貴公子』というあだ名がついてしまった。
今回、兄を釣り上げるために使ったものは、しばらく夜会に出なくていい権利だ。フィオナが何としてでも兄の夜会出席を、なくしてあげますと言ったら、ほいほいついてきてくれた。
「うっく、お前、お兄様をもっと労われ」
「あら、労わっておりますわ。最終兵器さま?」
にっこりと微笑んだフィオナを胡乱げな目つきでみたあと、兄は諦めたようにため息をこぼした。
そんな会話をしているうちに、主催者のドラエラ伯爵が来たようだ。短めの挨拶を全体に述べたのち、音楽が流れ始めて人々がダンスホールで踊り始めた。
「まあ楽しそう。お兄様、わたくしたちも……」
「絶対ないな」
まあつれない。そうフィオナが唇をとんがらせようとしたとき。
「では私と一曲いかがですか、お嬢さん?」
涼やかな声が割り込んだ。
その声は、誰よりも大好きで誰よりも知っている。
フィオナは驚き顔のまま、振り返った。そこには、思った通りの美青年が微笑を浮かべて、佇んでいる。
「カイ様……!?」
「フィオナ、数日ぶりだね」
「どうしてここに……!」
思わずそうこぼしたフィオナに、にっこりと微笑みかけながら悪戯っぽく瞳を輝かせるカイ。
「ディシュリー伯爵家にもお招きがあってね」
フィオナは自分に呆れ半分、羞恥半分で口元を扇で隠した。
「まあ……よく考えればそうですわね」
「ああ。それでフィオナ、いや、リエル公爵令嬢。僕と踊っていただけますか?」
折しも、そう声かけられたのは一曲目の音楽が終わる直前だった。カイが自分に向けて手を差し出してくれる。それを見たフィオナは、こくりと控えめに頷いた。
「なら、僕はもういらないよね? フィオナ、僕はもう帰るよ、安心して馬車はあらかじめ二台手配しておいたから」
兄の声が割り込み、フィオナが載せようとしていた手は空中に浮かぶことになった。
「それからカイ、フィオナを頼んだぞ」
兄は実はカイよりも年上だ。そのためか、カイはきりりっと表情を引き締めると深く頷いた。
「必ず」
「ああ」
短い男同士の会話が終わったのち、フィオナの宙に浮いていた手がようやく救われた。
「さあ、参りましょう、お嬢さん」
「まっ、待ってください!」
はい、と夢見心地で頷きそうになったフィオナは、あることに思い至り、顔色を変えて制止した。
それから聞きたくない答えが返ってきそうで、なかなか口を開かないフィオナにカイは優しく尋ねる。
「どうかした?」
「……か、カイ様の、パートナーは……」
もっと毅然と聞くつもりだったのに、声が震えて掻き消える。目からは涙が溢れそうで、必死に我慢した。
(実は恋人と来ているんだ、なんて返答があっても大丈夫。これでようやく諦められる……)
ひどく痛む胸を無視して、フィオナは顔を上げた。カイの青色の瞳を真っ向から覗き込む。
カイはひどく驚いた顔をしていた。
「え……あれ、説明してないのか」
「?」
「実は、君の正式なパートナーは、僕なんだよ」
「…………………え?」
フィオナのほうけた声が発されると同時に、ニ曲目が始まってしまった。
一旦寄ろうか、とのカイの言葉に頷き、壁の方へよる。
「ど、どういうことですか?」
「君のお兄さんにも、ちゃんと別にパートナーはいるよ。ただ、僕の入場が少し遅れるから、お兄さんに少しの間頼むことにしたんだ……って聞かなかったの?」
「聞いてませんわ! そもそもだって、わたくしパートナーはいると申し上げたはずですけれど……?」
そう呆然と返すと、彼は呆れた顔をした。
「全く、君の嘘なんてすぐに見抜けるよ」
「え……!」
「もちろん、家令にもこっそり確認したよ? その後、正式に文書を送ったはずなんだけど」
「え、聞いてません……!」
きっと兄がとめていたのだろう。家令や侍女がやけに大丈夫と言っていたのを思い出す。
「でも……カイ様はお優しすぎますわ。私が困っているからってパートナーを引き受けるなんて……! わたくし以外にもそれやったら勘違いされますわよ? わたくしでしたから、まだ良かったものの」
腹立ち紛れにそう言い放ち、カイを見上げると彼は真剣な顔をしていた。
どきっと胸の高鳴りを覚える。
「僕は、誰にでもこういうことをするわけじゃない」
「……ええ、ですからわたくしであったからまだ良かったものの」
「君にしかこんなことはやらない」
「……そうでしょうね。だってわたくしは、あなた様の妹のようなものですから」
自分で言ってて辛くなる。しかし、事実なのだ。
「……う!」
「え?」
「違う! 君は僕の妹なんかじゃない」
え? それはどういうこと、妹とすら思われていなかったと……!?
ショックで泣きそうになるフィオナに、カイが言葉を重ねた。
「君こそ、僕が兄だと思っているんだろうけど……僕を一人の男として見て欲しい」
哀願とすら思えるほどの真剣な口調、声音にフィオナは息を呑んだ。
言葉を一つ一つ丁寧に回らない頭で、ようやく全て拾い集めたとき。フィオナの視界は潤んだ。
「それは……! どういう」
「すまない、今はまだ待ってほしい。必ず、必ず、話すから。……それと、帰ったら君の家に婚約の打診を行わせてほしい」
懇願しているかのようなカイの言葉と、瞳におされ、フィオナは承諾した。
♢♢♢
それから、本当にカイからの婚約打診に、しばらくリエル公爵家はざわついた。フィオナは信じられない気持ちでいっぱいで、母は嬉しそうにおっとりと、父は……フィオナを溺愛している父はまあ言わずもがなである。
♢♢♢
「お久しぶりです、カイ様」
にっこりと完璧な笑みを浮かべ、完璧なカーテシーをしてみせたフィオナに、カイが眉根を寄せる。流石、『麗しの貴公子』だけあって、その表情すら絵になるほど美しい。
「……顔色が少し悪いね? ちゃんとご飯は食べてるの、フィオナ」
第一に顔色を心配された。
先日のことについて、そしてフィオナたちの関係について話すかと思っていたフィオナは拍子抜けする。
「ちゃんと、食べておりますわ」
淑女にそんなこと聞くなんて、と思わないでもないが、カイの表情はフィオナへの心配を映し出していた。それをみて、ハッとする。
フィオナは、カイとまだ十分に話し合えていないからか、まだカイからの告白を信じきれない自分がいた。夜会で言ってくれたあの言葉は、真実なのか。それとも、誰からも声をかけられないフィオナを見かねていってくれたことなのか。
もちろん、そうでないことを心から願ってはいる。ただ、カイの真意が読めないのは事実だった。なぜなら……。
(カイ兄は、わたしに対して、そういった素振りを一切見せなかったもの。わたしは結婚したいとまで言ったのに)
ついいじけ心が顔を出すのだ。幼い頃の自分に引っ張られてしまう。
急に拗ねた顔になったフィオナを、カイが不思議そうに見下ろす。いつのまにか、身長もこんなに差が出来ていた。昔はほんの少ししか、変わらなかったのに。
「どうか、したか?」
「……カイ兄は、わたしのことなんて本当はどうも思っていないんでしょ?」
フィオナの質問に、カイは目を見開く。その後、なぜか何かを期待しているような瞳でこちらを見るのだ。
「フィオナ……?」
「カイ兄は意地悪だわ」
フィオナの声に、涙が混ざる。普段は澄んでいるはずの声はくぐもりはじめる。
「わたくしが、カイ兄を慕っているのを知っていて、わたくしのために求婚なんてしたんでしょう?」
言ってしまった。
今まで、頑張って悟られないようにしていたものの、もう知られているのだろうから良いのだけれど。
もう何もみたくなくて、俯いてぎゅっと目を閉じる。今はなにも考えたくないし、カイが困ったような表情をするのも、見たくなかった。
フィオナは自分を大切にしたいのだ。
これ以上、傷つきたくなかった。
それなのに、カイは……。
「フィオナ」
「いや」
「フィオナ」
なおも拒否するように首を振ってしゃがみ込む。すると、カイも同様にしゃがみ込む気配がした。
「フィオナ、顔あげて。……お願い」
そんなの、ずるい。
「……ああ、綺麗だ」
「っ、どこが……!」
「すべて」
てらいもなく即答したカイに、頰が熱くなる。自分でも赤くなったのがわかった。
まだ潤んだ瞳でカイの海色のような瞳を見つめる。
いつまでもみたいと願う反面、彼の心にフィオナはいないと諭すもう一人の自分の声が聞こえて、辛くなる。だが……。
(本当に、綺麗。まるで、本当に海のようで………吸い込まれる)
カイの瞳に見とれてしまった。
「好きだよ、フィオナ」
そうして見とれてしまっていたフィオナの耳に届いたのは、あり得ない言葉だった。ぼんやりとしていたフィオナは、え……? と言葉にならない声を漏らす。フィオナのつけている翡翠色の宝石がついた耳飾りがしゃり、と鳴った。
「カイ、さま?」
「ずっと昔から、君のことが好きだった。……年々、君が綺麗になっていくのを見るたびに、誰かに奪われる前に奪ってしまいたいと思った」
「っ……か、かい……っ」
「大好きだ、フィオナ。君がもし、僕のことを、———少しでも好ましく思ってくれているのなら」
カイはそこで言葉を切ると、海のように神秘的な光を宿している瞳をフィオナに向けた。そこにはフィオナの腰が砕けてしまいそうなほどの、とろけてしまいそうなほどの、熱が映っていた。
「この婚約を受け入れてほしい」
「っ、カイ様。わたくし、わたくしも———カイ様のことを、ずっと昔から……お慕いしておりました」
どうか、わたくしの方からも。
か細い声でそう告げると、フィオナは恥ずかしくなって顔を伏せた。
「愛してる、フィオナ」
「———わたくしも、カイ様」
こうして二人は、兄妹のような幼馴染みから愛し合う恋人同士になったのであった。
"お兄さん"だった彼が私の恋人になる話 おわり




