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3話 迷子の猫

 ふと見上げると、鬱蒼とした木々が空を覆っている。昼だというのに薄暗い。

 周囲は見渡す限り、似たような幹と葉ばかり。目印になるものは何もない。

 鏡張りになっているみたいで、前後も左右もわからない。錯覚を起こしそうだ。

 風もなく、生き物の気配すら感じられない。

 完全に1匹だ。

 野良だった頃なら、これも日常だと言っていたところだが、今は事情が違う。メルの世話をしてやっている立場だ。

 私は立ち止まり、前足で地面を一度だけ掻く。何も出てきやしない。ざらりとした土が爪に残る。

 さて、どうしたものか。そのメルと完全にはぐれたわけだ。

 もっともどうしてこうなったのかは、メルに原因がある。

 私が迷子というよりは、あの阿呆が迷子なのだ。

 

 きっかけは、メルと出かけた薬草狩りだった。

 普段なら私は家を出ない。午後はクッションの上で、半分夢の中にいる。メルの魔法研究がどうであろうと、私の知ったことではない。

 しかし今回、メルが手に入れようとしていた薬草は人間の鈍い嗅覚では見つけにくい代物らしい。

 湿った苔の奥に潜むような、ひどく癖のあるツンとした匂いをまとっているということだった。

「お願い、タズがいないと見つからないの」

 そう言ってメルは、私を抱き上げ、額に額を寄せてくる。

 まったく、ずるい魔女だ。そういう頼み方をされて断れるわけがない。

 結局、勝手に抱き上げた罰として猫パンチをお見舞いした後、仕方なく尻尾を左右に揺らした。

 それが承諾の合図だと、メルはよく知っている。

 こうして私は、本来なら微睡んでいるはずの時間に、森へと足を運ぶ羽目になった。

 報酬は1週間の干し肉ディナーで手を打った。

 冷たい空気が鼻先をくすぐり、無数の匂いが押し寄せてくる。

 面倒ではあるが仕事となれば、話は別だ。

 家の周囲は、少し歩けばすぐに森だ。背の低い草を踏み分け、絡みつく蔦を避けながら、私は鼻先を低く保って進んだ。

 湿った土、苔、腐葉土。雑多な匂いの奥に、目的のそれが微かに混じっていた。自慢ではないが、嗅覚には自信がある。

 私の歩調に合わせるように、メルも後ろからついてくる。普段は涼しい顔をしている彼女だが、足場の悪い森ではさすがに息が上がるらしい。

 森の奥へ進むにつれ、空気は重くなり、足元の落ち葉がくぐもった音を立てる。

 しばらく進んだところで、すぐ後ろを歩いていたメルが、珍しく息を弾ませた。

「やっと見つけたわ、タズ。探していた薬草よ」

 視線の先、木陰の奥に、淡く光る葉がひっそりと群生している。

 橙でも黄色でもないような、不思議な色合いだ。近づいてみるとかなりの量だ。足元から数歩先まで途切れることなく連なり、どこを通っても踏まずにはいられないほどの量だ。

 これを採取して持ち帰るとなれば、袋をいくつも用意しなければならないだろうし、何往復も覚悟しなければならない。かなりの重労働だろう。見積もってみるだけで気が遠くなる。

 ちなみに私が手伝う場合は、報酬が倍になる。

 メルは眉尻を下げて、思案する。

「うーん、どうやって家まで運びましょうか」

 本来なら一つずつ摘むべきだが、彼女は違った。

「そうだ。位置転送魔法で、まとめて家に送ってしまいましょう」

 その言葉を聞いた時点で、嫌な予感はしていた。

 私は何も言わなかったが、それは賛成したわけではない。

 メルの短絡的な行動は、その間すら与えられなかった。杖を構え、空間に魔法陣を描き始める。

 薬草の位置、家の庭、転送の経路。それを魔法陣に組み込むと、薬草を傷つけないように、生命魔法で保護をする。

「よし……これで……」

 メルは自信満々に口角を上げた。

 だが私は知っている。生命魔法と転送魔法を同時に扱うと、彼女の魔法は途端に雑になる。

 魔法陣の光が弾けた瞬間、足元の感覚が消えた。ふわりと体が浮き、世界が裏返る。


 次の瞬間、私は別の場所に立っていた。

 いや、立ってはいない。上に地面があった。苔だらけの地面に、頭から真っ逆さまに落ちた。

 異変に気づいた瞬間、反射的に体をぐるりと捻った。しかし勢いを殺しきれず、着地には間に合わない。

 次の瞬間、腹ばいのまま地面に突っ伏す形になった。

「……にゃ!」

 短く声が漏れる。

 なんとか背中を地面に打ちつける最悪の形だけは回避した。

 さすがは私だ。エリート猫ともなれば、こういう状況でもきっちり体勢を選ぶ。どんなに不意を突かれても、背中から落ちるような真似はしない。

 急いで起き上がると、周囲は見覚えのない森だった。

 メルも、家も、転送されたはずの薬草もない。遅れて、理解する。転送する対象が、ズレたのだ。

 私は鼻先を上げ、ゆっくりと空気を嗅いだ。

 湿った土と草の匂いに混じって、かすかに魔力の残り香が漂っている。

 だが、それだけだ。メルの気配は、どこを探しても感じられなかった。

 転送魔法としては憎たらしいほど完璧だった。

 

 そしてこれが私とメルがはぐれた原因というわけだ。

 私は小さく息を吐き、耳を一度だけ揺らして気持ちを切り替える。

 感情に浸っていても、状況は何ひとつ変わらないのだから。

 私は尻尾を揺らし、歩き出す。

 あの魔女のことだ。

 今ごろ頭を抱えてながら必死に私を探しているに違いない。幸い、ここは家を囲っている森の一部のはずだ。

 メルが展開した位置転送魔法は、そこまで遠くへ飛ばすほど強力ではなかった。

 この前、ニコラに向かって「杖の制御すべき」だの「感覚に頼りすぎ」だの、ずいぶんと講釈を垂れていたではないか。その本人が、この有様だ。

 どうなっているんだ、まったく。


 この森には、多くの魔獣が棲む。

 人間だけでなく、猫にとっても油断ならない連中だ。メルなら多少のことではどうにもならないが、私が一匹で出くわすのは、話が別である。

「……最悪、力を解放しなければならなくなるな」

 誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

 できれば使いたくない切り札だ。力を解放したあとは、しばらく動けなくなる。この森で行動不能は、死に直結する。


 私は歩きながら、必死に打開策を洗い出す。

 木に登る。却下だ。

 そもそも私は、木登りが得意な猫ではない。

 仮に登れたとしても、せいぜい周囲と同じ高さになるだけだ。

 家を見つけられるほどの見晴らしは得られないだろう。


 人を探す。それもダメだ。

 運よく誰かに会えたとして、連れ帰ってもらうことはできない。

 この森の奥にあるメルの家の場所を知っている人間などいない。

 唯一知っているニコラはこの前来たばかりだから、しばらく来ないだろう。

 第一、私が分からないのだから、道案内をできるはずもない。


 魔法は論外だ。私に使える魔法などない。

 メルは今ごろ、魔法で私を探しているかもしれないが、私をピンポイントで見つけ出すような便利な術などないだろう。早期解決は期待できない。


 足元の落ち葉を踏む音が、やけに大きく感じて、私は足を止める。

 まずいな。思った以上に、打開策がない。

 冷静に状況を整理すればするほど、できることが少ないのがはっきりしてくる。


 長期戦も覚悟しなければならないのか。そうなれば食糧が必要になる。すなわち狩りだ。

 生まれてこのかた、食糧には困ったことがないが、この森で私が満足できるものが見つかるだろうか。干し肉ディナーの予定が、まさか現地調達に切り替わるとは。

 まったく、とんだ仕打ちだな。

 

 そのときだった。

 奥の藪が、わずかに揺れた。風ではない。重さのある、意図的な動きだ。

 私を狩ろうとしている者の動き。

 気配は重く、影は大きい。体格は、私の何倍もあるだろう。

 戦うこともできなくはない。だが、ここで無理をする理由はない。

 勝てるかどうかではなく、割に合わないのだ。

 私は反射的に身を低くし、足裏に力を溜める。

 いつでも跳べる。いつでも、逃げられるように。

 次の瞬間、低く濁った呼吸音が森に滲んだ。

 私が後ろに交代した瞬間、さっきまで足をついていた地面が深く抉れる。

 素早い…!

 姿を現したそれは、形容しがたい生き物だった。

 異様に長く、うねる胴体。硬そうな皮膚が鈍く光り、大きく開いた口の奥には鋭い牙が見えた。


「イグパイソンか」

 厄介なやつに見つかったな。

 牙には毒があり、口から炎を吐き、尾からは冷気を放ち、さらには全身に放電器官がある。重装備の目的が分からん阿呆みたいな大蛇だ。

 阿呆でも脅威であることには違いない。

 猫にとってはただの天敵。

 10メートルを越える巨大に捕まれば、丸呑みにされるだろう。

 私は地面を蹴り上げて、全力で駆け出した。

 背後で、重い音が鳴る。地面を擦るような、湿った移動音。

 追ってきている。迷いなく、正確に。枝が顔をかすめ、葉が目に入る。

 呼吸が荒くなり、心臓が耳元で鳴る。速い。思った以上に、速い。


 私は方向を変え、木と木の間を縫うように走る。

 体を低く、無駄な動きを削ぎ落とす。

 それでも、距離は縮まっていく。爪が土を掴み、滑る。

 一瞬、体勢が崩れた。

 その瞬間、背後でまた地面が抉れた。当たれば終わりだ。

 恐怖が、冷たい刃のように背中を撫でる。

 私は歯を食いしばり、走り続ける。


 力を使うか?

 使えばしばらくは動けない。判断を誤れば、ここで終わる。

 暴れ回ってメルに見つければいいが、反対にもっと強力な魔物が集まってくる可能性もある。

 全力でまっすぐ進んでいると、左側に岩場が見えた。

 大小の岩が不規則に転がり、足場は悪い。だが、開けた場所よりはマシだ。

 私は進路を変え、岩の隙間へと飛び込んだ。

 岩と岩の間を縫うように走る。体をひねり、跳び、反対側へと滑り込む。

 もう追いつけまい。そう思ったのは、一瞬だった。

 背後から、嫌な音が迫る。

 あの細長い体は、岩場に強かった。

「くそっ。でかい図体のくせに」

 硬い地面に腹を擦りながら、信じられない角度で隙間をすり抜けてくる。

 振り返った一瞬、口が開くのが見えた。大きすぎる。

 私を丸呑みにできそうな顎。

 並ぶ牙は鋭く、細く、きらりと光る。


 距離が、詰まる。息が詰まり、視界が狭まる。

 逃げ場は、後ろしかない。私はなりふり構わず、地面を蹴った。

 跳躍。

 次の瞬間、足元の感触が消える。

 崖だ。体が宙に投げ出され、風が腹を叩く。

 私は体を反転させて、反射的に前脚を伸ばした。

 爪が、岩の縁を掴む。重力に逆らった衝撃が腕に走り、骨が軋む。

 体がぶら下がり、後脚が空を切る。

 下に目を向けると、地面は遥か遠くにある。


 その恐怖が、牙よりも鋭く迫った。

 崖の上から、あのイグパイソンが這いずる気配がする。身じろぎひとつ許されない。わずかな震えすら、岩を伝って届いてしまいそうだった。

 私が崖から身を投げたことで、上からは消えたように見えたのかもしれない。

 そうであってほしいと願いながら、意識を上へ向け続ける。

 風が岩肌をなぞるように吹き抜け、乾いた音を立てる。

 森のざわめきは遠く、ここにはただ、風と岩と、私の重みだけがあった。


 しばらくして上にたむろしていた気配が、ふっと消える。

 私はわずかに安堵し、喉の奥で息をつく。

 だが、その直後だった。ぬるり、とした気配が戻ってくる。

 崖の縁に、再び影が差した。

 細長い頭が覗き込み、あの大きな口が、ゆっくりと開く。

 狙いは、私の手。岩を掴んでいる前脚だ。

 牙が近づく。距離が、なくなる。

「くっそ!」

 思わず声が漏れた瞬間、私は反射的に手を離していた。

 ……仕方ない。

 私はゆっくりと息を吸い、内側へと意識を沈めた。

 普段は固く閉ざしている場所、力の源へと続く門に、爪をかける。

 軋むような感触とともに、門が開く。

 瞬間、体の内側から奔流が溢れ出した。

 青白い紋様が毛皮の下から浮かび上がり、稲妻のように全身を走る。

 毛は逆立ち、空気が震える。

 バリ、バリ、と雷鳴にも似た音が響き、私の身体は一回り、いや二回りは大きく膨れ上がった。

「……久しぶりだな」

 低く呟いた、その直後。

 イグパイソンが大口を開け、私の腕に噛みつこうと突進してくる。

 踏み込み、一瞬で間合いを詰める。

 拳を叩き込む感覚は、岩を殴ったようでいて、どこか拍子抜けするほど軽かった。

 衝撃音が空気を裂き、次の瞬間、イグパイソンの頭部は勢いよく弾き飛ばされ、地面を転がっていった。

 私は拳を振り払い、ゆっくりと息を吐く。


 しかし、それだけだ。もう一度、崖を掴み直すには、時間が足りない。

 体が、ふわりと浮く。

 次の瞬間、世界が逆さになり、真っ逆さまに落ちていく。

 風が耳を裂き視界が一気に遠ざかる。みるみるうちに、景色が曖昧になっていく。

 力を解放しても空は飛べるわけではない。地面に激突しても、死なないだろうが、その後のことはどうしようもないな。


 次の瞬間、体を包む力。

 衝撃はなく、落下は止まる。

「タズ!」

 聞き慣れた声が、上から降ってきた。

 私は箒にまたがるメルの膝の上にいた。金色の髪とローブをはためかせ、片腕で私を抱え込んでいる。

 どうやらギリギリのところで間に合ったらしい。

 私は力を抜いて、元の形態に戻る。

「ごめんね、タズ」

 メルが申し訳なさそうに顔を歪めて謝る。声はいつもの軽さを残しているが、どこか本気だった。

「まったくだ、遅いぞ」

「ちゃんと魔法式を組んだはずなんだけど」

「あとちょっとで死んでいたぞ」

「力を解放したの?」

「あぁ、ギリギリだった」

 私はぶっきらぼうに返す。まだ鼓動が早く、呼吸を整えようとするたびに胸が膨らんだ。

 言い合いの間も、私は無意識に彼女のローブにしがみついていた。メルの顔を見上げると、彼女は淡々と頷き、でもどこか柔らかい目をしていた。何か考え事をしている表情だ。


 しばらくして呼吸が整い、張り詰めていた感覚がゆっくりとほどけていく。

 心臓の鼓動も、ようやく普段の速さに戻った。理性が遅れて追いついてくる。

 私はさっさとメルの体から離れ、箒の柄へと移動する。

 だんだんと身体も動かなくなってきた。

 私がしがみ付いたのは、この状況に追いやった張本人なのだ。

 許してもらえた、などと勘違いされるのは心外だ。

 ましてや安心しているとか、頼りにしているなんてありえない。

 視線を下げると、森が静かに遠ざかっていく。

 やれやれ、酷い目にあった。私は意味もなく森を睨みつけた。


「……お詫びは、豪華ディナーだな」

 私がそう言うと、メルは小さく息を吐き、苦笑を浮かべた。

「はいはい。で、何がいい?」

「予定していた干し肉に加えて、炙った川魚。それとおやつにまたたびだ」

「欲張りね」

「欲張りとは何だ。当然の罰だろう」

 私はしっぽをゆらりと揺らし、吹き抜ける風を受ける。

 体にまとわりついていた緊張が、少しずつほどけていくのが分かった。

 これで、ようやく家に帰れる。

 やはり外に出るものじゃないな、と心の中で呟きながら、私はいつもの日常へと戻っていく。

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