2話 魔女の弟子
微睡がより深まる午後。
玄関の扉がコンコンと控えめに叩かれた。
森の奥深く、道らしい道もないこの家まで訪ねてくる人間は、ひとりしか思い当たらない。
私はいつも通りチェストの上にあるクッションで丸くなったまま、片目だけ開ける。
「はーい」
メルが椅子に座ったまま、指先で空をなぞると、魔法が発動して、扉がきしむ音もなく静かに開かれた。
家に入ってきたのは、快晴の空のような髪色の少女だった。背はメルよりも低く、顔にも幼さが残っている。
彼女はメルを見るなり、溌剌とした笑顔になった。
「師匠、お久しぶりです」
「つい2ヶ月前にあったばかりじゃないですか、ニコラ」
「私は毎日、師匠に会いたいです」
声はまだ幼いが、その仕草には魔女特有のふわりとした余裕のようなものを纏っていた。
ニコラはメルのことを師匠と呼んでいるが、正式な師弟関係ではない。
メルは師匠なんて柄じゃないし、そのような関係だと考えたことすらないだろう。ニコルが敬意を払って勝手にそう呼んでいるだけだ。
彼女は10歳にして、都でも五本の指に入るほどの実力を持つ天才魔女だ。
飛び級を重ね、現在は魔法学院の研究科に籍を置いて、魔法の研究をしている。その傍ら、魔法省では実務研修生としても活動している。周囲から一目置かれる天才。
それゆえに孤立していたニコラを、メルは以前から気にかけており、自宅への出入りをさせるようになった。
他に誰もいない、唯一の相手だ。
「タズさんも、お久しぶりです」
ニコラは途端に声色を変え、いわゆる猫撫で声でこちらへ迫ってきた。
私はまだ丸まったままだというのに、そんな事情は一切お構いなしだ。小さな手がぐいっと伸び、顎の下にねじ込まれる。
顔を無理やり持ち上げられ、せっかく整えた毛並みをがしゃかしゃとかき乱してきた。
「……うるさいぞ、小娘!」
私は短く唸り、必殺の猫パンチでその手を払いのける。
ぱしん、と乾いた音がして、ニコラは「わっ」と声を上げた。
その隙に、私は一気に跳ぶ。より高く、より安全なチェストの上だ。
ここなら、もう手は届かない。クッションはないが、勝手に触られるよりはマシだ。
「もう、相変わらずですね」
ニコラは少し残念そうにしながらも、どこか楽しそうに笑った。
その態度が気に入らなくて、私は尻尾を一度だけ振り、シャッと威嚇する。
撫でられるかどうかは、こちらが決める。
人間にできるのは、その気まぐれを待ち、施しをありがたく受け取ることだけだ。
「それにしても珍しいですよね」
「何がです?」
「魔女なのに、黒じゃなくてグレーの猫だなんて」
「まあ、拾った子ですから」
黒猫というのは、古くから魔女のパートナーとされている。いわば、由緒正しい慣わしだ。
だが、そんなことは関係ない。
私はどんな黒猫よりも賢く美しいのだから、それでいいだろう。
「タズさん、少し太りました?」
ニコラが、悪気のない顔でメルに尋ねた。
その言葉は、まっすぐ私の耳にグサっと突き刺さる。
本当に失礼なやつだ。もう一度、パンチしてやろうか。
「うーん、運動しないからねえ」
メルは気楽にそう言って、私の方をちらりと見る。私は即座にメルを睨みつけると、しまったという顔になり、咳払いをひとつした。
それからニコラの方に目を向けて、話題を逸らす。
「それよりも、今日はどうしたの?」
「市場を散策していたら、前に師匠が欲しがっていた薬草が手に入りまして」
ニコラはそう言いながら、胸に抱えていた革鞄を慎重に開いた。
「どうしても新鮮なうちに届けたくて」
「あら、それは嬉しいわ」
メルの声が嬉しそうに弾む。
ニコラが鞄の中から取り出したのは、見慣れない植物だった。
茎の先には、まん丸な実がいくつもぶら下がっている。白色、いや、光の加減で淡く輝くシルバーだ。
葉は不自然なほど澄んだ青で、風もないのにかすかに揺れている。
禍々しいというか、明らかに毒がありそうだ。
だが同時にどこか陽気でふざけた気配も感じさせる。
私はチェストの上からそれを見下ろし、耳をぴくりと動かした。
おそらく実験で扱いを間違えるやつだろう。
私のそういう予感は、外れたことがない。
「せっかくだから、ゆっくりしていってくださいね」
メルはキッチンへ向かうと手際よく鍋を取り出し、採ってきた薬草にちらりと視線を向けた。
「さっそく煮出してみましょうか」
「え、それはダメなんじゃないですか?」
ニコラは慌てて手を振り、椅子に腰を下ろしながらも不安そうな顔をする。
「古い禁書で見たのだけれど、どうやら滋養強壮の効果があるらしいのよ?」
禁書。しかも滋養強壮。
あまりに不穏な単語が並んでいる。ろくな結果にならない予感しかしない。
メルは屈託のない微笑みを浮かべたまま、当然のように火を起こそうとする。
「ふ、普通の紅茶でお願いします……」
席を立ったニコラの声は切実というより、もはや必死だった。
「あら、そうなの」
メルは少し残念そうに肩をすくめる。
仕方なく湯を沸かし始め、無難な茶葉を取り出した。
「あ、そうだ」
ニコラは思い出したように声を上げる。
「タズさんにも、おみやげがあるんでした」
そう言って、革鞄の中をごそごそと探り、取り出したのはまたたびだ。
乾いた香りが、こちらまで届く。
「……うむ」
私は低く唸る。
「手ぶらじゃないとは、いい心がけだ」
私はさっとチェストを降り、ニコルが抱えたまたたびを咥えると、そそくさと元の位置へ戻る。
また撫でられたらたまったもんじゃない。
ゆっくりと腰を落ち着かせると、全身にまたたびをまとわせる。転がり、伸び、擦り付ける。
思考は溶け、世界は心地よく曖昧になる。この時間が、至福なのだ。
背後で、メルとニコラがくすりと笑った気がしたが、気にしない。
今はそれどころではない。
ほどなくして、紅茶の湯気が部屋に満ちる。
湯気の向こうで、二人は魔法の話を始める。メルはさっそく先日の出来事。除草に失敗し、庭を花畑にしてしまった話を語った。
「……どうして師匠は、生命魔法だけ上手く扱えないのでしょう」
ニコラは首を傾げ、本気で不思議そうだ。
「うーん、新しい研究分野だからかしら」
メルは紅茶を一口すすり、少し考えてから答える。
「新しいと言っても、200年ほど前ですよ」
ニコラは呆れ半分、抗議半分といった調子で言った。
「ふふっ」
メルは楽しそうに笑う。
「新しいじゃない」
「師匠の感覚には、ついていけません」
ニコラは肩をすくめて、苦笑する。
私もチェストの上で目を細める。
メルは1000年以上前から生きる、正真正銘の伝説の魔女である。
かつて世界中の魔力が暴走した《大崩魔大戦》も、大陸を一つにまとめ上げた《蒼冠統一戦争》も、すべて生き延びてきたことになる。
200年など、彼女にとっては最近の出来事なのだろう。
10歳の小娘と時間感覚が合わないのも、無理はない。
「歴史の授業より、師匠の話を聞いたほうが、よほどためになりそうです」
ニコラは紅茶の湯気越しに、きらきらした目で言った。
「どうかしらね」
メルは肩をすくめ、少し困ったように笑う。
「私、ほとんど引きこもっていたから」
1000年も引きこもっていたやつに運動不足を指摘されたのか、私は。
思わずあんぐりと口を開ける。
「都は、つまらないですか?」
メルが、やわらかく問いかける。
「もちろん」
ニコラは即答した。
「何もかも、全部がつまらないです」
ずいぶん辛辣だが、その声音に悪意はない。ただ純粋で素直な子どもの不満だ。
「まあニコラの才能についていける人は、そう多くないでしょうね」
「はい。だから……」
ニコラは少し声のトーンを落として、ぽつりと続けた。
「私も、こんな暮らしをしてみたいです」
静かな部屋には、湯気の立つ微かな音だけが残った。
「あまりお勧めはしません」
メルは視線を落とし、少し俯きがちになる。その表情は、はっきりとは読み取れない。
「魔法の研鑽を続けているなら、それでいいのです」
一瞬、ニコラは背筋を伸ばしたまま言葉を噛みしめるように視線を落とし、それから小さく息を整えて、はっきりと顔を上げる。
「はい、わかりました」
話題が一段落したころ、ニコラがふと思い出したように姿勢を正した。
「そういえば複合魔法を使うときの道具を開発したのですが」
彼女は机の上に、正方形の小箱のようなものをそっと置く。
角の取れた金属製で、側面には細かな魔法陣が刻まれている。
「最近、出力がうまくいかなくて」
ニコラは少し眉を下げ、指先で箱の縁をなぞる。
「魔法道具を作るのも凄いですが、それに頼っているばかりじゃ、技術は身につきませんよ」
メルはそう言いながら、その小箱を手に取った。
重さを確かめるように、ゆっくりと傾ける。
「そんなことを言っても」
ニコラは少しむっとして言った。
「複合魔法を杖だけで扱える魔女なんて、都にはいなくて、教われませんよ」
「そうなの? 随分と質が落ちたのね」
メルは首を傾げ、少し考え込む。
ニコラの言葉を気にする様子もなく、メルは机の上の魔法道具を手に取る。
蓋を開けたり閉めたり、刻まれた術式を指でなぞったりしながら、もう片方の手で紅茶を飲み進める。集中しているのか、していないのか、判別がつかない。
私はチェストの上で見下ろしながら思う。
こういうときの彼女は、考えているというより、慣れで動いている。
そして、思い出したように口を開いた。
「複合魔法を使うには、ですね」
杖を持ち上げ、宙で曖昧な円を描く。
「杖の先を、こう曲げるように意識するの」
「……曲げる?」
ニコラが復唱する。
「そう。それで、水の入った容器に油を入れるときみたいな感じで」
メルはさらに杖を回す。
「混ざらないようで、でも混ざるようにくるっと回して、ふわっと」
「ふわっと……?」
「ええ。あと初めのうちは複合する魔力は加えすぎないことね。バランスが崩れるわ」
そう言い切ると、メルは満足そうに頷く。
「だいたい、それでできますよ」
数秒の沈黙。
まるで嵐が過ぎ去ったあとのようだ。
「……師匠って」
ニコラは額に手を当て、心底疲れた声で言った。
「絶望的に、説明が下手ですね」
私はチェストの上で静かに同意した。才能だけで生きてきた者の説明は、たいていこんなものだ。
「……え、そう?」
メルは本気で不思議そうに目を瞬かせた。
説明が通じなかった理由が、まるで分からないらしい。
「やっぱり師匠は教えるのは向いてないかもです」
やがてティーカップが空になる。
ちょうどそのタイミングで、メルが顔を上げた。
「……直った」
そう言って、小箱を机の上に置く。
外野から見ると何が変わったかはよく分からない。しかし魔法式を書き換えたのだろう。
「え、もうですか?」
ニコラは目を丸くする。
「すごいですね……」
「まあ、私にかかればチョチョイですよ」
メルは何でもないことのように言う。
「初めて見るタイプの魔法道具ですよね?」
ニコラが念のため確認すると、「もちろん」とメルは即答した。
「少し、試してみてもいいですか?」
ニコラは小箱を両手で持ち、慎重に尋ねた。
「ええ。でも、ちゃんと庭に出てね」
そうして二人は庭へ出た。
私は窓際のクッションへ移動し、最前列の観客席を確保する。
ニコラは小箱を片手で掴み、森の奥に立つ大樹へと狙いを定めた。
深呼吸ひとつ。
「出力は、弱めにしてくださいね」
メルが念を押す。
「はい。1割ほどで」
次の瞬間、箱から放たれた光は細く鋭く、まるでレーザーのように走り、大樹の幹を貫通した。
遅れて、低い音。
木は静かに傾き、そのまま倒れた。
「……!」
窓際でその光景を見ていた私は、言葉を失った。
とても1割とは思えない。こんなの魔法省のトップクラスだろう。
メルが目をかけている天才児なだけある。ただの空気の読めない小娘ではない。
「……どうでしょう?」
ニコラが小箱を抱えたままメルの顔色をうかがう。
メルは特に動揺する様子もなく、顎に手を当てて小さく唸った。
「うーん……」
それから、倒れた大樹と貫通跡を見比べ、淡々と分析を始める。
「光と火の複合ね。確かに狙いは定まっているわ」
彼女は落ち着いた声で続けた。
「でも、消費した魔力量に対して、威力が足りてない。やっぱり道具は燃費が悪いわね」
「……そうですか」
ニコラは肩を落とし、しょんぼりと小箱を胸に抱える。
「感覚に頼り過ぎかもしれません。杖での出力を、もう少し鍛えてみて下さい」
「分かりました」
「また、見てもらってもいいですか?」
「もちろんよ」
メルは迷いなく答える。
そのやり取りを、私は窓際から静かに眺めていた。
やれやれ、またあいつが来るのか。
正直、静かな午後が減るのは困る。
だがもしまたたびを持ってくるのなら、触らせるくらいは、考えてやらなくもない。




