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1話 春の精霊と花粉症

 春は風が軽すぎる。

 人間はこれを陽気と呼ぶらしいが、私にとってはあくびが増えるだけである。鬱陶しくてしょうがない。

 背中を反って大きく伸びをする。背骨がポキポキと音を立てて解放されていく。

 口を大きく開けてフワァとしてみると、ヒゲの先が微妙にずれた気がして、前足で念入りに顔をこすった。

 その流れで前足の毛並みを整える。灰色の短毛が日差しに当たって煌めく。

 たとえ外出する予定がなくても、身だしなみは大切である。


 窓際にあるチェストの上。そこに置かれたクッションが私の特等席だ。

 元はクリーム色だったが、薄汚れて茶色っぽくなっている。ふかふかだった綿も萎びてきている。ただし買い替えは要求しない。私がこの家に来た時から使ってきた相棒だ。愛着が湧いている。

 ごろんと寝転がったまま、私は玄関に目を向ける。

 一段低くなった土間のようなスペースだ。踏み板の木目には、外から持ち込んだ砂が入り込んでいる。脇には古い木製の靴箱、さらに衣掛けまで置かれていて、いっそう狭く感じられる。

 その衣掛けの前では、同居人の魔女メルが、掛けてあった薄手の黒いローブに腕を通し、羽織っているところだった。

「タズ、ちょっと畑の手入れをしてくるね」

「畑の整理に、そのローブは不要だろう?」

「いいの、これが私の正装なんだから」

 ローブの内側には、火の延焼を防ぎ、水を弾き、雷の衝撃すら散らす術式が縫い込まれている。ただの衣服じゃない。立派な魔法道具だ。

 メルが肩まで羽織り終えると、ローブはまるで生き物のように形を整え、彼女の体にぴたりと馴染む。

 それを羽織るということは、また魔法の実験でもするつもりなのだろう。

 私の憶測通り、彼女は玄関に立てかけてあった背丈と同じくらいの杖を手に取った。先端についた紅色の宝石が、朝の光を受けてかすかにきらめく。


 私は背中の後ろで、ゆったりと尻尾を揺らした。

 やれやれ。こういう日は決まって、風が余計なものを運んでくる。騒動に巻き込まれないために、窓を閉めてミルクでも飲みながら、ゴロゴロと昼寝に徹するに限る。

 だが魔女という生き物には、そんな高尚な行動ができない。

 知識欲に忠実だ。考えた時には動き出している。

 ここで私が何を言おうと、どうせメルは止まらないだろう。

 ならば私は少し高いところから、その様子を見物するだけだ。

 

 ググッと首を伸ばすと、窓の外にある庭がよく見える。

 様子を見るには、ここは最適の場所だ。

 この家は四方が森に囲まれてはいるが、庭だけは綺麗に切り開かれている。

 そこには自給自足のための畑が広がり、日々の食料となる作物が丁寧に育てられていた。

 それだけでなく、魔法の実験に用いる果実や素材になる薬草も栽培されている。

 艶々とした野菜と、いかにも毒を秘めていそうな果実が同じ畝に混在している気味の悪い畑だ。

 私はいつかメルが誤食して死んでしまうのではないかと危惧している。


 窓の外では、すでに精霊たちが集まり始めていた。庭全体がざわざわと落ち着きを失っていく。

 春の精霊たちは毎年こうだ。

 果実や野菜の上を軽やかに跳ね回り、くるり、くるりと風を回す。

 そのたびに草木が舞い、花が咲く。植物の成長を促す生命魔法だ。生産者にとってはありがたい反面、考えなしに魔法を発動させるから、迷惑でもある。

 理由もなく集まり、勝手に盛り上がり、あとには散らかし放題の風と花だけを残していく。

 どうやら今年も、花見と称した騒ぎを始めるつもりらしい。

 ここが森に囲まれているせいだが、それにしても身勝手な連中だ。


 そこにメルがやってくる。

 彼女も大人とはいえない小さな体躯だが、精霊と比べれば、巨人だ。小さな体躯で、メルの人差し指ほどの大きさしかない。遠目で見れば、桃色の花が飛んでいるようにも見える。

 手に持った杖を握り直して、精霊が遊び回る庭に分け入った。

「ねえ、精霊さん。今年もずいぶんとお花が咲いたわね」

 精霊たちは無視して踊り狂っていたが、そのうちの1人が足を止めて、メルの方へと目を向ける。

 淡い緑の髪がふわりと揺れるたび、若葉みたいな柔らかい光がきらきら弾けた。桃色の花びらみたいなドレスは小さくひらめき、まるで花そのものがくすぐったそうに笑っているようだった。

「あら、ありがとう」

 精霊はくるりと一回転した。

 その口調は落ち着いていて、佇まいも清楚だ。

 その所作はどこか富豪の家に育ったお嬢様を思わせる雰囲気がある。

「精霊ってもっと騒がしい存在じゃなかったかしら」

 メルが意外そうに尋ねると、精霊はにこりと微笑んだ。

「いいえ。精霊は季節に影響されるの。春の精霊は、穏やかで優しいのよ」

「へぇ。そんな精霊がいるとは思わなかったわ」

 メルが驚くのも当然だ。

 精霊という存在は本来、無邪気で悪戯好きで、正直なところ迷惑な連中のはずだ。

 私だったこんな懇切丁寧な精霊には出会ったことがない。

 この精霊、やけに胡散臭い。私は目を細め、彼女たちをじっと睨んだ。

 自分で自分を穏やかだとか優しいだとか言う輩に、碌な者はいないのだ。

 

 メルは精霊を一度見つめ、それから周囲の森へと視線を巡らせる。

「精霊さん。悪いんだけど、これからここで魔法を使うつもりなの。危ないから、少し離れてくれないかしら。巻き込まれてしまうわ」

 そう言って、メルは少しだけ声を低くし、杖を軽く地面に突いた。

 精霊は一瞬きょとんとした顔をしたあと、楽しそうに風を強めた。

「あら、どんな魔法なのかしら。私たちも見てみたいわ」

 精霊は興味津々といった様子で、風に乗りながら顔を近づける。

「生命魔法よ」

 メルは即答した。

 声は落ち着いているが、杖を握る指先にわずかな力が入る。

「あなたたちが使うものと同じ系統ね。でも、これは真逆」

「真逆?」

 精霊が首を傾げ、ドレスがふわりと揺れる。

「ええ。植物を咲かせるんじゃなくて、枯らしたいのよ」


 その言葉が落ちた瞬間、精霊は「ひぃ」と短い声を上げ、顔を引きつらせながら後ずさる。乱れたつむじ風は彼女の動揺を表しているようだった。

「誤解させてしまったようね」

 メルは慌てて一歩踏み出し、両手を振って弁明を始める。

「全部じゃないわ。畑の雑草が増えすぎた分を調整するだけ。毎年手入れが大変だから、そのための魔法式を考えたの」

「あら、そうでしたの。でも草は草ですわ」

 精霊は気乗りしない様子で、胸の前で手を組んだ。

「どんな理由があろうと、植物を枯らすのは看過できません」

 小さいわりには、言っていることがだいぶ強気である。交渉は難航しそうだ。

「あなたがそう思っても」

 メルは一度息を吸い、ぐっと杖を握り直す。

「私は野菜のためにやりますよ」

「まあ……」

 精霊は大げさに目を見開き、ふわりと後ずさった。


 すると遊んでいた他の精霊が騒ぎを聞きつけて集まってきた。

 そのうちの1人が何かを思いついたのか、やけに柔らかい声色を出した。

「……ねえ、何か他の案も考えましょう?」

「例えば?」

「そうねぇ……」

 精霊たちは宙で一回転し、急に楽しそうな顔になる。

「いっそ、この一帯をぜーんぶお花でいっぱいにしてしまうのはどう?」

 そう言って、イタズラっぽく笑った。

「……どういうこと?」

 メルが問い返すと、精霊は胸を張って続けた。

「木を隠すには森、草を隠すには花畑をですわ」

 頭の中までお花畑なのか。

 そんなことをしても、何の解決にもならない。ただ余計に増えるだけだ。

 しかしメルは顎に手を当てて、深く唸る。その案を採用するか検討しているようだ。

 いやいや、考えるまでもないだろう。

「メル。草を抜くのは、野菜に栄養を回すためだ」

 私は窓越しに口を挟む。

「花を花で隠したところで、意味はない。餓死したいのか」

「あら、そうでした」

 メルはハッとした顔で口に手を当てる。

 まったく。魔法以外のことはてんでダメだな。

 私の忠告を聞いて、精霊が小さく「チッ……」と舌打ちをした。

 今、舌打ちしたな?

 私は耳をぴくりと動かす。やはり碌な奴じゃない。もう清楚と偽るのは辞めたのか。


「……それなら」

 精霊は何事もなかったように咳払いし、すぐに笑顔を作る。

「地面の栄養を増やす魔法、というのはどうかしら?」

「うーん……」

 メルが渋い顔をして、顎に手を当てる。

「私、実はあまり生命魔法が得意じゃないんです」

 急に声の調子を落とし、申し訳なさそうに首を垂れた。

「もし出力を間違えると」

 言い淀むメルに、春の精霊が身を乗り出す。

「全部、枯らしちゃうのかしら?」

「いえ」

 メルはゆっくり首を横に振った。

「この国ごと、植物で埋め尽くしてしまうかもしれません」

「まぁ!」

 精霊はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに両手を合わせる。

 メルは軽い口調で話しているが、説明があまりにも深刻な事態になっている。

「それは素晴らし……いえ、大変なことですわ」

 精霊たちは言い直したつもりらしい。だが、目の輝きは一切変わっていない。

 私はそっと耳を伏せた。

「少しだけ、やってみようかしら」

 メルが完全に流されきった声で言った。

「そうよ、やってみましょう」

 春の精霊は待ってましたとばかりに、声を弾ませる。


「メル、止めておけ」

 私は喉の奥底から、できる限り低い声を絞り出した。このまま放っておくと、世界が滅びそうだ。

 メルは能天気で、精霊は無邪気な悪だ。最悪の組み合わせである。

 ただこれを伝えたところで、メルはすぐに理解しないだろう。

「そんなことをすれば、魔法省が動き出す。この家が見つかってしまう」

 私の声に、ほんの一瞬だけ空気が止まった。

 切り札と言うべきカードだ。メルはこの家が見つかるのを、とにかく嫌がる。

 暴走を止めるにはこれが手っ取り早い。

 思惑通り、メルは私の言葉にぴたりと動きを止めた。

 数秒考えたあと、諦めたように小さく息を吐く。

「……そうね。それじゃあ、止めましょうか」

 彼女は静かに杖を下ろした。世界が滅ぶことよりも、家が見つかる方が心に響くらしい。

 私は安堵して大きく息を吐いた。


「それじゃあ、予定通り草を枯らしましょうか」

「なっ!」

 ついに放たれたメルの宣言に、春の精霊たちがわなわなと震え出した。

「ともに世界を滅ぼそうと言っていたのに、そう言われたら、こちらも邪魔するしかありませんね」

 そんな話じゃなかったし、完全に魔王側のセリフじゃないか。

 清楚で可憐な春の精霊の設定は、どこへいった。


 次の瞬間、精霊の体がふわりと光り、魔法が放たれた。

 庭をなぞるように、小さな風が吹く。

 精霊が使える魔法なんて、たかが知れている。

「へ……へっ……くしゅん!」

 メルの体が大きく揺れた。

 その拍子に、彼女の足元でぽん、と小さな花が咲く。淡い色合いで、なかなか趣味がいい。

 メルは鼻を押さえ、目を瞬かせる。

「なんか……鼻がむずむずして……」


 花粉だ。

 なるほど、春の精霊らしい。

「へ……へっ……くしゅん!」

 ぽんとまたひとつ、花が増えた。

 私は窓際で尻尾を揺らしながら、その様子を見つめる。意外と楽しめそうだ。

「……今、何か起こらなかった?」

 メルが不安そうに足元を見る。

「あぁ、咲いたとも」

 私は鼻を鳴らした。

「可愛らしい花だ」

 精霊たちは、私の皮肉で完全に調子に乗った。

 くるりと風向きを変え、花粉を集め、ふわり、ふわりと舞い上げる。そしてそれをメルの鼻先へと運んでいく。

 この魔法の面白いところは、花を咲かせているのが、あくまでメルだという点だ。

 精霊たちは花粉の流れを誘導しているにすぎない。花が咲いたのは、直前まで準備していたメルの生命魔法が、思わぬ方向へ作用した結果だった。

 得意な土俵とはいえ、少ない労力で優位に立った精霊たちには感心させられる。


「へ……へっ……くしゅん!」

 また、くしゃみがひとつ。

 同時に、庭のあちこちでポン、と花が咲く。

「ちょっと、やめなさい!」

 メルが声を上げるが、精霊たちはまったく聞いていない。

「無理ですわ」

 精霊のひとりが楽しそうに言った。

「これは面白くて、止められませんね」

 くしゃみ、またひとつ。

 花、またひとつ。


 それが何度か繰り返された頃には、庭はすっかり花園のように様変わりしていた。

 桃色に、黄色に、橙色に。バリエーション豊かだ。

「ええと……くしゃみを止める魔法は……へ、へっ……クシュン!」

 メルは杖を振りかざしながら、必死に呪文を思い出そうとする。だが、そのたびにくしゃみが割り込み、魔力の流れが途切れてしまう。

 精霊に危害を加えまいとしているところが、いかにも彼女らしい。

 優しいのは美点だが、今は裏目だ。


「あはは!」

 春の精霊が高く笑う。

「このまま、世界を花だらけにしましょう」

 完全に調子に乗っている。

 これはもう、話し合いの段階ではない。

 仕方ないな。

 私は窓を押し開け、軽やかに庭へ降り立った。

 春の土は柔らかく、肉球に心地いい。助走をつける。耳を畳み、風を切るように。


 そして私は、精霊たちのもとへ一直線に駆けた。

 振りかぶった尻尾を、最初の一体に思いきり叩きつける。

 パァン、という乾いた音が春の庭に響き、精霊は勢いよく吹き飛ばされた。

 間を置かず、体をひねって二体目へ。反応が遅れた精霊を尻尾の一撃で弾き飛ばすと、残った精霊たちは、逃げるように森の中へと消えていった。


 あとに残ったのは、静まり返った庭と、ふっと途切れた風だけだった。

 風が止まると同時に、メルのくしゃみも止まった。

 彼女はしばらく鼻を押さえたまま瞬きをし、それからゆっくり息を吐く。

「……止まった?」

 私は何も言わず、尻尾を一度振った。

「ありがとう、タズ。でも、もう少し早く止めてほしかったわ」

 メルはそう言って、私を見下ろす。

 ホッとしたような優しい笑みだ。


「良いじゃないか。君は春を増やした」

 私は吐き捨てるように言った。

 少しは反省してもらわないといけない。危うく世界を滅ぼしかけた。その上、私の忠告を無視して、昼寝を邪魔したのだ。

 庭には、メルが生み出した花たちが咲き誇っていた。春の光を受けて、どれも綺麗に色づいていた。

 私は再び窓際へ戻り、花園と化した庭を眺めながら、こっくりと自分の眠気に体を預けた。

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