基礎の再確認と、緑の影
昼下がりの公園は、不思議なほど人が少なかった。広々とした芝生の広場には子供たちの声もなく、陽射しの白さだけが地面全体を照らしている。人工的な街路樹の葉が、微かに風で揺れる音だけが響いていた。
「ここなら落ち着いてできそうだ」
晴人がそうつぶやくと、隣を歩く樹は微かに首を傾げた。その表情には、まだ若干の戸惑いが残っている。
「本当に、ここでやるんですか?」
「場所はどこでもいい。重要なのは君自身の状態だから」
晴人は芝の上に立ち、軽く肩を回した。樹はしばらくその様子を見ていたが、ためらいを押し隠すように、すぐに晴人の正面に立った。その姿勢には、やはり格闘技の部活で積み上げた経験がにじみ出ている。
「稽古って言ったけど、俺が格闘技の技を教えるわけじゃない。君はすでに俺よりも技術は上だ」
「それなら……」
晴人と樹は、高校時代、同じ格闘技の部活に所属していた。もっとも男女別に分かれていたため、一緒に練習をすることはほとんどなかったが、互いの実力は知っている。
「ただ、今の君には少し抜け落ちているものがある」
晴人の言葉に、樹の瞳が揺れた。その一瞬に、かつて競技の場で積み上げてきた記憶の影が、はっきりと浮かんだように見えた。
晴人は深く息を吸い込み、静かに言葉を続ける。
「たとえば呼吸だ。無意識にやっていることだけど、試合の緊張や普段の生活のストレスで、呼吸の深さは崩れていく。俺が君を見て気づいたのは……呼吸が速い、ということだ」
樹は驚いた顔をした。言われるがまま、自分の呼吸を意識してみる。
「……本当だ。意識するとすごく浅い」
「昔はもっと深く、腹の底から、ゆったりと呼吸していたはずだろう」
「そういえば……試合のとき、自然と整っていた。でも最近は、就職活動や研修のせいで」
言いかけて樹は苦笑した。忘れていた感覚が呼び戻されていくのが分かるのだろう。
「じゃあ、思い出すだけだ」
晴人は芝の上に座り、姿勢を正す。樹もそれに倣って、向かい合うように座り込んだ。
「背筋を伸ばして。肩を力ませない。足の裏で地面を感じて。そこから、ゆっくりと息を吸い込む」
樹は動きをなぞりながらも、すぐに違和感に気づいた。
「力を抜いたつもりが、腰が浮く」
「そう、それが今の君の癖だ。だが意識すれば、すぐに直る」
しばらく静寂が続く。風が草を揺らし、遠くで小鳥が鳴く声だけが聞こえた。呼吸のリズムがそろっていくにつれ、樹の座る姿勢は徐々に安定していった。
「……ああ、そうだった。昔は無理をしていないのに、体がまっすぐになる感覚があった」
「それを思い出せれば十分だ。君はもともと出来ている。ただ、忘れていただけだ」
晴人は微笑み、立ち上がった。樹も、その動作に倣ってすっと立ち上がる。その動作は、以前よりはるかに軽い。
「どうだ?」
「楽になりました。力んでないのに、地面に立ってる感じが前よりはっきりしています」
「それでいい。強さは特別な技からじゃなく、基礎を繰り返すことで積み上がるものだ」
そのやり取りを、ファヌエルは少し離れた場所で黙って見つめていた。彼女の視線は柔らかく、まるで長い年月を経て、ようやく花が開いたのを眺めるようだった。樹はファヌエルの存在に気づいていない。ただ【ここにいて当然】のように、無意識が調整されているにすぎない。
訓練を終えた二人は、公園の出口へ向かって並んで歩き出した。日差しは少し傾き、舗道に長い影を落とす。
「先輩と並んで、慣れていない街を歩くの、何だか不思議です」
樹がぽつりとこぼす。
「不思議?」
「今までは人と歩調を合わせるのが苦手でした。競技でも日常でも。でも今日は……自然に歩けてます」
晴人は笑ってうなずいた。
「基礎を思い出したからかもしれないな」
その言葉に樹も少し笑う。互いの距離が前より近くなったのを、どちらも自覚していた。
そのときだった。
通りの先に、異様な影が立っていた。街路樹の陰から現れた人物は、全身を深緑の衣で包み、髪だけは自分たちと同じ黒。顔だけが、それが人間であると主張しているように見えるが、まるで自然の一部が人の形をとったようにも見える。
だが、周囲の人々は誰一人気づかない。すぐそばを通り過ぎても、まるで影を避けるかのように、何事もなく歩いていく。
晴人と樹だけが、その姿をはっきりと捉えていた。
緑の人物はしばし二人を見つめ、静かに口を開いた。
「二人を同時に見るとは……この街では珍しいな」
声は、風のざわめきに混じりながらも、鮮明に二人の耳に響いた。
樹は思わず足を止める。晴人もまた、胸の奥を冷たい指で撫でられたような感覚に襲われていた。
問いかけようとした瞬間、その人物は人混みへ歩みを返し、そのまま姿を消した。残されたのはただの舗道と、行き交う人々のざわめきだけ。
「……今の、見えたよな」
晴人の声は、微かに震えていた。
樹はしばらく黙ったまま空を仰ぎ、そして答える。
「うん。確かにいました。でも……どうして私たちにだけ見えた感じだったんでしょう?」
答えはない。ただ、胸の奥に不安と共に妙な高揚感が芽生えていた。自分たちは、この街に隠された何かに選ばれたのかもしれない、という予感。
ファヌエルは二人を静かに見やり、何も言わなかった。その表情には、笑みとも憂いともつかぬものが浮かんでいた。