知られていた弟子
カフェの窓は、星見市の夜景を切り取る額縁のようだった。晴人と樹は向かい合って座り、湯気の消えたカップだけがテーブルの上に残っている。隣の席からは小さなBGMがかすかに流れ、奥のカウンターではバリスタがミルクを泡立てていた。けれど、周囲の客は、純白のローブをまとったファヌエルを見ていない。ファヌエルが、他者から姿を認知されないよう望んでいるのだと、晴人はもう理解していた。
「先輩。変なことを言うかもしれませんが……さっきからずっと、不思議なんです」
樹がカップを両手で包みながら、慎重に言葉を選ぶように視線を上げた。
「ファヌエルさんのこと、初めて会ったはずなのに……先輩の弟子だって、最初から知っていた気がして。わたし、いつ紹介されましたっけ」
晴人は息をのんだ。自分はそんな説明をした覚えはまったくない。視線で助けを求めるとファヌエルは、悪戯を打ち明ける子どものように、目だけで笑った。
「それはね、私が少し手を入れたから」
ファヌエルは、落ち着いた知的な話し方をしながらも、どこか可愛らしい冗談を軽く挟む。
「手を……?」
樹は困惑した表情を隠せない。ファヌエルは、その疑問を解くように、比喩を交えて説明を続けた。
「記憶の結び目って、日常の中で自然にほつれるんだ。私はその糸を、彼女が戸惑わない形に結び直しただけだよ。【晴人のそばには誰かがいる】って、彼女の中にすでにある像に沿って。無理やり書き換えたわけじゃない。あるはずの場所に、あるべき説明を置いただけさ」
晴人は胸の奥が冷たくなるのを覚えた。
「勝手だな。俺の記憶に触れるのは構わないが、他人の記憶に触れないでくれ」
「勝手、かもしれない。けど、綻びを放っておく方が関係はもろくなる。偶然と必然は混ざり合って流れているんだ。私はただ、その流れが壊れないように指先で触れた。彼女は君にとって大事だろう?」
樹は、二人の不可解なやり取りを黙って聞いていたが、やがて小さくうなずいた。
「たしかに……違和感がないんです。先輩の周りには、昔から自然と人が集まっていたから。だから弟子がいるって言われても、腑に落ちる感じがして。わたし、忘れていたのかなって思ったくらいで」
自分の意思より、他者の配慮で世界が整えられてしまう感覚が怖い。受け入れたいという安堵と、プライベートに踏み込まれた怖さが、同時に晴人の心の中に居座る。
「……だったら、今はそのままでいい。ただ、俺に無断で、こういう人為的な操作をやりすぎないでくれ」
ファヌエルは小さく肩をすくめた。その中性的な魅力を持つ表情は、少しだけ拗ねたようにも見える。
「了解。必要なとき以外は触らない。約束するよ。もっとも、いつかは私が望まなくても彼女は私をそのまま認識するだろうけど」
「どういう意味?」
樹が首をかしげる。ファヌエルは視線を窓の外に滑らせた。
「大きな出来事が来る、ってだけさ。そのときは、私が糸を結ばなくても、彼女の持つ高いポシビリティが、私という存在の神秘的な気配を、そのまま見せてしまう。そういう規模の波は、私にも止められないから」
晴人は喉の奥で息を飲んだ。樹は深追いせず、代わりに穏やかな笑みを晴人へ向ける。
「でも、今は……よかったです。先輩に弟子がいるって、なんだかすごく似合います」
その無邪気さが、晴人への真剣な慕情と矛盾しないのが、樹らしい。晴人は曖昧に笑って、すっかり冷めたコーヒーに口をつけた。
ファヌエルがカップの縁をのぞき込み、スプーンで軽く回す。浅い渦に店内のライトが反射して、瑠璃色の輪が生まれる。
「ねえ、これ好き。小さな流れに、外の街の光が映り込むの、きれい」
「……機械はほどほどにな。また混乱させないでくれよ」
「うん。今日は触らない。代わりに、直すことならいつでもやるよ。壊れていなくても、それを【良くする】のは好きだから」
その言い方が妙に頼もしくて、晴人は肩の力を落とした。樹はそんな二人のやり取りを目で追い、少しだけ表情を和らげる。
「さっき、ファヌエルさんがわたしの中の結び目を整えてくれたって言ったけど……それって、わたしが弱いからですか?」
「違うよ」
ファヌエルは即答した。口調は知的に、しかし優しく響く。
「強いから、だね。強い人は、自分の中にある【像】を守ろうとする。その像に沿って整えれば、世界は裏切らない。逆に弱い人に触れると、その像ごと崩れてしまう。君は崩れない。だから、安心して結べた」
樹は目を見開き、その言葉を反芻するようにした。そして小さく笑った。
「ありがとう、ございます。だったら、ちゃんと強くならなきゃですね。……先輩の前で」
「無理はするな。強がるのと強いのは違う。樹は樹のままでいい」
「はい。強がるのは、試合の時だけで十分です」
彼女の手はカップの取っ手から離れ、膝の上で落ち着きなく指先を組む。その癖を晴人は覚えていた。緊張しているときのサインだ。
ファヌエルが、ふと真顔になる。
「晴人。君の可能性に、私は触れない。触れると、君は君でなくなるから。けれど、君の周囲の結び目は、必要なら整える。君の歩調に合わせて、ね」
「ありがたいけど、頼まれたときだけにしてくれ」
「うん。頼まれたときだけ」
短い応酬のあと、三人の間に静かな間が流れる。窓の外では、横断歩道の白い線が、雨上がりみたいに光って見えた。店内のざわめきが少し遠くなる。晴人は、胸の重さがわずかに薄れていることに気づく。
「先輩。これから、少しずつでいいので……また、街のこととか、いろいろ教えてください」
「分かった。できる範囲で、な」
樹は満足げにうなずくと、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、ニュースの緑の人……結局、何だったんでしょう。街がざわついてますけど」
晴人は苦く笑う。
「ただの目立ちたがりに見える。けど、嫌な予感はする。ポシビリティが高いってだけで、何でも許されるわけじゃないはずだ」
ファヌエルは視線を伏せ、指でカップの影をなぞった。
「数値は指標。価値ではない。流れを見誤ると、指標は簡単に凶器になる。……気をつけよう」
三人は同時に小さく息をついた。結論の出ない話題はテーブルの端にそっと置き、代わりに次の予定を決めることにする。
「じゃあ、次は昼に。人の少ない場所で、基礎から。樹の歩幅に合わせてやるか」
「はい。よろしくお願いします」
ファヌエルが控えめに手を上げる。
「私も行く。弟子だから」
「……弟子は俺だろ」
晴人が突っ込むと、ファヌエルは楽しそうに笑った。その無邪気な笑顔が、店内のささやかな灯りと混ざって、夜の空気に溶けていく。
会計を済ませ、席を立つ。自動ドアが開く前に、晴人は振り返った。カップの並ぶテーブル。窓ガラスに映る三つの輪郭。それが妙に名残惜しかった。
外に出れば、次の章が始まる。その予感は確かにある。けれど今は、結ばれた糸の手触りを確かめるだけでいい。
夜風が頬をなで、街の明かりがまたたいた。三つの影は重なり、そして同じ方向へ歩き出した。