消えゆく光
ティンカーベルの羽は、命の灯火のようにかすかに震えていた。敗北を悟った彼女は、樹と晴人を見下ろし、しかし悔しさよりも未来への静かな決意をたたえた声で告げた。
「わたしの本質は、永遠に消えることはないわ……。でも、あなたたちの前からは、しばし舞台を降りる」
その姿は淡い光の粒子となり、夜空を裂くように、ピーターパンが落ちていった都市の最も高いビルの方向へと流れていく。やがて小さな星の瞬きのように揺らめき、夜空の深い闇に完全に溶け込んだ。
……
二人は、戦いの終わりを示す重苦しい静寂の中で、しばし無言で立ち尽くした。
樹の脳裏に、あの瞬間の感触が繰り返し蘇る。拳がピーターパンを打ち抜いたときの手応えは、あまりにも虚ろだった。それは、肉を砕くような確かな破壊の実感ではなく、影を掴もうとして空を切ったような、曖昧な虚無感だった。落下の衝撃で死んだという確信も、微塵も持てない。樹は、あの影がただ役目を終えて消えたのだと、己に言い聞かせるしかなかった。
「……本当に、倒した?」
内側から漏れた問いに、横に立つファヌエルが確信に満ちた声で答えた。
「あれは死んではいません。あの程度の物理的な衝撃で、彼の本質が消えることはあり得ないのです」
樹は息を吐いた。胸の奥を締めつけていた不安が、ようやく現実的な形で理解できた気がした。
ファヌエルは天を仰ぎ、目を閉じて静かに言葉を続ける。
「これで、この件はひとまずの終結です。そして、重要なことですが……君たちの勝利により、ポシビリティは完全に歪みが修復されました。この街の未来は、あるべき姿に戻ったのです」
その言葉に、樹と晴人は安堵を覚えた。
ファヌエルはわずかに肩をすくめ、口元に寂しさと開放感を混ぜたような笑みを浮かべる。
「さて……師匠、私を正式に破門してくださいませんか」
突拍子もない言葉に、二人は目を見開いた。ファヌエルはそれを面白がるように微笑みを深める。
「ティンカーベルが消えた以上、私の役割もここまで。だから、これは別れの挨拶のようなものですよ」
「ファヌエル……」
樹が声をかけるが、ファヌエルは静かに首を振った。その表情には長き務めを終えた者の安らぎがあった。
「君たちは、誰にも頼まれず、純粋な選択によってこの街を救った。その真実は、ポシビリティの核として永遠に残り続けるでしょう。私には心からの感謝しかありません」
彼女は二人を正面から見据える。その瞳には、二人の選択がもたらした明るい未来が宿っているようだった。
「見返りも約束されないのに、君は、君たちは信じ、選び、そして勝ち取った。その事実は、この世界の根底を支える確かな光なのです」
ファヌエルは、笑顔だった。
「君たちに、新たなる道が開かれんことを」
最後にそう言い残し、ファヌエルは柔らかな、金色の光を浮かべながら消えていった。光が彼女の輪郭を飲み込み、夜の闇に溶けていく。まるで、一つの物語が完結したかのように。
……
残された二人は、しばし言葉を失って空を見上げていた。
やがて、星見市の夜空に広がる光景が、彼らの視界を荘厳な色彩で満たす。それは流星群ではない。深緑、金色、そして淡い青の光が、夜空いっぱいに広がる巨大なオーロラとなって出現したのだ。
その壮大な光の奔流は、街に破壊ではなく奇跡的な祝福をもたらした。
光のヴェールは街の屋根を優しく照らし、並木道を神秘的な色彩に染め上げ、川面に反射して幾重にも煌めいた。ビルの窓ガラスは、宇宙の神秘を映すように輝き、通りを歩く人々は立ち止まって見上げた。恐怖はどこにもない。ただ胸の奥に残るのは、この世界がまだ奇跡に満ちていることを知ったときの、静かで深い感動だった。
光のヴェールはゆっくりと夜空の彼方へと消え去り、街は何事もなかったかのように静けさを取り戻していく。建物も街路も傷つくことはなく、人々の営みは続いていた。
「終わったのか……?」
晴人の声は、もはや夜風に怯えたものではなかった。樹は答えず、ただ空を見上げた。
星々は穏やかに瞬き、二人の選択が正しかったことを証明するかのように、光を放っている。
未来について語る言葉は、まだ二人の口にはない。だが確かなのは、この出来事によって、二人に進むべき道、選び取るべき新たな使命が生まれたという事実だけだった。
星見市の夜空に、静かな希望の輝きが降り注ぐ。それは、二人にはまだ、この世界で果たすべき役割があることを暗示するかのように。
二人の胸の奥には、街を救ったという温もりと、未来への不確実な期待が渦巻いていた。これからの道は定められてはいない。だが、この夜空の光が、彼らが必ず歩んでいくことを祝福しているように、優しく包み込んでいた。