墜ちゆくものの影
ティンカーベルは、戦いの最中にも焦りを隠しきれずにいた。羽音を震わせながら、低く鋭い声をピーターパンに投げつける。
「彼らはやってこない、って確信してたくせに来たじゃない。彼らを侮っては駄目よ。特に彼女のポシビリティは高い。あなたのポシビリティを瞬間的にでも超えるかもしれない。人間が出した数値を信じちゃだめ。あれはすごくアバウトなもの。あなたも人間の推定でとても高いけど、元々ポシビリティは可能性、ぶれるものなのよ。過信してはだめ」
その言葉を聞いた瞬間、ピーターパンの表情にかすかな陰が走った。いつもの無邪気さと軽快さが揺らぎ、足取りがわずかに鈍る。
心の奥底を抉られるような警告は、彼にとって避けてきた何かを呼び起こしたのだろう。
彼は反撃を続けてはいたが、どこか歯止めがかかっているようだった。樹の攻撃を廻し受けでいなしても、強く弾き返すことはない。合気で手を取っても、決めることなく軽く投げるだけ。
まるで時間を稼いでいるかのような、そんな中途半端な動きだった。自らが直接手を下すことを恐れ、あえて間接的な手段に終始しているように見えた。
低層のビルに設けられた屋上施設は、昼間なら憩いの場として人々に利用されるはずの場所だった。だが今は夜の闇に沈み、そこかしこに古びた給水タンクや錆びついたアンテナが影を落としている。
柵の向こうには星見市の街灯と夜景が広がり、四方が開けているために隠れる場所はなく、視界は広いが逃げ場の少ない環境となっていた。
そんな場所で、ピーターパンはこれまで樹の攻撃をひらりとかわし続けていた。だが、落下しかけた衛星の電磁波が街全体を覆い、屋上の照明や通信機器が一斉にノイズを発した瞬間、彼の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、虚像めいた敏捷さが乱れた。
その隙を本能で掴み取った樹の拳がついに届いた。
ピーターパンの身体を樹の拳が打ち据えた瞬間、空気が震えた。濃緑の全身タイツに包まれた小柄な体が、まるで糸を断たれた人形のように大きく仰け反る。赤い羽根のついた帽子が宙を舞い、彼は呻き声ひとつ残さず暗がりへと吸い込まれていった。
そこから彼は背を折り、闇へと落ちていった。生死すら定かでなく、ただビルの下へ消えた姿は誰も追いようがなかった。ただ、確かに止められたのだと三人は理解していた。
「……やったのか」
晴人が低く呟く。
返事の代わりに、樹は汗に濡れた手を強く握りしめて頷いた。その目の奥には安堵と同時に、恐怖にも似た影が潜んでいた。彼女は初めて「殺してしまったかもしれない」という現実に直面していたのだ。胸の奥で渦を巻く不安が、喉を締め付ける。吐き気すら覚え、膝が震えそうになる。
「今は気にするな、樹!」
晴人の声が強く響いた。
「あれでも……たぶん、アレは死ねない。そうだろ、ファヌエル?」
ファヌエルは夜空を一瞥し、静かに頷いた。
「あれは【影】にすぎません。肉体を得たとしても、常の命とは違う。落ちたからといって消え去る存在ではないでしょう」
樹はその言葉にわずかに救われ、震える拳を胸元で押さえた。
だが終わりはまだ遠い。上空では、軌道を外れた人工衛星が赤々と光りながら落下を続けていた。燃え尽きるより前に街へ到達すれば、ただの火の雨では済まされない。晴人は息を荒げながら、目前の古びた制御盤に向き直った。
「俺は……ファヌエルの師匠で、樹の先輩だからな! こんなところで諦められるかよ!」
指先は震えていた。汗で滑り、見慣れぬ計器の意味も定かでない。それでも必死に繋ぎ合わせ、配線を組み替える。誤作動のアラートが赤く点滅し、火花が散る。だが晴人は目を逸らさなかった。
彼の低いポシビリティは、あふれ出る悪意を拒絶する【空洞】のように作用し、暴走する信号を飲み込み、結果として機械は新たな軌道を選び取っていた。
空の火球は街の屋根を照らしながら流れ、やがて山の向こうで音もなく消える。星見市の人々は、ただ夜空に現れた一瞬の光景を驚きと共に見上げるばかりだった。
「……成功、した?」
樹が呟き、安堵の色がにじむ。
夜空には、燃え尽きた残光が淡く漂い、まだ緊張の名残を残していた。ファヌエルは彼女の隣に歩み寄り、しばしその光の行方を追った。やがて静かに目を細め、宙へと視線を向ける。その横顔には、達成と別離を同時に抱えたような陰影が差していた。