ファヌエル視点:影の仕掛け
私が星見市の街路を歩いていると、いつもの二人が並んでベンチに腰を下ろしていた。晴人と樹。正午を過ぎ、日差しは柔らかくなりつつあるが、街路樹の陰がなければまだ少し暑い。二人の間に漂う空気は、不思議と落ち着いている。
「先輩、こうして一緒にのんびりできるなんて、ちょっと不思議です」
ベンチに腰掛けながら、樹が小さく笑った。
「不思議?」
「はい。研修が延期にならなかったら、もうとっくに慌ただしい毎日だったはずですから」
晴人は肩をすくめ、背にもたれた。
「まあ、それのおかげで君が星見市にいる時間も延びたわけだ。俺にとっても少し助かるよ」
「そう言ってもらえるなら、延期も悪いことばかりじゃないですね」
二人の間に流れる空気は柔らかく、日差しの下で揺れる木陰のように穏やかだった。
二人のやり取りはあくまで自然で、年の差を感じさせるものではない。少しだけ上下の立場を意識した調子が樹の口ぶりに混じるが、それ以上に彼女の表情は柔らかい。
私はそんな二人を眺めながら、彼らの関係性を測る。晴人は無意識に気を抜いた笑みを浮かべているし、樹は時折彼の横顔を盗み見る。その空気は淡いが、決して弱くはない。
街は日常を保っていた。商店街のアーケードには子どもの声が響き、歩道では買い物袋を持った老人が足を運んでいる。だが、私はその平和の中に小さな「揺らぎ」を感じ取った。
向こうの通りに、工事現場がある。普段ならきちんと閉じられているはずの仮設フェンスが、今日は半ば開いたままだ。中には重機がいくつも止まっている。そのうち一台のクレーンが、不自然な角度でアームを上げっぱなしにされていた。
それは、ただの管理不行き届きだろうか。私は眉を寄せた。
「……先輩、あれ、ちょっと危ないですね」
樹も気づいたようで、現場の方を指差す。
「ほんとだな。子どもでも入り込んだら大事だ」
晴人が腰を上げようとする。だが、私はわずかに手をかざした。
「待ってください。あれは、ただの不注意ではない」
二人がこちらを見る。私は静かに続けた。
「誰かが、人を誘い込むように仕組んでいる。……例えばあの門、風で偶然開いたにしては、開き過ぎている。クレーンのアームも、わざと注意を引くために残されたとしか思えない」
私の言葉に、晴人は小さく息を吐いた。
「つまり……またあの緑の奴か」
私は頷いた。緑の人。深緑の全身タイツに赤い羽根を刺した帽子をかぶる、濃い顔立ちの小柄な男。ピーターパン。彼は人を直接は傷つけない。だが【状況】を整えることにかけては、異様な執念を見せる。人の不注意、興味、欲望。そうしたものを誘い水にして、人間自身の行為で災厄を招かせるのだ。
「わたし……見回ってきます」
樹が立ち上がる。
「君一人で行く気か」
「大丈夫です、先輩。わたしなら子どもを追い払うくらいできますから」
晴人はしばらく黙ってから、苦笑を浮かべた。
「分かった。俺も行く。どうせ君は止めても行くんだろ」
二人は足を早め、工事現場へ向かう。私は少し距離を置いて後に続いた。
現場の近くに、小学生くらいの子どもが二人、門の隙間から中を覗き込んでいた。クレーンにぶら下がった鉄球を見て、無邪気にはしゃいでいる。
「おい、危ないぞ!」
晴人の声が響き、子どもたちは驚いて振り返った。樹が走り寄り、優しく手を引く。
「ここは入っちゃだめよ。もしものことがあったら危ないから」
子どもたちは渋々うなずき、商店街の方へ駆けて行った。
事なきを得た……そう思った矢先、背筋をなぞる冷たい感覚が私を捉えた。
振り返ると、通りの向こう。ビルの陰から、あの緑の影がこちらを見ていた。帽子の赤い羽根が、陽光を受けてぎらりと光る。
彼は一歩も動かない。ただ腕を組み、濃い顔に笑みを貼り付けていた。
直接手を下すことはない。だが彼がそこにいるだけで、街の秩序は乱される。無辜の人間は、自らの足で罠に踏み込むのだ。
「……見ている。彼は、次を仕掛ける気です」
私は小さく呟いた。晴人と樹はまだ気づいていない。二人に影が迫るのは、時間の問題でした。
私は白い袖を握りしめ、深く息をついた。彼の遊戯に、この街を明け渡すつもりはありません。