影を追う足音
事故の翌日、星見市の大通りはまだ混乱の余韻を引きずっていた。壊れたガードレールや割れたガラスは応急的に補修されたり片付けられたりはしているが、どこか街全体が不安を漂わせている。
「昨日の現場、調べに行こう」
晴人の短い言葉に、樹とファヌエルはうなずいた。三人はまだ立ち入り規制が張られた現場の外周に立ち、残された痕跡を目にする。焦げたアスファルト、横転したままの軽トラック。これらの被害が人為的か偶発的か、その境界を探るのが今日の目的だった。
「警察は事故として処理しているみたいですね」
樹が低く言った。制服警官が数人、まだ現場に残っている。
「……だが、あの状況は偶然じゃない。君もそう思うだろ?」
晴人の問いかけに、樹はきっぱりとうなずいた。
「はい。運転手の証言では、ブレーキが突然効かなくなったと。でも整備の記録には異常がなかったそうです。つまり……」
「誰かが細工したってことか」
晴人の目が鋭くなる。ファヌエルはそんな二人を見ながら、静かに口を開いた。
「人の心を揺さぶるのは容易い。けれど物を壊し、仕掛けるのは手間がかかる。それでも、彼は迷わずそれを選ぶ……その執念は侮れない」
三人は現場を一周した。そこで小さな違和感を発見する。事故車両の進路沿いに、不自然に外されている点字ブロックがあったのだ。剥がされた跡はまだ新しい。そして、そこに残っていたのは、深緑色の布切れだった。人目に触れぬよう、下に押し込まれていた。
樹がそれを拾い上げ、眉を寄せる。
「先輩……これ」
「間違いねぇな」
深緑のタイツ生地。昨日、路地で見た、あの【ピーターパン】の姿が晴人の頭をよぎる。濃い顔の男が、妙に陽気に街を歩く姿だ。
「ピーターパン……」
樹の口から、その呼び名が自然と洩れた。
その瞬間だった。路地の向こうから、甲高い笑い声が響いた。
「おっと、見つかっちまったかぁ!」
三人が振り向くと、深緑の全身タイツに赤い羽根帽子をつけた小柄な男が、電柱の上からこちらを見下ろしていた。目の下には疲れも陰もない。ただひたすらに愉快そうな笑顔だけが浮かんでいる。
「君たち、昨日はよく動いたじゃないか! おかげで退屈しないで済んだよ!」
晴人は咄嗟に前に出る。樹が横に並び、いつでも動けるよう身構えた。ファヌエルは一歩下がり、状況を見極める。
「お前がやったのか……この一連の事故を仕組んだのは全部」
「事故? いやいや、みんなちょっと運が悪かっただけさ。世界ってのは、ちょっとしたきっかけで簡単に壊れるもんだろう?」
男は肩をすくめ、大仰に手を広げた。その仕草は舞台役者のように誇張され、周囲の視線を引き寄せる。
「ふざけるな!」
樹が叫んだ。だが男は悠然と笑みを浮かべ続ける。
「ふざけちゃいないさ。楽しいことをしてるだけ。君たちも楽しいだろう? 退屈な日常から抜け出して、ヒーローみたいに駆け回れるんだから!」
晴人は拳を握りしめるが、一歩前に出た時にはもう男の姿は消えていた。電柱の上に残されていたのは、またも深緑の布切れだけ。
「……逃げられましたね」
樹が悔しげに呟く。ファヌエルは目を閉じ、風に揺れるローブを押さえながら言った。
「彼は今は戦わない。追い詰められれば、笑いながら逃げるだけ。その代わり、仕掛けを残していく……それが一番厄介なんだ」
「分かってる。だが……必ず捕まえる」
晴人の声に、樹は静かにうなずいた。
現場を離れる頃には、夕暮れが街を包み込んでいた。サイレンの音はもう遠ざかり、人々は少しずつ普段の生活へと戻っていく。屋台からは焼きそばの匂いが漂い、子どもたちの笑い声も聞こえた。
その穏やかさに、樹がふと口元を緩める。
「先輩……少し、休みませんか。こんな時だからこそ」
晴人は少し考えてから、肩をすくめた。
「そうだな。俺たちだって人間だ。飯ぐらいは食わねぇと」
ファヌエルもまた、目を細めて微笑む。
「日常はいつだって、戦いの後に待っています。だからこそ、大切にしなければなりません」
三人の足音が並んで街路を歩き出す。その背後で、夕闇に紛れた笑い声が一瞬だけ木霊した気がした。だが、もう確かめる者はいなかった。