揺れる日常と影
訓練を終えた直後、身体には心地よい疲労が残っていた。樹の指導は厳しくも的確で、晴人の呼吸は乱れ、汗が額から滴り落ちている。
「今日はここまでにしましょう。体力も集中力も限界を超えて続けても、意味は薄いわ」
樹は冷静にそう告げ、髪を結び直した。彼女は呼吸一つ乱していない。その姿が晴人には余計に眩しく見える。
「……やっぱり、俺はまだまだだな」
思わず漏らした言葉に、樹はきょとんとした顔をした。
「何を言っているの、先輩。成長しているのが見えるだけでも十分かと。焦る必要はないと思います」
「でも、俺が足を引っ張ってる気がするんだ、君に比べるとな」
晴人は視線を落とした。訓練のたびに感じる、取り残されていくような感覚。それを隠しきれない。
樹は一瞬だけ表情を和らげ、しかしすぐ真剣な瞳を彼に向けた。
「晴人さん。弱さは必ずしも悪いことじゃない。むしろ、それを認められる人は強いんですよ。先輩にはそれがある」
その言葉に、晴人は答えを返せず、ただ小さく頷いた。
ファヌエルは少し離れた場所から二人を見ていた。白いローブが夕暮れの光に照らされ、淡い影を地面に落としている。
「人間は面白いですね。比較することで迷い、同時に成長もする。今日の収穫は充分です」
その声に二人は振り返る。ファヌエルの微笑みは柔らかいが、どこか掴みどころがなかった。
「じゃあ、今日は解散としようか」
樹がそう提案し、三人はそれぞれの帰路についた。
夕暮れの街を歩きながら、晴人は訓練の疲れを引きずっていた。アスファルトの上を靴音が軽く響く。星見市の喧騒はいつもと変わらず、信号待ちで並ぶ人々の顔にも特別な緊張は見えない。
「みんな、普通に生きてるんだよな……」
自分たちが直面しているものの異質さを思う。世界は危うさを秘めているのに、その実感を抱くのはほんの一握り。
ふと、背後に気配を感じて振り返った。
人混みの中に、一瞬だけ、緑色の人影が見えた気がした。帽子に赤い羽根を差した小柄な人物。しかし目を凝らしたときには、もう姿はなかった。
「……疲れてんのかな」
自分に言い聞かせて、歩き出す。だが心の奥底に生じたざわめきは、完全には消えなかった。
一方、樹は帰宅途中に買い物を済ませていた。夕飯の材料を袋に詰め、整然と歩く。彼女の生活は規律正しく、訓練の合間にも、生活を乱さぬよう努めていた。
エコバックにつまった食材の重さで持ち手が指に食い込む感覚。そんな日常の細部にこそ、彼女は安堵を覚える。
しかし、その足取りがふと止まった。ビルの陰、こちらを見ているような視線を感じたからだ。
「……気のせい?」
周囲を見回す。学生、会社員、買い物帰りの主婦。怪しい人物は見当たらない。樹は眉をひそめ、だがすぐに気を切り替え歩き出した。
夜。晴人は自室に戻り、机に突っ伏すようにして息を吐いた。訓練の反芻と、自分の足りなさへの苛立ち。
「もっとやらないと……」
拳を握る。しかし同時に、不安も大きくなっていく。自分は果たして、あの二人と肩を並べられるのか。
窓の外から夜風が入り、カーテンを揺らした。何気なく視線を向けたそのとき、街路樹の影が妙に歪んで見えた。人影のように。
瞬きをした次の瞬間には、ただの木の影に戻っていた。
「……やっぱ疲れてる」
独りごちて灯りを消す。しかし眠りにつく直前、再び背筋を撫でるような感覚が走った。まるで誰かに見られているかのように。
星見市の夜。街灯の下、緑の影が一瞬だけ揺れ、すぐに闇へと溶けた。
誰もその存在を確かに捉えることはできない。ただ、確かに見られているという感覚だけが、彼らの日常に忍び込みつつあった。