第01話 この一撃で終わる――はずだった
満月の夜空に、血飛沫が弧を描く。
「……はぁ、はぁ……」
腹部から流れ出る血が、アスファルトを黒く染めていた。熱いはずなのに、指先はもう氷みたいに冷たい。
――やっちまった。完全にやっちまった。
普通に警察を呼べばよかったんだ。ただ、それだけだったのに。
別にヒーローになりたかったわけでもない。なれるはずだってない。この23年間、勉強づめの俺――大学院生の俺に、暴漢から誰かを助ける力なんてあるわけがなかった。
視界がぐらりと揺れる。次の瞬間――
背中に激痛が走り、苦悶の声が漏れ、二回目のナイフによる刺突の衝撃で右肩が地面に叩きつけられた。
この野郎と必死で、右腕で地面をおさえて腹部に力を込めて立ち上がろうとするも、尻を蹴とばされて前につんのめって、顔がアスファルトで削られる。
擦り傷の痛みが走り、視界が一瞬、真っ白に染まった。
視界はさっきからぼやけていた。それもそのはずだ、メガネが吹き飛ばされ、俺は視力0.1、ろくに回りなんて見えやしない。
それでも、諦めきれずに身をよじった瞬間――
ナイフを振り上げた男と、目が合った。
その目はどす黒く濁っていて、世界すべてを拒絶し、呪うような醜さそのものだった。
「いいよなあ、今の若いのは!大学は無償で、就職先も先行き明るくて、希望もなんでも、全部あんだからなぁ!」
怒りと嫉妬が混じった声が、夜に響く。
刃が、振り上げられ、そしてこちらへ降ってくる。
ああ、死ぬ。
ははっ、死んだら、大学院への勉強も、やらなくてよくなるかな……
あーあ、今投稿してるWeb小説、未完で終わっちまうが……それを残念がる余裕なんてない。
学業で獲得した知識と、好きだった科学や未来、ファンタジーをテーマに描いたいくつもの小説。
少しは格闘技とかやっといたほうがよかったのかもしれない。きっと、それは許されなかっただろうけど。
ふと思う。もっと自由に生きたかった。
こんなイカれたおっさんも足蹴り一発でKOできて、合コンやいろいろ遊んで楽しんで……
ま――俺が生き続けていたとしても、
自由になんて、なれなかったのかもしれない。
遊馬慧の運命はこの一撃で――
致命的に、
どうしようもなく
終わる――はずだった。
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気がつけば、青空を見上げていた。
澄みきった空に、のんびりと漂う雲。明るい太陽の光が、ほんのり肌を温める。さわさわと草の音が耳に心地よく、鼻には青々とした草の匂いがふわりと漂った。
顔と手に触れる柔らかな感触。――草だ。
それに気づいた瞬間、なんだこれは、と疑問が胸をよぎった。
身体に痛みもない。
天国か?
さすがに――あれではは、死んだんじゃないか。そんな気がしてきた。
理工学部物理学科だった俺の頭脳からは、もしありうるとしたら、まだ死んでなくて、夢を見ている、そんな可能性だ。
人間、死んだら終わりだ。死後の世界なんて、フィクションの中だけの話。だからと言って、そうした物語を否定するつもりはない。なにせ、俺自身、Web小説を書いて投稿していたんだからな。
死後と言う存在を考えてしまう理由はいくつかあるだろう。その一つは、意識がどうなるのか、わからない、という不思議さからだろうか。
朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行き、勉強に励んでと一連と続いていた、寝るときに途切れているが、それは別として、そんなこれまで続いていた意識がぽーんと消滅する、というのが考えられない、いや、どう考えていいのかわからないのである。
わからないから、何かあるんじゃないか、そんなふうに幻想をいだいてしまうのが人間である。
例えば、中学時代、誰もが一度は想像する。下駄箱に置かれた可愛らしい封筒。その中身は――ほとんど想像通りラブレターだろう。
読者は、中身という空白を予想し、そして次の舞台が想起され、あ、きっとこうなるだろう、だからこれはラブレターで――と考える。
死後の意識というのもそういう錯覚だ。
前情報は、これまで生きてきた、過去があり脈々と生活してきて意識と共にあった日々がそれである。
死んだら肉体は動かなくなる、それは知っている、ゾンビなどという現象も見たことがなければニュースになって世間を騒がせたことはない。
だが、意識はどうかというと、どうなるか、分からない。
分からないなら、今まで通り続くんじゃない、と考えて、じゃあその意識、いや魂は、いったいどこへ行ってしまったんだろう、天国かな、なんて考えてしまうわけであるが、そんなことはない。というのが俺の考えだ。
それは、簡単な理屈だ。
ろうそくに火が灯っていたとしよう。
ろうそくの火が吹き消されたあと、どこへ行くかなんて考えない。ただ、そこにあった光と熱が、ふっと消えたにすぎない。
ただ、消えた。それだけだ。
人間の意識も、現象の一種だとしたら――それが終われば、同じように消えてしまうはずだ。
きっと、心とか、そういうものも含めて。
だからきっと、俺はまだほんの少し、夢を見ている時間があるということなのではないかな、と青空を見あげている。
とはいえ、ここまではっきりした夢なんて見たことはない。
上半身だけを起こして、刺された腹をみてみれば、シャツに血の後もなければ痛みもない。
のんびりと左腕をうーんとのばしてストレッチをしてみれば、肩やその周囲の筋肉に意識が向く。実に、明瞭だった。
周りを見渡してみたが、草原の真っただ中で、どうやら死者がわたるような川も見当たらない。のどかなものだ。
夢から覚めて運よく生きていました、なんてなったら、つらつら投稿しているWeb小説の完結でも目指そう。
その活動は、言ってしまえば、俺ができる世の中への最後の悪あがきだった。
まじめに生きることを強いられている俺ができた、悪ふざけをする為のそんな場所。それが小説の投稿だったのである。
ドッキリな展開とか、実はこうでした、みたいなサプライズをやっても怒られない場所。いや、怒る人がいても、ほら、実際に怒られるわけではないし、だけかが不幸になるわけではない。法律上なんの問題もない。
大学院への勉強勉強と、周囲の期待、最終的にはこうなれ、ああなれ、という気の重い毎日だった。こんな穏やかな情景に包まれると、すーっと肩が下がり息が流れ出て、まったりとする。
息をふーっと吐いて、ゆっくりとすう。
いい夢だ。
あまりに心地がよいので、草原に大の字になって寝転がった。太陽の光が暖かく、草の匂いにじんわりとつつまれていく。
しばらく、ぼーっとしていると、何も起こらず、夢は終わらない。
もしかしたら、救急搬送されてお医者さん達が頑張っているのかもしれないな。
きっと、酸素吸入、輸血どうのこうの、なんて現実ではバタバタしているんじゃないかと思う。
そう考えると、この夢はなんとも暖かくゆるやかで、目を閉じて感じられる草と太陽と風に意識を向ける。
死にかけにもかかわらず、走馬灯の騒がしい感じが全くなくて不思議なものだ。
そんなおり、とっとっと、足音がして、ゆっくりと体を起こしてそちらを向いた。
やや遠くに、まるで魔術師ですよといわんや装いに、杖をもった少女がこちらへと歩いてきている。
ほどなく少女を眺めていたので、距離が近くなったころ。
「何よ?」
少女が不機嫌そうに眉をひそめた。その一瞬で、俺の脳裏には"可愛い"の文字が浮かぶ。
何よ、と言われても、何と答えたものか。夢の中でも挨拶はしっかりしなさい、などという教育は受けてはいない。
それにしても、可愛いなぁと思う。うん、顔は好みだ。背丈はやや低く、うーん、セクシー路線から離れるが、グッド!
そう思って、親指を立てたサムズアップで返事をした。
少女はけげんな表情になった。
そんな表情も実に可愛い。
ん?そうか、ここは夢、夢だよな、どうせ死んでたらきっと意識は消え去るし、生きていたとしたら現実に戻る儚い場所だ。
ということは、この目の前の少女に、イタズラをしても許される!
それは、心臓が雷に撃たれたごとくの衝撃で俺の魂を揺さぶった。
だがしかし、イタズラをするには接近しなければならない。であるなら、最初に与えてしまった印象は、失敗、と言うことになる。
そう、イタズラは油断があり、そこに付け入ってこそ成立する。
今、やや距離のあるこの感じは、やや警戒、変な人、そんなふうにとらえられている可能性が高い。失敗した!
つまり、挽回しなければならない。
頭の中で高速にピタゴラススイッチが稼働し、歴史の偉人の出会いや、物語の出合い頭の言葉が――駆け巡らない!
荒れ狂うは数式と数字に化学式、何だ、何がどうなっている!?
しっかりしろ俺。もしかしたら人生で最後にできるイタズラかもしれないのだぞ!
そんな俺に対して、向き合っていった少女は一歩後ろに足を引いた。
しまったー!
距離をとられた!
挽回だ挽回だ、ばんばんかいだ!いいか、俺よ、俺はできる男だ。
だが、時間をかけても怪しい、そう、もう答えるしかなかった。
「可愛いよ」
と、そんな言葉が出てしまった。
その言葉に、少女はまた一歩下がった。
しまった、失敗した!
「そ、そうですか……」
と、少女は顔をうつむけて静かに答えた。
すこしばかりの沈黙。
「では、私は先を急ぎますので」
と、少女は俺を迂回して歩きはじめた。
「ところで、こんな草原で何してるんだ?」
近づきながら質問すると、ゆっくり避けながら少女は歩き進んで答える。
「薬草採取です。私、冒険者なので」
ほほう、冒険者、それは中世ファンタジーにある、あの冒険者的なものかどうかはさておき、話を合わせながら、ゆっくりと一緒に歩こうとする。
さて、夢のこの世界よ、いったいここはどんな世界観で、常識とはどうあるのでしょうかと思いながら、話を合わせることに専念する。
「そうなんですか。女性が一人で行動と言うのは、少し危なくありませんか?」
「そうですね、あなたみたいな変な人に遭遇するかもしれません」
そんなことを言われてしまったが、歩く速度は歩幅の問題だろうか、早くなく、逃げようとしている、という雰囲気を感じない。
「じゃあ、もし俺が危ない奴だったらどうするんだ?」
すると、少女は足を止めてこちらを向いていった。
「こうです」
と、杖の先端周辺に、雷撃がビリビリっとほとばしった。おぉ、魔法じゃないか!
「そうですか、じゃあ、もしそうだったときは、そうしてくださいよ」
こちらは歩きを止めないので少し距離が近づき、また少女は歩きはじめた。
「何でついてくるんですか?」
彼女からの疑問の声にどう答えたものかと悩む。いやぁ、あなたが心配で、などと言っても、説得力のかけらもないのではなかろうか。
ついさっき、暴漢から何もできずに刺された哀れな人間と、いざとなれば雷撃が放てる少女、うん、どう考えても俺の方が弱い。
と言って、変な回答をして、避けられて、そそくさと先を行かれてしまうのは嫌だった。
「この状況で、一人だと心細くてさ。ちょっと話し相手になってくれない?」
「まぁ、いいですけど」
こうして、少女を先頭に、と言うか行き先が分からないので自然とそうなってしまうのだが、歩きはじめた。
「あなたの方こそ、危ないんじゃないですか、小さいとはいえここ周辺でも魔物は出ますよ。見るからに、武術はされてなさそうなので、実は魔法が使えるんですか?」
「いやいや、ぜんぜん。戦闘力ゼロの無害すぎる生き物ですよ」
「あなたの方が危ないじゃないですか……」
そうですよ、と武器も何も持っていないと両手をぶらぶらさせる。
「まぁまぁ、君は冒険者になってどれくらいなんだ?」
「えっと、今日がその、初仕事です」
「なるほど、依頼の内容は?」
「薬草採取です。ほら、冒険者ランクが低いうちは、お使いみたいなことしか任されませんから」
「なるほど、薬草採取か。魔法も使えるし、頼れる冒険者様ってわけだ」
「……初仕事ですけど」
ちょっと恥ずかしそうに目をそらすその顔がまた、かわいいじゃないか。抱きしめたいな少女よ!と叫びたくなる可愛さである。
「初仕事でもこれからの未来があるんだからいいじゃん。あーあ、俺にも魔法の才能とかあったらな〜。君みたいにさ、バチバチッと雷撃とか撃ってさ、モンスター一撃! 杖を掲げて決めポーズ――」
「……?」
「なーんて、力もあってそれでもって可愛い、魅力的な美少女になってみたいものだ!」
調子に乗って空に向かってポーズを決めた、そのときだった。
――ズズンッ。
地面が一瞬、ビリッと震えたように感じた。
突風が吹き抜け、草がざわめくように、俺を中心に空気か何かが渦巻く。
まるでさっきの少女が見せた雷撃でもくらわされたのかと思う衝撃にも似た、不可思議な感覚が全身を染め上げていく。
ほわっと周囲が光ったかと思ったら、衝撃はすぎさり不思議な感覚に包まれたままだった。
「え!?」
と、少女は俺を見て驚いている。
何か起こったのだろうけれど、いったい、俺に何が起こったというのだ?
「えっと、その……」
と、俺が発した声が妙におかしい、そう言えば、視界もおかしい。少女と、目の高さが同じになっている。
声はまるでボイスチェンジャーをかけたかのように高い。と言って、単純にピッチを上げただけの安っぽいものでもない。フォルマントの変換までされている?いや、その息を張る会に越えている!?
まるで女の子の声にでもなったかのようだ。
「魔族!?」
と、少女は警戒し、とっさに俺からツーステップ下がって距離をとった。
「いやいや、待って待って」
風がヒューッと吹いた。下腹部が異様に涼しい。なんで?
「何が狙いなの……私を、生贄にでもするつもり!?」
少女は臨戦態勢になって、杖を構えその先端には雷撃がじわじわと走っていた。
「誤解だ!」
両手をあげて、無害アピールをするが、少女の警戒心は解けない。
ふと、不思議な感覚がしぼんでいくのを感じると、元の目線の高さに戻った。
「だから誤解だって!」
あれ、声も戻っている。
「誤解も何も、人に化けて、人をたぶらかせる、それが魔族でしょ。ここで正体をさらすということは、もう……」
と、少女の声はか細くなっていく。何だか可愛そうになってきた。
まずは俺のことより、とりあえず、落ち着いてもらおう。
少女は、震えあがってしまい、膝をついた。
「だから待って、そんなに怯えるな。俺は魔族じゃない」
「さぁ、正体を現しなさいよ。隠している魔力だって解放したらいいわ!」
「いいか、いいか、さっき何があったかよく分かってないけど、俺の正体はこれで、魔力の解放とか言われてもよく分からないから」
絶望した少女のまなざしが心をえぐる。そんな目を向けないで欲しい。
「安心しろ、俺は、君をどうこうしないし、魔族でもない……な? そうだ、じゃぁ、一緒に薬草を取りに行こう、無事、薬草が取れたら、俺は無害。街に戻ったっていい、送ろう、送り届けられたら俺は無害。どうだ?」
ほどなくして、
「それじゃあ街まで」
「うん分かった」
そうして、二人とも立ち止まったままになってしまった。
「その、怖いから、先を歩いてよ」
「そう言われてもだな……実は俺、街がどっちか分からないんだ」
「え?」
「いや、気づいたら知らない平原にいて、で、君が来たんだよ」
少し考えこんだ少女は、
「だったら、やっぱり依頼、手伝って」
「あぁ、わかった」
どうやら、少しかもしれないが無害であることは信じてもらえたらしい。
「ところでさっき、俺に何が起こってたんだ?」
「あなた、私に変身してたのよ、気持ち悪いくらいそっくり。服も一緒に」
あー、なるほど、それで声も違ってて、目線は少女の高さになって、つまり背が縮んでいたわけか。不思議な夢もあるものだ。
驚かせるつもりが、俺が驚く結果になってしまった。
「で、変身したら何で魔族なんだ?」
「変身と言えば魔族の十八番よ。魔術でも変身は実現できる可能性は示唆されているけれど、長命なエルフでもごく一部、伝承級よ。さらに、あなたは人間じゃない」
こうして、少し落ち着いて話ができ、薬草採取の場所まで向かうことができた。
薬草を集めながらの雑談である。
「つまりあなたは、常識もなく、どうしてここにいるかもわからない、変身できる不思議な人ってことね?」
「変な人はよけいだが、まぁいい」
ふと、いつもの癖で、メガネを戻そうと顔に手を持ってきたその時だった。あれ、メガネかけてない。
メガネかけてないけど見えてる。不思議だな、まぁ、夢か、と言って、ずいぶん長いな。
もしかしたら、意識だけもどらない状態で生き続けてでもいるのだろうか。
植物人間は嫌だな。非生産的だ。
それはそうと、少女、どうやら名前はセナ・アルディアと言うらしい。俺の名前、遊馬慧を言ったら、また珍妙に思われた。
ひとまず一緒にセナの指示の元、薬草を集めて、それが終わると、街に向かうことになった。
「で、アスマはこれからどうするの?」
どう、といわれても、これ夢だし、さめたら、って、え? うーん。
「どうしようか」
そうだな、というより、夢、だよな。一向に冷める気配もなければ、不思議現象はあれど、明瞭で鮮明なことが続いている。
しかも、夢と異なり妙にリアリティがある。そして、さらに、こんな夢を見たことは今日までなかった。
まさか……
まさか、現実、だとでもいうのだろうか?
現実なの?
え、もし仮に夢でなく冷めないとしたら、というか、夢かどうか確かめる方法ってあるかというと、そんなもんは夢なら、だいたいなんとなくわかるもんで、いや、ここまではっきりしたものはもうそうじゃない気がする。
とすると、異世界転移、なのか!?
いや、俺はすべての可能性を内包し、白黒思考はしない。
夢である可能性もある、と考えよう。しかし、もし、現実なのだとしたら……
えっと、これから、どうやって生きていけばいいんだ?