第八章 記憶の灯り
ひかりが亡くなって、季節は巡り、最初の冬が訪れた。美咲は相変わらず、ひかりの部屋のドアを開けることができず、健一もまた、その部屋に足を踏み入れるのを躊躇していた。家の中は、ひかりの不在が、あまりにも大きく、重くのしかかっていた。
そんなある日の夕方、悠人がランドセルを放り出し、美咲の前に立った。
「ママ、ひかりがね、幼稚園の時にお兄ちゃんの絵を描いてくれたの。どこにあるか、知らない?」
美咲は、ハッとした。ひかりが幼稚園の時に描いた絵は、全て段ボール箱にしまってあったはずだ。美咲自身、その箱を開ける勇気がなかった。
「えっと……どこかに、あるはずよ」
美咲が曖昧に答えると、悠人は少し不満そうな顔をした。
「悠人、それ、見たいんだ。ひかりの絵、もう一回見たい」
その言葉が、美咲の心を動かした。悠人もまた、ひかりの死と向き合おうとしている。美咲は、重い足取りでひかりの部屋へと向かい、健一も静かにその後ろに続いた。
部屋のクローゼットの奥から、美咲は小さな段ボール箱を取り出した。埃をかぶった箱には、「ひかりの思い出」と美咲が書いた日付が、かろうじて読み取れた。箱を開けると、中にはひかりが描いた色とりどりの絵や、幼稚園の製作物、そして家族旅行で拾った貝殻などが、ぎっしりと詰まっていた。
美咲は、一枚一枚、ひかりの絵を手に取った。どれもが、ひかりの瑞々しい感性と、家族への深い愛情が詰まっていた。遠足で見た動物園のゾウ、運動会で一等賞をとった健一の絵、そして、美咲の似顔絵。美咲の目から、再び涙が溢れ出した。
その中に、悠人が言っていた絵を見つけた。画用紙いっぱいに描かれた、にこにこ笑顔の悠人。その横には、ひかりが描いたと思われる、小さな、ちょっと歪んだひまわりが添えられていた。
「これだ!これ、悠人が持ってるひまわり!」
悠人は、絵を美咲から受け取ると、その絵の中の自分とひかりを、指でなぞった。そして、初めて、ひかりが亡くなってから、心からの笑顔を見せた。その笑顔は、ひかりが生きていた頃の、あの光景を彷彿とさせた。
健一は、そんな二人の様子を、黙って見ていた。美咲が、ひかりの絵を見つめながら静かに涙を流している姿、そして、ひかりの絵を見て、ようやく笑顔を見せた悠人。二人の姿が、健一の凍り付いていた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
その夜、家族は、ひかりの思い出の品々をリビングに並べた。美咲は、ひかりが大切にしていたぬいぐるみを抱きしめ、健一は、ひかりが描いた家族の絵を、じっと見つめた。悠人は、ひかりが残したブロックで、ひかりがよく作っていた小さな家を組み上げた。
沈黙の中にも、温かい空気が流れていた。悲しみが消えるわけではない。しかし、ひかりが残した思い出が、凍てついた心を少しずつ溶かし、家族の間に、再び言葉が生まれるきっかけとなっていた。
「ひかり、このゾウの絵、よく見てたね。動物園、楽しかったね」
美咲が、涙声で呟いた。
健一が、それに続いた。「ああ。ひかりは、あの時、俺の肩車の上から、ゾウに手を振ってたんだ」
悠人も、「ひかり、ゾウさんの真似、してたんだよ」と、小さな声で言った。
ひかりの思い出を分かち合うことで、バラバラになりかけていた家族の心が、少しずつ寄り添い始めた。それぞれの心に深く刻まれた悲しみは、決して癒えることはないだろう。しかし、ひかりが確かに生きていたという事実と、彼女が家族に残していった温かい記憶が、彼らが再び「家族」として歩み出すための、小さな灯りとなって、暗闇を照らし始めたのだった。