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第七章 喪失の淵

ひかりが旅立ってから、佐藤家は深い沈黙に包まれた。あの賑やかだったリビングは、ひかりの笑い声が消え、まるで時間が止まってしまったかのようだった。


美咲は、ひかりの遺品を片付けることができなかった。小さく畳まれた洋服、色褪せた絵本、お気に入りのぬいぐるみ。それら全てが、ひかりが生きていた証であり、触れるたびに温かい記憶と、耐え難い喪失感が交互に襲いかかった。昼夜を問わず、ひかりの病室で過ごした日々の幻影に苛まれ、美咲は食欲を失い、眠れない夜を過ごした。ふとした瞬間に、ひかりが隣にいるような気がして、手を伸ばせば空虚な空間に触れるだけ。そのたびに、現実が美咲の心を深くえぐった。


健一もまた、深い悲しみに沈んでいた。会社に行っても、仕事に集中できない。ひかりの笑顔が、ふいに脳裏をよぎり、込み上げる感情を抑えるのに必死だった。家に帰れば、美咲の憔悴しきった姿と、ひかりのいない空間が、健一をさらに追い詰めた。美咲に何か声をかけようとしても、言葉が見つからない。かける言葉が、かえって美咲を傷つけるのではないかと恐れた。二人でいるのに、まるで別々の世界にいるようだった。夫婦の間には、ひかりという共通の痛みが横たわっていたが、その痛みから、お互いどう向き合えばいいのか分からず、ただすれ違い、心の距離が広がっていくのを感じた。


悠人は、幼いながらもひかりの死を理解していた。最初は、ただただ寂しくて、夜中に一人で泣き出した。ひかりのベッドに潜り込み、残された妹の匂いを嗅ぐこともあった。学校では、友達に「ひかりちゃん、元気?」と聞かれても、うまく答えられず、黙り込むことが増えた。両親が悲しみに暮れているのを見て、自分まで悲しみを表現してはいけない、と幼心に感じていたのかもしれない。悠人は、ひかりが生きていた頃のように笑うことができなくなり、心に深い影を落としていた。


食卓には、ひかりが好きだったおかずが並ぶことはなくなった。家族で出かけることもなくなり、週末はそれぞれが、ひかりのいない現実に、ただただ耐える日々だった。テレビをつけても、明るいニュースや子どもの声が、かえって辛く感じられた。


どこにぶつけたらいいかわからない感情が、家族それぞれの心の中で渦巻いていた。美咲は、「私がもっと早く異変に気づいていれば」「あの時、違う病院に行っていれば」と、終わりのない後悔と自責の念に囚われた。健一は、「なぜ自分は、ひかりを守ってやれなかったのか」という無力感に苛まれ、ひかりが最後に自分に向けた笑顔が、脳裏から離れなかった。悠人は、ひかりと喧嘩した日のことを思い出し、悔やみ続けた。


悲しみは、家族の絆を試していた。互いを思いやろうとすればするほど、言葉は空回りし、時にぶつかり合うこともあった。ある晩、美咲が「ひかりの服、捨てられない」と涙ながらに呟くと、健一は「いつまでもそうやってちゃいけない」と、つい厳しい言葉を返してしまった。その瞬間、美咲は健一からさらに心を閉ざし、二人の間に凍てついた空気が流れた。


かつて、ひかりを中心に回っていた佐藤家の日常は、完全に停止してしまったかのようだった。しかし、この底なしの悲しみと苦しみの淵で、家族は、それぞれの形で、失われた光を探し始めることになる。それは、希望と絶望の狭間で、もがきながらも、再び「家族」として歩み出すための、長く、険しい道のりだった。

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