第二章 異変の兆候
あの日の公園でのシャボン玉は、確かにきらきらと輝いていた。ひかりの笑い声が、風に乗って遠くまで響き、健一も美咲も、そして悠人も、その光景がいつまでも続くものだと信じて疑わなかった。しかし、その輝きの中に、いつの間にか、小さな影が忍び寄っていた。
最初は、些細なことだった。
ひかりが、時々「お腹が痛い」と訴えるようになった。美咲は「遊びすぎたのかな」「冷えちゃったかな」と、市販の胃腸薬を飲ませ、温かいお茶を淹れた。すると、ひかりはすぐにけろりとした顔で、「もう痛くない!」と元気いっぱいに庭へ飛び出していった。そのたびに、美咲は安堵の息をついた。
しかし、その頻度が少しずつ増えていった。
ある日の夜中、ひかりが突然、高熱を出した。健一と美咲は慌てて夜間救急へ連れて行ったが、医師の診断は「夏風邪でしょう」というものだった。点滴を受け、熱はすぐに引いたものの、ひかりの顔色はどこか冴えなかった。それでも、翌日には「お兄ちゃんと鬼ごっこする!」と笑い、美咲は「子どもの回復力ってすごいな」と感心するばかりだった。
夏が終わり、秋風が吹き始めた頃。ひかりは幼稚園で描いた絵を、美咲に見せた。クレヨンで描かれた家族の絵は、健一、美咲、悠人が大きく描かれ、ひかり自身は、一番小さく、少しぼんやりとした輪郭だった。
「ひかり、お絵かき、疲れたの?」
美咲が尋ねると、ひかりは首をかしげた。
「ううん。でも、なんか、いつもより手が動かなくて……」
その言葉に、美咲の胸に微かな不安がよぎった。最近、ひかりはすぐに疲れるようになった気がする。これまで当たり前だった散歩の途中でも、「抱っこ」とせがむ回数が増えた。食欲も、以前ほど旺盛ではない。美咲は、インターネットで子どもの疲労や食欲不振について調べ始めた。出てくる情報は漠然としたものばかりで、具体的な答えは見つからない。しかし、そのどれもが、美咲の不安をさらに募らせていった。
健一もまた、ひかりの些細な変化に気づき始めていた。週末の公園で、健一が「ひかり、かけっこしよう!」と誘っても、ひかりは「ちょっと休んでから」と、ベンチに座り込むことが増えた。健一は「大きくなったら、もっと速く走れるようになるからな」と笑って流していたが、ひかりの表情に、時折見せる疲労の色が、健一の心の奥に小さな違和感を残していた。
美咲は、もう一度ひかりを病院へ連れて行くことを決意した。今回は、かかりつけの小児科医ではなく、少し大きな総合病院の小児科を予約した。漠然とした不安を解消したい。それが、美咲の願いだった。
診察の日、美咲はひかりの手を引いて、緊張した面持ちで診察室のドアを開けた。医師は、ひかりの顔色をじっと見つめ、触診を行った後、いくつか質問をした。そして、最後にこう告げた。
「念のため、詳しい検査をしましょう。血液検査と、いくつか専門的な検査を受けていただけますか」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の心臓がどくりと音を立てた。健一は、仕事で付き添うことができなかった。一人で医師の説明を聞きながら、美咲の頭の中は真っ白になった。
数日後、健一と美咲は揃って再び病院を訪れた。悠人は実家に預け、二人きりで診察室の椅子に座った。医師は、神妙な面持ちで検査結果の用紙を広げた。
「佐藤さん。ひかりちゃんの検査結果ですが……残念ながら、あまり良くありません」
その言葉が、二人の日常に、そして未来に、重くのしかかった。ひかりの体内で、何かが決定的に、そして恐ろしい速さで、彼女の命を蝕んでいることを告げる、宣告の始まりだった。