To be me 番外編 テレサ院長
To be meに登場するテレサ院長と、アイリーンの母エリーの話です。
物語の補足のような話です。
「絶対に治るから」
恐らく涙でぐしゃぐしゃになっている顔と震える手で私の手を痛いほど握りしめた。
宮廷の池に落ちた子猫を助けようと汚泥に体を浸したのが良くなかったらしい。数日、高熱にうなされて目が覚めると、助けた猫の色さえもわからない暗い視界になっていた。
誰もが私に落胆していた。
私は妙に冷静で、この後の事を考えた。何も見えないから、考えるしか無かったのかもしれないが、泣き叫んだりするような動揺した姿は誰にも見せたくはなかった。
溺愛してくれた両親は、盲目になった娘を諦めて、次の皇太子妃候補を血族から探すのに忙しそうで、形ばかりの見舞いをして以降は姿を現さない。
皇太子妃候補たちの中でも大臣の息女で才色兼備を誇り、皇太子妃の大本命であった私の元には常に誰かが尋ねてきたものだが、お付きの召使い以外はもう誰も来ない。
唯一エリーだけが、毎日私を訪ねてきた。
エリーは私のホラストル家とは敵対関係にあるウィザード家の息女だが、出会った時から不思議と仲良くなった。当時は皇太子妃候補は皇太子と育てるという慣習があったので、皇太子のナゴルニフも含めて3人で遊ぶ事が多かった。敵対する家の娘と共に遊ぶ事は良い顔をされないが、皇太子が混じれば話は別だ。助けた子猫は3人でこっそり宮廷で可愛がっていた猫だ。猫は皇太子のナゴルニフが預かっていると聞いた。そのナゴルニフはまだ一度も見舞いにさえ来ない。
「テレサは何も変わっていないわ。目が治れば、また元通りよ」
この目に治る兆しがない事は誰よりもわかっている。ぼんやりとでも視界が残っているのがせめてもの救いだ。
「……私がいなくなれば、次の第一候補はエリーよ?」
ささくれだった心は優しいエリーへ向かった。悪意を持って初めて接したかもしれない。エリーは私の手をさらに強く握った。
「……私じゃ皇太子妃にふさわしくないわ。だから、テレサが皇后になって、私が第二王妃なって……国王になるナゴルニフ様と三人で支え合おうって……」
しゃくり上げるのをこらえて、握った手はますます強く、震えた。
「三人で国を守ろうって思ってるわ、今だって」
変わらず夢みがちなエリーの夢は私の心を逆立て、同時に慰めた。エリーは本気で思ってる。今でも三人でいられると信じている。嬉しくて、悲しくて、疎ましい。
「ねえ、エリー。私の目は治らないって自分でわかるわ。盲目の皇后なんて聞いた事もない。すでにお父様は別の候補を探しているわ。私はここまでなの。でも、私はナゴルニフ様にはエリーが必要よ。私はもう側にいられないから支えてあげて」
「なぜテレサなの?私か……ナゴルニフが池に入れば良かったのよ。私だけでは無理よ」
この期に及んでも、エリーは幼い。エリーの口をそっと手で塞いだ。
「エリー、ナゴルニフ様が無事であるなら良かったのよ」
唯一の直系男子であるナゴルニフが盲目になんてなれば、私たちの家ごと失墜してもおかしくない。けれど、腹立たしいエリーの幼さに少しだけ救われている自分が惨めになって嫌気がさした。
「私はエリーにも何もなくて良かったと思ってる」
ぼんやりと見える視界の中でエリーの頬に手を当てた。これは本心だ。
人を陥れるのが当たり前の宮廷で暮らすなんて、本当は緊張と不安で一杯だった。皇太子に気に入られて、皇太子妃にならなければならないという家からのプレッシャーも計り知れないほど感じていた。
『テレサを一目見てクシュエラ神の彫像かと思ったわ。それにあなたは賢い上に立ち振る舞いも誰よりも上品だもの。勝てるわけがないってわかったら楽になったし、お友達になりたいって思ったの』
最初から屈託なく話しかけてくれたエリーを警戒したが、本当に無邪気に私を崇拝して妹ように私について回るのが可愛くて、誰よりも仲良く、大切な存在になっていた。だからこそ、きちんと言わねばならぬと思った。
「私はもう宮廷にはいられなくなる。候補から外れたのだから」
失われた視力の代わりに、他の感覚が鋭敏になってきていて、エリーの動揺が伝わる。
「……もう会えないの?」
「私の病状が落ち着きしだい、実家に戻って格下の貴族か歳の離れたおじ様貴族の妾扱いでお払い箱になるでしょうね……そうなれば皇太子妃になったあなたとは気楽に会えないわ」
「じゃあ、皇太子妃になんかならない」
エリーのはらはらと頬を伝う涙を手で感じて拭った。私も同じように涙が流れ出るのを感じた。泣き叫んで取り乱すなど淑女の行動では無い。
本当はこんな理不尽に対して泣き叫びたい。誰にでも良いから当たり散らしたい。私の矜持がそれを許さないだけで、溢れ出すのをギリギリの所で堪えている。私を崇拝して愛してくれるエリーのためにもぐっと堪える。
こんな突然の別れを数日前まで考えてもいなかった。私だって3人でいられると信じ切っていた。皇后になれると疑ってなかった。こんな暗い未来なんて見えなかった。
「私は、エリーに会える手段を考えてみるわ。絶対に諦めない。だから、エリーも絶対に皇太子妃になってちょうだい。ナゴルニフ様には支えになる方が必要よ。家柄は関係なく、私はあなたがふさわしいと思うわ」
実際にホラストル家の私が降りたとなれば、家格的にもウィザード家が皇太子妃候補の筆頭だ。それに、エリーは私と比べて自分を卑下しがちだが、美しさも賢さも当然持ち合わせている。ナゴルニフ様は人は良いが、人の上に立つ強さは持ち合わせてはいない。横にいて支えていく人がしっかりしていなければ、国が不安定になる可能性もあると、私は感じているし、実際に現国王夫妻にもそれとなく言われていた。
「…私はテレサみたいな皇太子妃になって見せる。そして、みんなにテレサを忘れさせない。こんなに素晴らしい女性がいたって事を。私の中にずっとテレサはいるから」
誰もが私を忘れ去ろうとしている中で、何よりも嬉しかった。
「エリーにはエリーの良さがあるんだから、エリーらしい皇太子妃になって」
二人で静かに泣きながら抱きしめ合った数日後に私は実家に戻された。ナゴルニフは最後まで姿を現さなかった。大方、感染を恐れた召使いたちに止められていたのだろう。猫は大切にされているらしい。
実家に戻ると、予測したように格下貴族や歳の離れた結婚相手との屈辱的な見合い話ばかりだった。憐れまれるのも見下されるのも我慢ならなかったし、エリーとの約束もある。
気持ちを落ち着けるためにクシュエラ神へ参拝すると家を出て、そのまま修道院入りした。国立修道院で出世して院長になれば、皇太子妃となったエリーと会える機会はかなり増えるはずだからだ。
時折、宮廷から流れて来るエリーの様子は、私の知っているエリーではないようだった。甘えん坊で寂しがり屋で素直なエリーがたった一人で完璧な皇太子妃としてあの宮廷にいるのは、どれほど大変だろうかと憂えた。
もう遠くにしかいられないけれど、クシュエラ神に跪いては、エリーの無事を祈っていた。
まさかナゴルニフがウィザード家ごと潰すなんて愚かな事をするとは思わなかった。できる限り手は尽くしたが叶わなくて、どれほど自分の無力を嘆いただろう。
人よりは神に忠実に祈りを捧げているはずなのに、大切な人を守れなくて、修道院長でありながら神を恨んだ。普段、綺麗事ばかり並べてある教義も、何もかもが空虚で愚かしいと思えた。部屋で声を殺して泣いた。
今はエリーに頼まれたアイリーンを守り切る事が私の生きがいだ。たとえ教義に背こうとも、命に換えても守ると決めている。
第2王妃はエリーに防腐処理を施して生前の姿のままにしめ部屋に置いているらしい。奴隷上がりの分際でエリーを追い詰めたあんな女の心など知りたくもないが、最初から誰よりも何よりもエリーに執着しているように感じていたから、きっと我が物にした気分だろう。クシュエラ教は埋葬をする事で天国に向かうとされている。皇妃に対する扱いとしても許せない事だが、あの女のおかげで、もしまだこの世にエリーの魂があるならいつだって会いたい。たわいない話で笑い合いたい。
ねえ、エリー?
何度、心の中で呼びかけたかわからない。応えられる事は無いのに。