135.御伽話の終わり
「......」
ルーナは虚ろな左目で遠くを見つめていた。人々が行き交う繁華な通りの片隅に、彼女はぼんやりと座り込んでいた。ここがどこだかよくわからない。人通りが多いから街なのだろうが、どこの街かはわからないし、知ろうともしない。
どこかの通りの隅に座り込んだルーナの姿は、かつての勇敢な戦士の面影を微塵も感じさせなかった。
光を失った右目を覆う包帯、重く垂れ下がった肩と耳、土と埃にまみれた銀髪、ぼんやりと商店の定まらない赤い瞳。頬はこけ、目の下にくまがある。衣服も雨と泥で汚れて擦り切れている。リオと喧嘩した時のままの格好で武器も鎧も身につけていない。もう少し早い季節であれば、寒さに耐えかねて、のたれ死んでいたかもしれない。通りを行き交う人々は、かつての金獅子の団の『赤い鎧』とは気づかず、むしろ哀れみの目で彼女を見ていた。
あの日、リオを斬ってしまい、ルーナは全てを投げ捨てて逃げ去った。森を抜け、川を越え、街を通り越した。寝るのも忘れて、逃げて逃げて逃げた。
ルーナはやがて疲れ果てた。彼女は座り込んだ。
そして、やっと理解した。
本当に取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだと。
もう後戻りはできない。人生の全てがリオを中心に回っていた自分にとって、リオを失う事は人生そのものを失う事と同じだった。
それからは何をする気力もなく、ただ無為に時間が過ぎるのを感じるだけの日々が始まった。
陽光が眩しく照りつける大通りの端に、彼女は今日も座っている。隣には物乞いの群れ。ルーナは乞食じゃない。彼らとは違って何もねだっていない。ただ、何も考えずにぼうっとしているだけ。
時折、金獅子の団の旗が風に揺れる光景が脳裏に浮かぶ。それはまるで誰か他人の人生のように遠いものに感じられた。もう戻れない、戻ることなどできるはずがないと自分に言い聞かせ、胸が苦しくなる。自分の心に蓋をして、何も考えないようにする。
金獅子の団を出ていってからどれくらい経っただろうか。それすらもよくわからない。ルーナは昼も夜もただぼんやりとしている。腹が空いているのかもしれない。喉が乾いているかもしれない。感覚が麻痺している。
そんな中、酔った中年男がふらつきながら近づいてきた。
「へ、へへへ。よく見たら、お前......えるふってやつか?」
中年の男がよろけながらルーナに近づいてきた。顔が赤く、酒臭い。男はルーナに手を伸ばす。
「......」
「おーい」
「......」
「へへっ、嬢ちゃん一緒に来ないか? 悪いようにしねえよ?」
「......」
ルーナが無反応でいると、男は彼女の腕を引っ張り始めた。すると、すぐに兵士の姿をした男がやってきた。
「おい、よさないか」
巡回兵らしき男は酔っ払いを叱責し追い払った。最後には哀れみの目でルーナを見やり、
「かわいそうに」
そう呟いて、ルーナの足元にパンの切れ端を落としていった。同様にして、他の乞食達にも落としていく。
「......」
ルーナはしばらくパンを見つめ、そしてそれを震える手で拾い上げた。
ただの生理現象だ。生きたいわけでも、死にたいわけでもない。腹が空いていたから目の前のパンを食べるだけ。喉が乾けばその辺の泥水もすする。団を抜けた日以来、そうやって生きてきた。
通りを行き交う人々の話し声が遠くでかすかに聞こえる。まるで世界から切り離されたようだ。
しかし、ふと耳に入った言葉が、突然ルーナの意識を現実へと引き戻した。
「あの金獅子の団が捕まったらしいぞ......」
ハッとして顔を上げると、獣人の男二人が立ち話をしている。
ルーナは自分の耳を疑った。今、あの男はなんと言った?
あの金獅子の団が、捕まった......?
「は? なんで」
呆然とするルーナの耳に、さらに衝撃的な会話が飛び込んでくる。
「なんでも、『金獅子』__レオナルドは王子なんかじゃなかったんだって。偽物だったんだよ。本物のレオナルド王子はとっくの昔に死んでたんだ」
「な、なんだって!?」
「俺も最初は耳を疑ったよ。昔は俺も金獅子の団の熱狂的なファンだったからな。最近は負けが多くてこりゃダメかもって思ってたんだが......その矢先にとんでもねえスキャンダルだよ。今、街ではこの話でもちきりだぜ」
ルーナは跳ね起きるように立ち上がった。その勢いに驚いたのか、通りを行き交う人々が一瞬こちらを振り返ったが、ルーナはそんなことには目もくれず、噂をしていた男たちの方へとまっすぐに向かった。
「な、んですって......? 誰が? 捕まったって!?」
「え、あ......」
男達は酒瓶を片手に軽口を叩きながら話していたが、突然迫ってきたルーナに驚き、一瞬たじろいだ。
「あ......いや、俺もあんま詳しく知らないんだけど......」
「誰が捕まったか、言って!!」
「れ、レオナルドと金獅子の団の半数だ。後の半数は殺されたらしい」
「......!」
ルーナは息をのんだ。激しく心臓が鼓動する。
リオが捕まった。幼い頃から家族同然に過ごしてきたあのリオが。それに金獅子の団も。もはやあそこにルーナの居場所はないが、彼らは皆、長年戦場で背中を預けた仲間達だ。
「......あんた、ひょっとして金獅子の団に関係しているのか?」
感情が渦巻く中、男の質問を無視してルーナは鋭い眼差しで睨みつけた。
「どこ!? どこで捕まってんのよ......!?」
男たちは互いに顔を見合わせ、少し間を置いてから一人が答えた。
「べ、ベルモントの城下街だ......」
その言葉を聞くや否やルーナは走り出した。
ベルモントの城下街? ルーナとリオが喧嘩した場所だ!
(どういう事!? あの後、兄貴達は王都に向かったんじゃないの? 第3の試練で兄貴が負けた? あの兄貴が?)
疑問が頭の中を駆け巡る。だが考えている暇はない。思考を跳ね除けひたすらに走る。今は一刻も早くリオ達のもとへ辿り着かねばならない。
栄養不足の体はすぐに息切れを始めるが、それでも必死に足を動かす。通りを全速力で駆け抜け、彼女の足音が石畳に響く。周りの人々が驚きの目を向ける。ひたすら「ベルモント城」と「金獅子の団」の言葉を使って、目的地の場所を聞いては走った。その度に、不吉な噂が耳に入る。
「金獅子の団はレオナルド団長が第3の試練を失格になったせいで全員平民に降格したんだ」
「第3の試練は王子の人気投票だったんだ。誰が王様にふさわしいか民達に投票させんの。それで一番票数が低かったレオナルド様が落ちたわけ。まあ、最近の金獅子の団はすげえ不人気だったから当然の結果だよな」
「多種族騎士団なんて最初から無理な話だったんだ」
「ちなみに俺はマーティン殿下に投票したぜ」
「で、平民になった途端、お偉いさん方が金獅子の団を捕らえたんだ」
「いつだったかな。多分そろそろ処刑されるはずだよ」
「陛下も何も言わないって事はやっぱり、本当にレオナルド様は偽物の王子だったのかなあ」
「でも皆言ってたよ。王様はボケてるから、レオナルドさんの事忘れちゃったんだって。だから助けようとしないんだよ」
「こらよさんか!」
「レオナルド殿を捕まえたアーサー殿下に最後まで抗議なさったのはオルレアン公爵様だ。でも、運悪くあの方も持病で倒れ、誰もこの件を追求する者がいなかった。今はお嬢様が家をどうにか守ろうとしてるけど、まだお若いし独り身だし大変だろうな」
足が止まりそうになる度に、ルーナは自分を奮い立たせた。時折、ルーナは道沿いにいた農夫に頼み込んでは、荷馬車に乗せてもらった。
目的地に近づけば近づくほど噂話がどんどん進んでいく。
「金獅子の団も所詮は悪党の集まりだったってことさ。レオナルドが王に逆らったんだとよ」
「やっぱり、あの団は危険すぎた。何か大きな陰謀に関わってるに違いない。」
ルーナは拳を固く握りしめた。そんなはずがない。何もかもが間違いだ。リオは本物の王子様だし、金獅子の団は陰謀になんか関わっていない。
*
ベルモントの城下街に着いたのは奇跡としか言いようがなかった。
数日かけて、ルーナは目的地に辿り着いた。既に精神的にも肉体的にもどこかで野垂れ死んでもおかしくない状態だった。荷馬車が目的地に到着するや否や、勢いよく飛び降りた。
荷物検査だけの簡単な検閲を足早にくぐる。
街に入ってすぐ、最初に目に飛び込んできたのは賑わう屋台だった。色とりどりの商品が並べられ、店主が客に声をかけていたが、ルーナはその光景に目を奪われることなく、まっすぐに店主の方へと向かっていった。
「この街で金獅子の団が捕まったって本当なの!?」
突然険しい顔をした小汚いエルフに質問をされて、店主は困惑の表情を見せる。
「答えて! 金獅子の団は捕まったの!?」
「あ、ああ。随分前に」
「......! でもそれって王様なりなんとか公爵なり誰かしらは金獅子の団を助けようとしてるんでしょ? ねえ!?」
「助ける? 金獅子の団をか?」
「え、ええ」
店主は眉をひそめ、首を少し傾げた。明らかな困惑が見て取れる。
沈黙が一瞬流れる。店主はゆっくりと口を開いた。
その言葉は、空気を凍りつかせるような衝撃的なものだった。
「それなら、もう数週間前に一斉死刑されたぞ」
「......は?」