第一章 「犬と交わる」 8
「ワシはご主人と一緒にいられるなら、それでもいいと思っていた。けれど、心のどこかでは、昔みたいにご主人様と一緒に野原を思い切り駆けたいと思っていたのかもしれない。ご主人はそんな私の寂しさに気付いていたのじゃろう」
「優しい人、だったんですね?」
イネコはその問いかけには答えず、その代わりに俺の手を取った。モフモフな毛と肉球が気持ちいい。
「研究所の説明を終え、ご主人は私にこう言ったのじゃ。『そこで一緒に暮らさないか?』と……」
「え?」
俺は思わず疑問符を投げかけた。その言い方なら、イネコがご主人と一緒に暮らさないことも出来るのではないか? 俺の頭に浮かんだ疑問に答えるようにイネコは話を続ける。
「それまで、ワシはご主人様の一部のようなもので、自分の体に付いている目や鼻と同じようなものと思っていた。いて当然、あって当たり前の存在。空気のように一緒にいて、ずっと同じ時を過ごすものだと勘違いしていた……。けれど、ご主人は私を私として扱っていた。意思を尊重し、私にも選択権があると教えてくれた。一人の個として、互いに離れて暮らすことも出来るのだと、その時、私は初めて気付いたのじゃ」
握られた手に力が込められる。
「ワシは二つ返事でご主人の手を取った。それ以外の答えはなかった。自分の居場所はすでに目の前にあったのじゃからな」
晴れ晴れとした声でそう言うイネコを、俺は胸のすく思いで見つめた。
イネコは自分が生まれた理由を分からないと言ったが、俺には何となくそれが分かったような気がした。
「かくして、ご主人と私の暮らしが始まったのじゃ。ご主人は自分の研究を、ワシはその助手としてそこで働いた。研究所には本当にワシのような者もいて、普通に生活をしていての。ワシもそこでは出歩くことが出来た。休日にご主人と散歩をしたり、買い物をしたり、日向で寝転がったり……。そこでの暮らしはささやかだったが、凄く楽しかった。そんな暮らしの中、そうなるのは当然だったのかもしれんが、私たちは互いに引かれ合い、恋に落ちたのじゃ。愛を誓い合い、子をもうけ、施設内という限られた場所じゃったが、三人で幸せに生活していた」
「それで、めでたしめでたしって訳ではないんでしょ?」
「その通りじゃ。そして、これから話すことが、ワシがここにいる理由に繋がる」