第一章 「犬と交わる」 7
「だけど、イネコさんが生まれた時は、世間が大騒ぎだったんじゃないですか?」
「特に何もなかったの。ご主人は地位や名声に興味がない人で、別に成果を世間に公表することもなく自分の研究に勤しんでおったかの」
取り立てて理由もなく、地位も名誉にも興味がない? ますます分からない。
「それじゃあ、生まれてからイネコさんはどうしていたんです?」
イネコは実験体としては扱われなかったのか? 遺伝子組み換えで生まれた生物。こんな貴重なサンプルを前に研究者なら放っておく訳がないはずだ。
「生まれたばかりの頃、子犬と変わらなかった私は、他の動物たちと一緒に大学の施設で飼われていたな。それはそれは玉のように可愛がられていたのじゃ」
「はぁ……」
「だが、大きくなるにつれ徐々に人の姿に近づいていっての。知能も人並みに成長し、生後1年で私は可憐な少女へと変貌したのじゃ」
う~ん。話を聞くに、ご主人はイネコを何がしかの実験に使っていたようには思えなかった。それに、イネコ自身、自分を特別な存在だとは思っていないようだ。
「そうなると、流石に動物たちと一緒の檻という訳にはいかず、ご主人のプライベートルームへと移されて生活していたのじゃ」
「プライベートルーム?」
「何のことはない。ご主人が一人暮らししていた大学近くのアパートじゃ。私はそこでご主人の帰りを待ち、一日の内の短い時間だったが、共に過ごしたのじゃ。同じものを見て、一緒に食卓を囲み、夜中にはこっそり散歩に出かけたりもしたぞ」
まるで、イエイヌだな。イネコは、元々、そういう暮らしをしていたから苦ではなかったのかな?
俺は感嘆のため息を吐き出す。
世界は広い。俺が知らないだけで、イネコのような奴もいるんだな。
「そんな暮らしが半年ほど続いたかの? 今度はご主人の進路をどうするかという話になった。ご主人は優秀な科学者だった。博士号も取得し、大学に残ることも出来た。そうすれば、それまでのような暮らしを続けられることは出来たであろう」
ペロリと鼻の頭を舐めるイネコ。
「しかし、ご主人はそうはしなかった。私の存在を知っているゼミの教授の薦めもあり、とある研究所へ勤めることになった。研究所と言っても、こじんまりとしたものではなく、一つの街が研究施設になっていて、そこでは日用品から専門的な道具まで何でも揃う研究都市のようなものじゃ。世俗からは少し離されているが、その研究所は、その分野のトップクラスの研究者がいて、そこで働くことはメリットこそあれデメリットにはなりえない。ご主人はそう言っていた」
世俗から離れた何でも揃う研究所? どこかで聞いた話だな。
「何と、そこでは私のような者が他にもいて、普通に生活しているとのことだった」
イネコの耳がピクピクと動く。
「それを耳にした時、私は自分が歓喜しているのに気が付いた。それまで世間から切り離されて生きて来たのじゃ。この体では大っぴらに街を歩く訳にはいかないからの」
人差し指の爪で毛だらけの頬をなぞる。
それはそうだろうな。通りでイネコが向こうから歩いてきたら、誰だってビックリする。