第一章 「犬と交わる」 19
ヘリの手配まで済ませると所長は椅子に深く腰掛け、天井をボーっと見つめた。
俺は、俺の姿を見た時の所長の反応にずっと引っ掛かりを感じていた。明らかに俺の顔に所長は何かを感じていた。だから、ここを去る前にそれを確かめる必要がある。可能性は薄いが、この人は俺の正体を知る手掛かりになるかもしれないのだ。
机の前に立つと、焦点の合っていない瞳で所長が俺のことを見上げた。
「まだ何かあるのか? ヘリは30分後に離陸するよう、準備させています。行くなら早くしなさい」
「あんた、俺のこと知っているのか?」
「いえ、あなたのような若造など知りませんよ」
即座に所長が答えた。
だよな……。俺もあんたを知らない。やはり、俺たちには何の関係もない。こんな研究所の所長が俺を知る訳がない。そう思い踵を返す俺の背中に、小さな呟き声が投げかけられる。
「そう。あの人がこんな所を訪れるなんてあり得ない。そう。似ているとはいえ、そもそも若すぎる」
俺はとっさに振り返り、
「あんた、今、何て言った? あの人って誰なんだ? 俺に似た人を知っているのか?」
所長の肩を揺らして問い詰めるも、なぜか所長はぐったりと力が抜けて酩酊状態のようになっている。口はポカンと開いているが、まぶたがほとんど閉じかけている。
掴んだ手を離すと、所長は座り心地の良さそうな椅子にどっしりと沈みこんだ。ダラリと首が下を向き、もはや完全に意識を失っている。
「どうやら、魅了で操り過ぎたようじゃな。まぁ、自分の意思にそぐわぬことをやらせたのじゃ。脳が行動の矛盾に限界を迎えたらしい」
「脳が限界って、大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。今は一時的に脳が疲労して睡眠状態に入っているんじゃろう。一晩寝れば、朝スッキリとした気分で目覚めるはずじゃ」
「それじゃあ、所長は朝まで目を覚まさないんですか?」
「おそらくの……。なんじゃ、こやつに何か用があったのか?」
おずおずと訊ねるとイネコは首を傾げてみせた。
「はい。個人的な、質問と言うか、何と言うか……」
「そうであったか。じゃが、こうなってしまっては外部刺激でうまく目を覚ますかどうか……」
「そう、ですか……」
俺はギリリと奥歯を噛みしめる。
探偵となり密かに自分の出自を探ってきたが、これまでその成果はゼロだった。だが、ここで寝ている所長が俺のルーツを知る手がかりを持っているかもしれない。父か母か、あるいは親類か? はたまた、全然関係のない他人の空似なのか? ともかく、それを確かめるため、今すぐにでもこいつの話を聞きたい。
しかし、30分後にヘリが離陸するなら、すぐにナナコを回収してヘリポートに向かわなければいけない。それが、コンビニ探偵としての俺の仕事。だが一方で、俺は自分が何者なのか知りたいとも思っている。いや、それこそが、本来俺が探偵になった理由だったはずだ。
その答えが目の前にあるかもしれないのに、それをみすみす放っておいてもいいのだろうか?
背中にじっとりと嫌な汗がにじむのを感じる。
「難しい顔をしておるの。匂いを嗅ぐまでもなく、どうやらそれはお主にとって大切なことのようじゃな」
訳知り顔をしたイネコが優しい目で俺を見つめる。
「奴が目を覚ますまで、ここで待つかい?」
「え……?」
心臓が大きく跳ねた。
「な~に。ワシのことなら心配いらん。一人でも問題ない。段取りはそこで寝ておる優し~い所長が全部やってくれたからの。後は、ヘリに乗り込むだけで、ご主人の元にたどり着ける。だから、もう取り戻したも同然じゃ」
そうであろう? とイネコは実に楽し気に口の端を上げてみせた。
「そう――」
かもしれないけど……。俺がいてもいなくても同じなのかもしれないけど……。
だけど、もしこのままイネコを一人で行かせて、犬山博士を取り戻すことが出来なかったとしたら?
所長はイネコを始末したと思っていたくらいだ。ヘリの向かった先で、かなりの荒事になる可能性だって十分にある。
そんなことを考えていると、イネコに依頼料代わりの宝石が入った袋を握らされる。
「それじゃあ、元気での。ナナコを大切にな」
イネコはそう言うと大口を開けてサヨナラを告げる。
まだ出会って数時間しか経っていないのに、何だか見慣れた笑顔だ。
犬は三日飼えば三年恩を忘れないと言うが、人間はどうなんだろうか? まだ知り合いレベルの関係性しかないが、一度築いた関係をこんなにも簡単に捨ててもいいのだろうか?
俺の後ろには、俺のルーツを知るかもしれない知らないおっさん。目の前には俺を信じて、愛する者の捜索依頼をしてくれた人が去っていこうとしている。
自分と他人を比べてみても、もちろん自分が一番大切に決まっている。けれど、自分の知らない過去を追いかけたところで、俺は何かを得ることが出来るのだろうか?
イネコは人の匂いは積み重なっていくと言っていた。
ならば、今、俺が決断しようとしていることは――依頼者を見捨てることは、未来の自分に胸を張ってこれが自分の匂いだと言えるのか?
手のひらに爪が食い込む。
「あのっ!」
うつむいていた顔上げ、俺は部屋の出口に手をかけようとしているイネコに声をかける。
「ん?」
と、イネコが振り返り首を傾げる。
「俺、どんな匂いをしていますか?」
自分でも意味が分からない質問に、イネコは目を丸くしながらも、俺をハグし大きく息を吸い込んだ。
「これまた複雑な匂いじゃな。ナナコに負けず劣らず、一言では言い表せそうにないわい」
俺を抱き締める腕に力がこもる。
「大変な道のり、だったのじゃな……」
やはり、この人の鼻は信用に値するものだ。
「お主はいつも何かに迷っているな。確かなものがなく、胸の中は不安でいっぱいであろう」
「その、通りです」
見事に心の内を言い当てられて気恥ずかしく思う。
「じゃが、お主の中から、その不安をかき消すような男の匂いもしておる。真っすぐにそそり立ち、そなたを支え、奮い立たせ、時に背中を押し、正しいことを選び取らせているように思う。これは何なのじゃろうか?」
「それは多分、オヤジのもの――なんだと思います。
「オヤジさんのもの? じゃが、お主とは全く違う匂いで、到底血が繋がっておるようには思えぬが……」
疑問を呈するイネコに、俺とオヤジの関係を簡単に説明した。
「なるほど、そういう事情があったのか。そのオヤジさんの影響でお主自身も不安に迷いながらも、もがき、前へ進むことが出来ているのじゃな」
イネコの説明に俺はうなずく。
「しかし、オヤジさんの匂いに紛れて他にもお主を支えているものの存在を感じるぞ。これは、ナナコのものか? それに、爽やかな夢と慈愛に満ちた香り、機械油にまみれた不器用な匂いもする」
やはり、そういうことか……。今の俺を形作っているもの。それは、この俺がこれまで接してきた人たちに他ならない。想像も出来ない自分のルーツなんかじゃないんだ。
これでもはや迷いはなくなった。
俺はイネコにお礼を言って扉に手をかける。
「さあ、急ぎましょう!」
「じゃが、お主、所長に何か訊くことがあるのじゃろう?」
イネコは不思議そうに首を傾げる。
「ええ。でも、よく考えたらそんなに大したことでもなかったです。それよりも、あなたの大切な人の方に興味があります。だから、取り返しに行きましょう、イネコさんの匂いを!」
イネコは一瞬目を丸くしたが、すぐに口の端を上げ、
「流石はナナコの……。よし、ならば、付いて来い!」
と、俺の手を引っ張ると所長室を後にした。




