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第一章 「犬と交わる」 18

 イネコの言った通り、所長は自分の部屋にいた。

 所長室は犬山博士の研究室の倍はありそうだ。落ち着いた調度品に囲まれた部屋の奥、高そうなスーツを着た四、五十代の眼鏡のおっさんがいる。

 おそらく奴がこの研究所の所長だろう。

 頭皮は薄く、お腹の脂肪もそれなりにある。中年を絵に描いたような風貌だが、どこかパリッとしていて清潔感も兼ね備えている。研究所の所長と言うよりも、大手会社の部長という感じの容姿をしている。

 所長は、勝手に部屋へ侵入した俺たちには気付いていないように見える。2台のモニターに向かって、キーボードで何かを入力していた。

 俺とイネコは慎重に所長へと近づく。ちなみに、ナナコは犬山博士の研究室にお留守番だ。

「ノックもなしで、こんな時間に一体なんです? 私的な残業は認められていませんよ」

 視線をモニターに向けたまま、所長は俺たちの歩を押しとどめる。流石は、上に立つ者。視野が広い。

「わざわざ私に直接会いに来るなんて度胸がありますね。いつも言っているように、私を驚かせるくらいの成果報告以外は聞きませんよ。あなた、所属と名前は? 上司は一体誰です? 部下への教育項目を見直す必要がありそうですね」

 キーボードを叩きながら所長が高慢に言い放つ。

 確かにイネコの言うように、鼻につく奴だ。

「なら問題ない。俺はここの人間じゃないからな」

 キーボードを打つ音が止み、広い部屋が静寂に包まれる。

「誰ですって?」

 所長が机の端を掴み、椅子を引いて視線をこちらに向けた。

 と、所長の目が大きく開かれた。

「おや、あなたは……」

 所長の表情が高圧的なものから、少し柔らかくなる。眼鏡を一旦外して深い瞬きをした。

 何だ? この違和感は。俺を見て急に態度が変わったような気がする。

「いや、まさか……」

 眼鏡をかけ直し、椅子から立ち上がる所長。姿勢を正して再びこちらを見る。

「どうして、あなたがこんな所に……」

 と、俺の横のイネコを見て所長の顔が険しくなり、眉間に皺が寄る。

「お前は! お前が、なぜここにいる? 確か、エリアZへ送られたはずでは……。いや、送られたのは研究員の方か。だが、不要な者は始末したはず」

 エリアZ? やはり、所長は犬山博士の移送先を知っているようだ。にしても、『始末』とは随分と物騒なことを言いやがる。

 俺とイネコは互いの目で合図を送り合う。

「そうじゃ。だから、地獄の番犬に賄賂を贈って戻ってきたのじゃ。犬という生き物は、ご主人の危機には必ず駆けつける。そのためなら、何度でも蘇るのじゃ」

「何を馬鹿なことを……」

 イネコの話を所長は鼻で笑った。

「では、教えてもらおうかの? ご主人の居場所を……」

 そう言うと、イネコは一歩前に出た。

「そんなこと教えるはずが――」

 所長がイネコを睨みつけたかと思うと、突如、ピーンと背筋を伸ばして直立した。

「――ない……だろう……?」

 さっきまでの勢いはなくなり、何故か疑問形になる。目が虚ろになり、視線が宙を泳ぐ。

「ああ。そうじゃな。口の堅いお主が答えるはずがない。そう……。絶対にご主人の居場所を教えはしないが、ワシたちをそこへ連れて行くのじゃ。出来るのであろう?」

 イネコがニヤリと笑うと瞳が怪しく光った。

「当り前だ。私を誰だと思ってる? 出来ないことなどあるはずがない。すぐにヘリを用意させよう」

 どうやら、所長は既にイネコの『魅了』にかかっているようだ。

 そんなこんなで俺たちが犬山博士の移送先へ行くための段取りが、あれよあれよと言う間に整っていく。こんなことなら、イネコ一人でも解決出来たんじゃないかとも思えてくる。


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