第一章 「犬と交わる」 12
「すまないねぇ。発情期に入ってからフェロモンが出っぱなしでの。お主、魅了されているのかもな?」
「魅了……?」
何だか危険な響きだな。
「なぁ~に、心配することはない。お主を取って食おうとは思っていない。犬は一匹のオスとしか契りは結ばないのじゃ」
そうなのか?
「今、嘘だと思うたろう」
図星を見事に付かれて心臓が大きく跳ねた。
「匂いで分かるのさ。犬の鼻は嘘の『匂い』を嗅ぎ分ける。嗅覚は人間の数千倍じゃぞ。体調の変化、発汗で思考を読み取ることは難しくない」
自慢げに鼻の頭をポンポンとタップする。
「じゃが安心せい。考えていることをそのまま読み取れるという訳ではない。その人が今、善意や悪意を抱いているとか、喜怒哀楽の感情が分かるだけじゃ」
なるほど、そういうカラクリだったのか。
と、逆にイネコから目を見つめられる。
「しかし、どうやらお主にはワシの魅了は効かないようじゃな」
「いえ、効いていると思いますが……」
実際、イネコに見つめられるとドキドキしてしまう。
「そんなものはオスの本能が反応しているに過ぎない。魅了の本来の能力は他にあるのじゃ」
「本来の能力?」
「ワシはフェロモンに当てられた異性を意のままに操ることが出来るのじゃ」
イネコの目が怪しく光る。
俺は一歩後ずさる。
「案ずることはない。言ったじゃろ? お主には効いておらんと。そもそも操る気もない。それに、心にヨコシマなものを持っているものにしか効きはせんのじゃ。そなたは誠実な人間のようだな。あるいは、もう心に決めたおなごが、特定のつがいがいるのかの?」
心に決めた女性か……。自分のこともままならないのに、そんなこと考えたこともなかったな。だけど、今まで自分が接した人で考えてみると……。
一瞬、頭の中に浮かんだ人物を頭を振って追い払う。
「ん?」
俺はそこで思い出す。頭に浮かんだ人物、待たせている奴のことを。
腕時計は遅れると伝えた時間を大幅に過ぎている。
スマホには着信はない。
もしかして、一人で帰ってしまったのか?
確認のため電話してみると、いつもの抑揚のない声で、『まだか?』と言われた。だから俺は、「すぐ行く」と答えて施設を後にした。
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