第1話 黒い生き物と異世界フルーツ
固く閉じた瞼の裏側まで届くような強烈な眩しさを感じた。思わず、手で目を覆い光を遮る。
エレベーターに乗った時のようなぞわりとした浮遊感の後、とさりと軽い着地音が耳に届いた。
(なん⋯⋯だ?)
ゆっくりと瞼を上げる。
目に映るのは吸い込まれそうな空の青。柔らかな若草たちが、彼を包み込みながら踊るように揺れていた。
(⋯⋯どうなってんだ?)
仰向けになっていた身体を起こし辺りを見回す。
昼間からビールを飲んでしまったのがいけないのだろうか。たった二杯程度で幻覚を見るほど酒に弱かった覚えはないのだが。それとも、熱中症にでもなってしまったのだろうか。
意識は若干ふわふわしていたが、酔いが回った時のような浮遊感や顔の火照りすら感じない。
目頭を親指と人差し指で挟んでぐりぐりとマッサージをしてから、再度目を開けるが目に映るのは先程と変わらない光景。
それどころか、先程よりも鮮明に見える周りの景色に意識が一気現実に引き戻される。
身体に伝わる感触が妙にリアルで、背中に嫌な汗が流れた。
柃のいたそこはどこまでも続く草原だった。
「俺、家にいたよな?」
先程までいた自分の状況を思い出し、混乱する頭の中を整理する。
どうしてこんな場所にいるのだろうか?
とにかくここがどこかわからないが、案外自分の知っている場所の近くなのかも知れない。とりあえず歩いてみようと立ち上がろうとした時、地面についた手に草の感触とは違う何が当たった。
彼の手の側であの鞄がぎょろりとした目玉でこちらを見上げていた。
「でッ⋯⋯!?出たァァあァッッ!!!?」
目にも止まらぬ速さで立ち上がると、柃は脱兎の如く逃げ出した。
(鞄が動いてる!?あれは夢じゃなかったのかよ!?)
全速力で走りながら後ろを振り返ると、なんと、鞄がうさぎの様にぴょんぴょんと跳ねながら柃の後を追いかけて来ているではないか。
「ぎぃやぁあああぁーーーっ?!?!!」
あまりの恐怖に足がもつれて盛大に顔面からすっ転んだ。
すぐ側まで来ているソレに、先程襲われた光景が脳内にフラッシュバックする。
逃げなければと、頭では分かっているはずなのに身体が思うように動いてくれない。色を失った唇が小刻みに震える。
(もうダメだ!!喰われる・・・・・・!!)
稲妻の様な目にまとまらぬ速さで触手が彼の頭上に伸びていった。
「ギュギァァァアアァッッ!!!」
突然上空から聞こえてきた空を切り裂くような獣の叫び声に驚いて上を見上げると、軽自動車ほどありそうな大きな鳥が柃に襲い掛かろうと、太く鋭い爪を伸ばした瞬間だった。
(!?!?)
しかしその鋭い爪が柃に届くことはない。先程鞄が伸ばした触手が、巨大な鳥の心臓辺りを貫いていたのだ。
鞄がヒュッと勢いよく触手を引き抜くと、鳥はその一撃で事切れたのか浮力を失い真っ逆さまに落下する。
ドシン!と地響きがするほどの音を立て、その巨体が柃の側へと落ちた。
知らない場所、動く鞄に見たこともないほどの大鳥。
パニックで呼吸が細切れになる彼の元に鞄が再度近づいてくる。
隣に転がる大鳥の死骸と同じ末路を想像して身を強張らせたが、一向にその最後の瞬間は訪れなかった。
それどころか鞄は柃の周りと飛び跳ねた後、先程盛大に転んで擦りむいた腕をまるで心配するかのように自身の触手で撫で始めたのだ。
わけが分からずしばらく硬直していたが、今は自分を襲う気は無さそうな鞄と大鳥の死骸を交互に見比べ、おずおずと言葉を紡ぐ。
「もしかして⋯⋯たすけてくれ⋯⋯た?」
柃の問いを肯定するかのように、鞄の様な黒い生き物はこくりと頷いた。
「のど渇いた⋯⋯」
つなぎのポケットに入れてあったスマホで時間を確認する。
あれから6時間は歩き続けているのに景色は変わらず草原が続いていた。
スマホは電源が入ってはいるが電波は圏外。助けを呼ぼうと緊急通報にかけてみたが繋がらず役に立たなかった。
先程まで、ぎらぎらと容赦なく柃を照りつけていた太陽もすでに傾き始めている。
「ここはいったいどこなんだ?つーか、本当に日本なのか?」
歩きながらチラリと後ろを振り返ると、黒い生き物がぽよんぽよんと飛び跳ねながら彼の後ろをついて来ていた。
その様子にはぁぁと大きなため息が溢れる。
「化け物に懐かれるし⋯⋯変な生き物めっちゃ出てくるし」
田舎暮しで動物を見慣れた柃だったが、テレビでも見たことのないような生き物をここに来るまでに何度も目にした。
角みたいなものが生えた兎に、しっぽが2つに分かれたヒョウみたいな猫、コブラを何倍もデカくた大蛇・・・。
ゼリーみたいにプルプルした透明の生き物を見つけた時は、思わず大人気もなく棒でつついてしまった。
だけど、つついてた棒の先がチョコレートの様にドロドロに溶けていたのを見て、怖くなってその場を離れようとしたら、ゼリーみたいな生き物の大群に取り囲まれていた時はさすがに肝が冷えた。
その時も、何故か黒い生き物が助けてくれたのだが。
あれはまさかゲームによく出てくるスライムとかいう生物だったんじゃないだろうか。
あまりに現実離れした生き物たちの登場に、実は自分は死んでいて死後の世界を彷徨っているじゃないかとさえ考えていた。
そんなことを考えていた彼の目の端に、今までとは違う景色が映り込んだ。
(あれは!)
景色の方へ足を早める。歩を進めたその先には鬱蒼とした森が広がっていた。
森の入り口にある1本の木に駆け寄ると、その幹に背中を預けて座り込む。
「はぁー。流石に歩きっぱなしは疲れた。ーーそれにしても、参ったな。どこに向かえばいいかさっぱり分からねぇ」
日が沈んでからの移動は危険だろう。今日はこの辺りで一夜を明かさなくてはならなさそうだ。
「参ったな」と上を見上げた柃の目に、木に巻きついた蔦に実ったオレンジ色の果実が飛び込んできた。獣かなにかに齧られたような跡があるものもある。
フルーツ好きの好奇心がむくむくと掻き立てられる。
もしかして、食べられる実かも知れない。身長より高い位置にあるが棒を使えば届くはずだ。近くに転がっていた適当な木の枝を蔓に掛けて思いきり引っ張った。
テニスボールくらいの大きさの果実が3つ、蔓と一緒に採れた。指で押してみるとペコリと凹むが、外は少し硬い皮に覆われているようだ。
産毛のようなものが生えた皮を爪を立てて剥いてみると、透明感のある瑞々しい果肉が姿を現した。
フルーツ好きの彼ですら、今までみたこともない実だったが、一刻も早く喉を潤すものが欲しかった柃は思わずガブリと齧り付く。
プリッとして少し歯応えのある果肉を噛むとジューシーな果汁が溢れ出す。
桃とライチを混ぜたような味のあとに花のような爽やかな香りが花を抜けた。
「うっま?!何だこれ?!」
今まで食べたことのないその味に、あっという間に全て食べ切ってしまった。
真ん中にアボカドのような大きな種があるため食べられる所が少ない。まだまだ喉の乾いていた柃は、他に採れそうな実がないか探すがどれも木の枝を伸ばすだけでは届かなかった。
もう少し森の奥に進めば取れそうな果実があるかも知れないが、無闇に進めば森の中でさらに迷ってしまう可能性がある。
どうしようかと木の周りをウロウロとしていると、彼の様子を見ていた鞄が近寄ってきた。
すると触手を果実の実っている所まで伸ばすと、果実がたわわに実った蔓を切り柃に手渡してきたのだ。
「くれるのか?」
戸惑う柃に黒い生き物はコクコクを頷いたような仕草を取ると嬉しそうな表情を見せた。
「⋯⋯ありがとう」
恐る恐る果実を受け取ると、もう一度その場に座り沢山の果実で思う存分喉を潤した。
喉も腹も満たされた彼は歩き出そうと立ち上がる。
果実はまだ沢山残っている。この先どこまで歩くことになるか分からないし、食糧として持っていこう。
入れ物ものはないかと思ってチラリとをソレをみる。黒い生き物きょとりとした目で柃を見つめていた。
(……いや、流石にやめておこう)
自分が飲み込まれた時のことを思い出してぶるりと震える。
この黒い生き物に今は敵意がないのは分かったが、流石に怖い。
果実のついた蔓を縛って持ち手を作ると、肩に背負い柃はまた歩き出した。
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辺りに夕闇が満ちて来た頃、柃は巨大な木の洞の中にいた。
洞の中には鈴蘭のような形をした花が、青白い光を灯している。
此処は、森の入り口近くに位置し、夜を過ごす場所を探していた柃に鞄が見つけて案内してくれたのだ。光る花も黒い生き物が見つけて教えてくれたものだった。
黒い生き物は簡単な意思疎通ならできるようで、柃が困っていると何度も助けてくれた。
時間が経つに連れて恐怖が薄れていた柃は、意を決してそれに問いかける。
「聞きたいことがある」
柃の言葉を聞くように、黒い生き物はじっと彼の目を見つめる。
「此処は日本なのか?というか俺がいた世界なのか?」
黒い生き物フルフルと身体を横に振った。違うという事らしい。
此処に来るまでに何度も不思議なものたちを見ていたので何とかなく想像はついていたが、やはりショックを隠しきれずはぁと深いため息を一つついた。
「⋯⋯やっぱりか。ここは俺がいた世界とは別の世界ってことなんだな?だとしたら、お前が俺を飲み込んでに異世界に連れてきたんだよな?」
黒い生き物はこくんと頷いた。
「どうして俺を異世界に連れてきたんだ?何か理由があったのか?」
頷いたりぴょんと跳ねたり、触手を伸ばしたり。まるでジェスチャーをするみたいに何かを伝えようとしているが、柃はそれが何と言っているのか分からず頭を抱えた。
「俺を元の世界に戻してくれるか?」
力なく質問する柃を見て、ソレはしょぼんとした表情になった後、ゆっくりとフルフルと身体を横に振る。
「ーー出来ないってことか?」
チラリと一瞬柃の目を見ると、すぐに申し訳なさそう目を晒しこくんと一回頷いた。
触手が怒られた犬の耳のように垂れてる。
騒つく心を落ち着けるため、作業着の胸ポケットから残り僅かとなったタバコとライターを取り出して火をつける。肺一杯に吸い込んでから、細くゆっくりと煙を吐き出した。
自分の両頬をぱぁん!と大きな音を立てて叩くと、吹っ切れた様に真っ直ぐと前を向いた。
「まぁ!なんとかなるだろ!」
祖父の土地を継いだ時もそうだった。なんとかなると思って、がむしゃらに生きてきれば案外本当になんとかなるという事を彼は経験上知っていた。
どんなに喚いたって此処は異世界。自分のいた世界には戻れない。これが変わらない事実なら、喚くだけ無駄だ。
とにかく今は訳の分からないこの世界で生き延びるしかないのだ。
それに、、
「お前。俺のこと守ってくれるんだろ?」
隣でしゅんと項垂れる黒い生き物に問いかける。
その言葉に、ソレは目をキラキラと輝やかせ勢いよくコクコクと頷いた。
「じゃあ、俺とお前は相棒だな!よろしくな!」
嬉しそうに柃の周りをぴょんぴょんと飛び回る。
「相棒なら名前もつけなきゃな。鞄じゃ流石に呼びにくいし⋯⋯バッグ。ーーバク!!お前のことはバクって呼ぼう!!」
名前をつけられた事が余程嬉しかったのか、バクは勢いよく柃の腕の中に飛び込むとからだを擦り付けてきた。
しっとりとした滑らかな手触りのからだを撫でてやれば、気持ち良いのかすぐにおとなしくなった。
そう言えば近所にこんなのいたな。あれは白に黒ブチの猫だった。丸々太りすぎているせいで、まるで歩く豆大福みたいだと思ったものだ。なんだかそいつに似ているな。
そんな事を考えながら、外に視線を移す。外はすでに闇に包まれていた。
疲れた身体を休めようと地面にごろりと寝転がる。
「もう暗いし、そろそろ寝よう。明日も沢山歩かなきゃいけないかも知れないから⋯⋯な」
自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。
一日中気を張っていたせいもあるかも知れない。
急激に襲ってきた眠気に、柃は早々に意識を手放した。
翌日、森の入り口に沿って歩き続けていた柃は興味深いものを見つけていた。
天に向かって真っ直ぐに伸びる立派な竹林だ。
「まさかこの世界にも竹があるとはな」
太さを確かめながら竹を物色する。手ごろな竹を見つけるとバクの方を振り向き、選んだ竹を手の甲でコンコンと叩いた。
「バク、この竹を切ることできるか?」
バクはすぐさま腕を伸ばすと、指示された竹を一瞬にして切り倒す。
「つぎはココとココを切ってもらえるか?こっち側はこんな風に斜めに切ってもらいたいんだけど」
細かく指示を伝え両側に節を残すように竹を切り出してもらう。切り出された竹はまるで、丁寧にヤスリを掛けた後の様に滑らかな断面をしていた。
「すごいな!これならバリ取りの必要も無さそうだ!あとは、斜めに切った方の節と両側に穴を開けて貰ってーーあ!反対側の節に穴を開けない様に頼むな」
片側の節に、節の1/5程度の穴を開けてもらい飲み口を作り、穴と同じくらい太さの短く切った枝をそこに差し込む。
飲み口側の側面にさらに2つの穴を開け、最後に肩紐代わりの昨日手に入れた果実の蔓を通したら水筒の完成だ。
子供の頃に祖父と一緒に作った経験がこんなところで生きるとは。
「助かったよ。バク。これで水があればいつでも汲むことができるよ」
バクは得意げに一回転すると、そのまま竹林の奥へと進み出した。
「おい?どこに行くんだ?迷っちまうといけないから奥には行かないぞ?」
慌てて引き止めようとする柃に、着いてこいとでも言うかのように振り返ってその場で数回飛び跳ねるとバクは奥に進んで行ってしまった。
「待てよ!バク!」
止まる様子のないバクの後を、仕方なく追いかける。疎らに並ぶ竹をすり抜けて暫く進んでいると、柃の耳に微かに水の流れる音が聞こえてきた。歩むスピードを上げて音の聞こえるほうに急ぐ。
竹林を抜けて開けた場所に出るとそこには川が流れていた。奥底の小石まではっきり見えるほど水の澄んだ川だ。バクが川のほとりで柃が来るのを待っている。
果物で喉を潤していたとはいえ、照りつける日差しのなか丸一日以上歩いていた柃にとって、それはまさに砂漠で出会ったオアシスのようだった。
大急ぎで川縁にしゃがむと両手で水を掬って少しだけ口に含んだ。
「ッ!うあーッ!美味い!」
これなら飲料水としても問題ないだろう。先程作った水筒いっぱいに水を汲んだ後、着ていたものを脱ぎ捨てて川に飛び込んだ。
「あー!冷たくて最高だぁー!そこら中汗まみれで気持ち悪かったんだよ」
水の中に潜ってガシガシと頭を洗うと、汗と汚れでベタついていた髪が幾分かマシになった気がする。ついでに着ていた服も洗っておこう。この天気ならそう長い時間もかからずに乾くだろう。
陽当たりの良い木の枝に洗い終わった服を掛け、とりあえず下着だけ着て辺りを探索していると、枇杷のような黄色い果実をつける木を見つけた。果実の他に大きな白い花も咲いている。丁度、小鳥が果実を啄んでいた。
「花と同時に実をつけるなんて面白い木だなぁ。鳥が食ってるってことは、この実も食えるのかな?」
果実を一つ捥いで匂いを嗅いでみるが特に匂いはしない。半分に割ってみると真っ白で柔らかな果肉が詰まっていた。パクりと一口食べてみる。
「この実もすげぇ!!!いちじくみたいにトロッとしてて、マンゴーとバナナを合わせたみたいな濃厚な甘みで超美味いじゃん!?異世界のフルーツってこんなに美味いものばっかりなのか?」
一つ食べ出してしまえば、あまりの美味しさにもう手が止まらなかった。夢中になって食べていると、様子を不思議そうに見つめていたバクが彼の真似をする様に果実を自分の口に入れ始めた。
「お?バクも食べるのか?これ、美味いよな」
この世界の鞄はバクの様にみんな生きていて食事をするのだろうか?鞄が食事をすると言う不思議な光景に、ぼんやりとそんな事を考えた。