「拳銃」「空洞」「病院」
血の表現があります。
苦手な方はこの噺を跳ばしてください。
目を覚ましたとき、眠っていた場所は台所の床だった。台所とは言っても、狭いアパートの廊下に流しが付いた簡素なもので、鏡を壁にかけ洗面所も兼ねている。顔を洗おうと蛇口に手を伸ばすと、その手が赤く濡れている。はっとして鏡を覗くと、右手側の顔面もまた赤く濡れている。
振り返ると床の上には頭より一回り大きい血溜まりがあり、流しの横には拳銃が置いてある。不思議なことに、それらを見ながら何があったのかを思い出そうとしても何も思い浮かばない。自身を検めてみると、頭から足まで痛みは無く、出血した場所であろう顔の右側面に穴どころか傷もなく、左側面も同様だった。辺りを嗅ぐと、血の匂いに混じって微かに火薬の名残がある。そんな現状を認識しても何かを思い出すことはなかった。
この場で考えても仕方ないと判断し、病院へ行くことにした。血を洗い流し、服を着替え、鍵のかかった玄関を開け、外へと踏み出す。外は雲がなければ風もない、穏やかな晴れた朝だ。心地よい雰囲気の中で歩きながら、ふつふつと浮かぶ言葉をまとめてゆく。
強盗の類に撃たれた? いや、戸締まりはしてあった。
自殺しようとしたか? いや、頭を撃って平気なはずがない。
救急を呼ぶべきでは? いや、そんな怪我はなかった。
警察を呼ぶべきでは? いや、拳銃は本物ではなく陸上用かもしれない。
出血があったのでは? いや、傷がない、血糊かもしれない。
そうして病院へ着く頃には、演劇か何かの練習中にうっかり空砲を撃ち、その音で気絶したのだろうと自己完結していた。受付で頭部の違和感云々から検査を希望すると、暫くして大きな機械に通され、更に暫くののち連れられた部屋で医者と対面した。
「あなたは昨日やそれ以前の記憶がありますか?」
何も思い浮かばない。
「今日目覚めてから、何かに動転したり感情を強く揺さぶられたことはありましたか?」
それはなかった。
「これが今のあなたです」
示された写真には、人型の輪郭だけが写っていた。
「空洞病といいます。理由は不明ですが、あなたの内側には何も存在せず、表面に穴を開けても塞がります」
その病名は至極納得できるものだった。
投じられる全てを受け入れ、満たされることのない日々の訪れを、私は防ぐことはできなかったのだろう。