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野井間教授の実験

作者: 吉田製作所

 玄関のドアを乱暴に開け放ち、足を鳴らしながら自宅に上がり込んだ野井間教授は書斎に入るなりギリギリと奥歯を噛んだ。

「くそ! あの若造が……!」

 野井間は拳を机にたたきつけた。

「まったく忌々しい!」

 ふと目についたゴミ箱を蹴飛ばす。詰め込まれていた紙くずが床に散らばったが、元々必要なものと不必要なものが混在していた床にばらまかれてしまい、果たしてどれがかつてゴミ箱に収まっていたものなのか、もはやわからなくなってしまった。

須藤すとうめ! わたしに意見するなど百年早いわ!」

 否応にも野井間の脳裏に昼間の光景が甦ってくる。

 毎週水曜の十三時から十四時半までの九十分間、野井間教授が在籍する利用生物学研究室ではゼミが開かれていた。研究室に所属する大学四年生、修士課程および博士課程の大学院生、そして配属が決定している大学三年生らが参加し、それまでの研究成果を順にプレゼンしていく。大学生にとっては卒論発表へ向けての予行演習、院生にとっては学会発表へのステップとして、すべての研究室に存在するカリキュラムである。教授方からの丁寧な指導、諸先輩方からの愛の込められた叱責、温かい眼差しで見守る同級生と後輩たち……。それが一般的な研究室のゼミ風景であるのだが、野井間教授がトップとして君臨する利用生物学研究室ではそうではなかった。

 一コマのゼミでは三名の学生がプレゼンするのであるが、利用生物学研究室の学生たちはその順番が回ってくることを代々『公開処刑の日』と呼んでいた。

 その理由の第一として挙げられるのが、野井間教授によるひとかけらの愛も感じさせない叱責、怒号、なじり。当人たちからすれば必死に考え、作業してきた結果であるのだが、それをいともたやすくこけおろす教授の言葉に生徒はことごとく震え上がることになり、中には泣き出す者、さらには失禁、失神する生徒すらまれに見られた。

 利用生物学研究室では代々、水曜は憂鬱な一日だった。

 だが、一人の講師が配属されてから少し様子が変わってきた。

 その人物こそ、須藤講師であった。

 彼はかつてこの利用生物学研究室に在籍し、大学生の頃からひときわ飛び抜けた才を発揮していた青年だった。『公開処刑の日』に野井間教授からボロカスに言われたが、逆に見事論破してみせた唯一の人物として語り継がれてもいた。そんな須藤は他大学の研究室に院生として進学し、博士課程を修了して再びこの利用生物学研究室に講師として戻ってきた。

 それが今年の春のことだった。殺伐として一切の私語すらなかったゼミに、須藤の来訪とともに若くて瑞々しい活気が徐々に戻ってきたのだった。

 院生も四年生も、一通りプレゼンし終えたのが今日。須藤から発せられるさわやかなオーラに調子を狂わされていた数ヶ月間の鬱憤を、野井間教授はここぞとばかりに発散させたのであった。

 三人目の四年生が発表と質疑応答を終え、野井間教授に総括が求められた。彼はむすっとした顔で一言、「君たちはこれまで何をやってきたのかね」と言い放った。その一言で教室内の温度は一気に冷め切った。

「やる気がないのなら辞めて貰っても結構だ、他の研究室なり大学なりに行きたまえ。わたしの研究室でそのような低レベルな研究をされては困る」

 押し黙ったままの生徒たちに、野井間教授は宣告した。

「まあまあ、野井間先生。そのくらいで」

 突然発せられた声のほうに野井間はじろりと目を向けた。そこには涼しげな微笑みの須藤講師が柳のようにふわりと存在していた。

「なにかね、須藤くん」

「彼らの発表がつたないのは仕方のないことです」

「馬鹿を言うな。これまでわたしたちが必死に授業し、手ほどきしてやったのだ。研究テーマも必死に考えてやっているというのに、なんでこいつらはこんなにもやる気がないのだ? 本当にまじめに取り組んでいるのかね」

 野井間教授の一喝に、その場の生徒全員がビクリと身体を震わせた。

「……先生、それは言い過ぎではないでしょうか」

「須藤くん、なにが言いたい?」

「彼らは彼らなりに努力をしています。現段階は研究内容を固める程度で充分だと思いますし、院生はともかく四年生は発表だって初めてなのですから、最終発表に向けて慣れさせるという意味のこのゼミではよくやっているほうです」

 壇上に立たされて半べその男性生徒は救われたように明るい顔を見せた。

「今はなにより、プレゼンという特殊な環境に慣れることが彼らに必要なのですから」

 須藤講師は朗らかな笑顔を野井間教授に向けた。その顔を見せつけられた野井間は、カッと顔が熱くなるのを感じた。

「き、君は生徒を甘やかせすぎだ!」

 まるですべての原因は須藤にあるとでも言わんばかりに野井間は彼を怒鳴りつけた。須藤は首をすくめ、何も言わずに小さく笑うばかりだった。

 結局、その日のゼミは微妙な空気のままお開きとなった。野井間教授ははらわたが煮えくりかえるような苛立ちをどうにか飲み込みながら、自分にあてがわれた教授部屋へと戻った。乱雑に積まれた書類が嫌に目につく。と、そこへノックの音が聞こえてきた。乱暴に返事をすると、さわやかな笑顔のままの須藤がノコノコと現れたではないか。

「失礼します、先生」

「……なにかね」

「先ほどは失礼しました。どうも生徒が可哀相に思えてしまいまして」

「……」

「いや、最近の学生は本当に打たれ弱いというか……。ともかく、野井間先生のように厳しくいかないと、やはり生徒はまじめに取り組んでくれないのでしょうね」

 須藤は野井間の背中に「それでは失礼します」と声をかけ、そして教授室を出て行った。

 しん、と静まりかえった教授室のなかで、野井間教授はギリッと拳を握りしめた。

 わたしのように厳しくしないと……? だったらなんだ、さっきのゼミでの態度は? まるで生徒にこびを売るかのように! 生徒からの人気を得るためか?

 こうしてゼミが終わって帰宅し、そして書斎に入ってからも野井間教授は須藤講師への憎しみのことばかり考えていた。

 わたしだって、生徒のためを思ってやっていることだ。自分の可愛い生徒たち。彼らが立派な研究成果をひっさげてこの研究室を巣立ってくれることを心から望んでいる。

 だが、生徒たちはどうだ。いつもいつもわたしを恐れ、腫れ物にでも触れるかのように接してくる。何を言ってもわたしに怒られる、そう思っているのだ。もうずっと前からそうだった。何年も何年も、わたしと生徒の関係性は変わらなかった。

 しかし須藤くんが来てから、少しずつ変わってきた。が、それはわたしにとってさらに忌々しい方向へ、だ。生徒たちはあたかも親しい先輩に接するかのごとく須藤くんに教えを仰ぐ。その態度はまるで教師に対するものではない、尊敬の念のかけらすら存在しないのだ。須藤くんはといえば、生徒たちのその態度に異を唱えればいいものを、あたかもありがたいかのように受け入れている! 生徒と教師の間柄がそのようなものであってよいはずがない!

 それに、彼が生徒たちを受け入れているおかげで、生徒たちのわたしに対する態度がさらに酷いものになってしまった。生徒たちはわたしをまるで閻魔大王であるかのように見ている。わたしをまるで爆発寸前の爆弾のように見ている。爆発のスイッチは言葉を交わすこと、だったら話さなければいい。――そうだ。生徒たちは明らかにわたしを避け、須藤くんのほうに行くようになった。研究に必要な質問はいずれも須藤くんに尋ねる。わたしにしか聞けないようなことはメールで聞く、または須藤くんを通して聞いてくる。

 生徒たちはわたしのことを嫌っている。

 そして、須藤くんの存在がそのことを助長している。

「やつはわたしの生徒たちを独り占めしようとしている!」

 野井間教授は憎々しげに顔をゆがませた。その時、ふと机の上のカレンダーに目が留まった。三週間後のとある日に、赤く丸印が付けられている。

「……」

 その日は学会の発表会の日だった。各大学や研究機関で研究を続ける研究者たちがそれぞれの成果を世界へと発信する、大切で厳粛なイベントの日。この日は野井間教授と須藤講師にとって、特に重要な一日であった。

 すなわち、彼らの研究のプレゼンも行われるのである。と言っても、そのプロジェクトは須藤講師が以前所属していた大学院にて行っていたものであり、野井間は関係者として論文に名を連ねる程度だ。そのため学会での研究発表は須藤講師一人が執り行う予定だった。彼は学校ではほとんどそんな素振りは見せていないが、現在、裏では血を吐くような思いで必死にプレゼンを作っていることだろう。

 ふと、野井間教授の脳内にあるビジョンが浮かんできた。

 それはプレゼンの場にて、須藤講師があたふたと慌てふためき、真っ青な顔をし、周囲の諸研究者から罵声ともとれる雑言を浴びせられている、そんな映像だった。

「く……くっくっく」

 その映像は今の野井間教授にとって、なにより楽しめるものだった。

 あの憎たらしい若造が困り果て、多くの面前で恥をかいている、そしてわたしは彼に「残念だったが、君にはまだ早いよ」と耳元で囁く。指導者として自分にも非難はくるかもしれないが、そんなものどうだっていい。そのようなかすかな言葉よりも、須藤くんの絶望に満ちた顔のほうが万倍価値がある。

「……須藤くん、君が悪いのだぞ」野井間教授はニヤリと口元をつり上げる。「君がわたしを怒らせてしまったのだ。このわたしを……」

 野井間教授はいかにして須藤講師をこらしめてやるか、その方法を考え始めた。


 脳井間教授がいくら陰湿で嫌味な俊才であっても、さすがに他人に対して何らかの『行動』に出たことなどあるはずもなかった。脳内にある学問はどれもこれも研究に対するものなのだから、それは仕方のないことだった。

 腕を組み、これまで学んだ事象から須藤講師に対する嫌がらせを模索していた野井間であったが、数時間に渡り考え抜いたものの良い案が浮かばず、彼はため息を一つ吐くと椅子から腰を上げ、のそのそとキッチンへ向かった。

「脳に糖分を送ってやらねばならん……」

 うわごとのように呟きながら冷蔵庫を開ける。なにか手軽に食せるものを、と視線を巡らせてゆくと、見覚えのないタッパーが目に留まった。

「ん? なんだ、これは……」

 半透明のケースの中には茶色い半固形物が入っている。ゲル状になっているようであり、揺すってみると内容物はワンテンポ遅れてプルプルと震えた。

 野井間はタッパーのふたを開けた。瞬時に立ち上ってきた酸っぱい腐敗臭にすぐさまタッパーを遠ざけ、空いた手で鼻をつまんだ。

「うごっ!? ……こ、これはわたしを狙う、新手のテロか?」

 急いでふたを閉めようとした時、野井間教授はハッと動きを止めた。

「そうだ、やつを食中毒にしてやろうではないか」

 野井間はすかさずに脳内で計算する。

 あれとあれが必要で……、ああしてこうして、ふむ。約三日間あれば可能だ。

 書斎に戻り、カレンダーを確認する。やがて野井間教授は不気味な笑顔で何度も頷いた。そのままの表情でパソコンを起動させるとインターネットに接続し、通販サイトで良さそうな獲物を物色していく。

「ふむ、明太子、ハム、チーズケーキか……。どれもいまいちだ。加工食品ではダメか、やはり生ものに限るな」

『肉』ジャンルをクリックする。カテゴリのトップに表示された牛肉に目がいった。

「なるほど、最高級牛肉か。よさそうだ」

 野井間は「但馬牛高級サーロインステーキ二百グラム二枚」という九千八百円の品をためらうことなく注文した。

「安くない出費だが、まあこれも須藤くんへの『祝い』だ。フフフ……」

 操作を終えた野井間は、床に放り出してあったバッグを引っ張り出すと中をあさり、ガラス製シャーレを見つけ出した。再びキッチンに戻り、冷蔵庫から鶏卵と牛乳を取り出してボウルに入れ、泡立て器でよく混ぜ合わせ始めた。

「まさかこの培地を作ることになるとはな……」

 混ぜ合わせた液体に砂糖と塩を適量、スプーンで入れていく。さらに攪拌し、できあがった液体をシャーレに流し込もうとしたところでふと動きを止めた。

「……」

 このシャーレ、いったい何に使ったものなのだろうか。きちんと滅菌はしただろうか。それ以前に、なぜバッグに入れたのか? とんでもない生菌を培養したものではないか?

 しばし考えた後、卵と牛乳の混合液が入ったボウルを一度置き、野井間は圧力鍋を用意した。少量の水とシャーレを放り込み、コンロで火にかけていく。

 圧力鍋からシュシュシュと蒸気が出始めてから数十分後、野井間は鍋をコンロから降ろし、圧を抜いてふたを開ける。

「ずいぶん適当なオートクレーブだな……」自嘲するかのように呟いた。

 滅菌済みシャーレが冷めたことを確認した野井間教授は、いよいよと言わんばかりに混合液をシャーレに入れた。再び圧力鍋に水を入れて沸騰させ、火傷しないように注意しながらシャーレを投入していった。待つこと十数分、取り出したシャーレ内にはプリンのような物体ができあがっていた。簡略化した非選択性卵培地である。

 満足げに頷いた野井間はおもむろにズボンの裾を膝辺りまでたくし上げた。膝小僧には男子小学生のような擦過傷ができており、傷口は膿んで湿り気を帯びていた。先日、道路で転倒してできた擦り傷だった。

「たまにはコケてみるものだな。まさかこのようなところで役に立とうとは……」

 グッと奥歯を噛みしめながら、ゴム手袋を着用した手で傷口を絞ってゆく。黄色く濁った液体がじゅんとしみ出てきて水滴を形作った。

「あちち……」

 すかさずに水滴を指ですくい取ると、先ほど準備したシャーレの中央部分になすりつけた。

「スタフィロコッカス兵器か……。身近な細菌だが、濃度を高めてやれば実戦に投入できるかもしれんな」

 野井間教授は恐ろしいことをさらりと呟いた。

 ヒトなどの傷口を化膿させる原因菌の一つであるスタフィロコッカス、一般的に黄色ブドウ球菌と呼ばれるその細菌は、かなり高い毒性を持っている。生産する毒素の一つであるエンテロトキシンは耐火性、耐酸、アルカリ性が強く、非常に変性しにくいタンパク質だ。数マイクログラム程度でも経口摂取すると食中毒の症状が現れ、また皮膚などに付着してしまうと、いわゆる『飛び火』の症状を引き起こすこともあるので、扱いに注意が必要な細菌である。野井間教授はそんな黄色ブドウ球菌を培養しようとしていた。

「さて、あとは恒温器か……」

 思いついたように押し入れをあさり、パネル状の物体を取り出した野井間教授は同じく押し入れ内にあった発泡スチロール製の箱を引っ張り出して、角に直径一センチほどの穴を開けた。パネルから伸びている電源ケーブルをその穴から通すと、箱の底にパネルを固定した。ケーブルの先にあるプラグをコンセントに差し込んでしばらくすると、パネルが徐々に暖かくなってきた。

「……やはり、使えるものはとっておくべきだな。は虫類用のヒーターがこのような形で使えるのだから」

 発泡スチロール箱内の温度が三十七度に保たれたことを確認した野井間教授は、ヒーターパネルの上に割り箸を敷いて間隙をもうけ、そこにシャーレを乗せた。

「これで第一段階は整った。後は但馬牛が届くのを待つだけだな」

 翌日、野井間教授は手作りインキュベーター内の温度を確認するついでにシャーレを取り上げ、まじまじと眺めた。しかし培地には、今のところ見た目の変化は現れてはいなかった。

「むう、この培地のデメリットはコロニーが視認できないところだな……」

 呟きながら野井間はシャーレのふたをそっと開け、鼻を近づけた。昨日冷蔵庫で見つけたタッパーから立ち上ってきたものと同様のにおいが発生していた。

「がふっ ……と、とりあえず、スタフィロコッカスは無事に育っているようだ」急いでシャーレを閉めながら言った。

 さらに翌日、ようやく野井間教授の元に通販会社から但馬牛が届けられた。桐箱入りのそれは、箱入り娘の嫁入りとでも言わんばかりの緊張感を放ちながら野井間の手に渡されたのだった。

 さっそく桐箱を開封した野井間は、ラップで包まれた肉塊を取り上げ、まな板の上に載せた。スタフィロコッカス培養シャーレを隣に置いて鼻をつまみながら開封し、電子レンジを用いて滅菌処理した爪楊枝にて培地中央部を軽くすくい取ると肉塊にズブリと差し込んでいく。その操作を肉塊の様々な部分に行っていった。

「……」

 野井間教授は自然に笑みをこぼしていた。脳内に流れているイメージは、耐え難い腹痛に酷くゆがんだ須藤の顔。彼はこの犯行を決意してからの数日間、常に須藤のそんな顔を夢見てきた。大学構内で見せるあのさわやかすぎて吐き気すらわき上がってくる笑顔が脆くも崩れ落ちる、そんな瞬間を。

 二重に装着したゴム手袋で肉塊を桐箱に戻し、そっとふたを閉める。野井間教授の夢と希望に満ちた時限式細菌兵器がここに完成した瞬間だった。

「フフフ……、待っておれよ、須藤くん……!」


「野井間先生、お呼びですか?」

 教授室にいつもの笑顔で入ってきた須藤講師に、野井間教授はぐにゃりと不気味な笑みを投げかける。本人は普通に笑っているつもりだが、周囲の人間から見るとあからさまに苦痛を表している表情だ。

「おお、須藤くん。入りたまえ」

 須藤は応接用のソファにそっと腰を下ろした。

「べつに用事と言うほどのことでもないのだが……、例の学会での発表、準備は順調かね?」

「ええ、さすがにあの規模のプレゼンは初めてなので緊張していますが。ですがご心配なく、スケジュール通りに進んでいますので」

「しかし須藤くん。顔色があまり優れぬようだ。ちゃんと食事を摂っているのかね」

 須藤は恥ずかしそうに頭をかいた。

「いやあ、お恥ずかしい。ぼくも独り身ですから、たいていはコンビニで済ましています。ですが近頃は店に寄る暇もなくて、三食とも学食の安定食ですね」

「そりゃいかんぞ、須藤くん。学者たる者、常に自身の実力を発揮するためには厳正なる栄養管理が必要だ。特に学会での発表たるや、敵兵に囲まれた戦場のごとし、だ。一騎当千の働きをするには平常時以上のスタミナが不可欠なのだよ、須藤くん」

 野井間はガッツポーズしながら力説する。そんな教授の姿を見せつけられた須藤は元気よく笑った。

「ははは! さすがは野井間先生だ! ぼくが学生の頃から変わっておられない、非常にユーモラスだ」

 何か引っかかる言い回しであったが、野井間はグッとこらえて本題を切り出すことにした。

「ときに須藤くん。君は牛肉は好きか?」

「そりゃあもう。三食焼き肉でもオッケーなくらいですから」

 須藤の言葉を受けた野井間の瞳が怪しく煌めいた。野井間は小さな冷蔵庫から件の桐箱を取り出すと、スッと須藤の前に差し出した。なんじゃこれ、と須藤は無言で桐箱と野井間とを見比べた。

「実はかつての教え子がこんなものを送ってきてな。兵庫県は但馬地方産の、紛うことなき最高級但馬牛だ。言うまでもないとは思うが、但馬牛とは松阪牛や近江牛の素牛として……」

「た、たた但馬牛!?」

 目の色を変え、今にもよだれを垂らしてしまいそうになっている須藤に、野井間は思わずビクリと身を引いた。

「そ、そうだ。このようなものを何箱も送ってきおって……。どうかね須藤くん、君も一つ」

「よろしいのですか!」

「ああ、もちろんだ。この最高級但馬牛を食してスタミナをつけ、そして発表に臨みたまえ」

「ありがとうございます、先生!」

 手を取り感涙する須藤を、野井間はまったく異質の熱を込めた笑顔でなだめた。

 ……まあ、せいぜいトイレで頑張りたまえ! 

 それからというもの、野井間は須藤の様子をこまめに観察し続けた。さすがに受け取ったその日、ましてや日中に大学構内で但馬牛ステーキを食すなどとは思えなかったが、それでも野井間はわくわくして観察していた。悪戯少年に戻った心をどうにか静めさせ帰宅したが、興奮しすぎて眠れなかった。

 ああ、今頃やつはスタフィロコッカス但馬牛を喰っているのだろうか。

 ああ、今頃やつの消化器官内に入り込んだスタフィロコッカスがエンテロトキシンを生産しているのだろうか。

 ああ、今頃やつは吐き気と腹痛でトイレに籠もりきりになり、上からも下からも出しまくっているのだろうか。

 その姿は、想像するだけで実に愉快だ!

 クリスマスイブの少年のごとき心情に浸っていた野井間教授であったが、翌日のクリスマスは彼にとって予想できない出来事が待っていた。

「……馬鹿な」

 野井間の目に映るのは、学生と楽しげに談笑している須藤講師の姿。数マイクログラムで吐瀉が止まらなくなるという毒物を生産する細菌を大量摂取したとは到底思えない、元気すぎる姿。

「あ、野井間先生。おはようございます」にこやかに挨拶を投げかけてくる余裕すらある。

 野井間は無言で教授室に潜り込んだ。椅子に浅く腰掛け、机上にドンと拳をたたきつけた。

 ……馬鹿な! どうしてやつに食中毒の症状が出ない!! まさか培養が失敗していたのか? ……、……いや、そんなはずはない。だとしたら……。

 ……そうだ、可能性は一つしかない。というよりも、確実にこれだ。

「あいつは、まだ但馬牛を喰っていない……」

 この事実は野井間教授にとって想定外のことだった。健常な成人男子ならば、最高級牛肉を無料で手にした場合、例え翌日が令嬢とのお見合いの日だったとしても、ニンニクたっぷりで食らいつかずにはいられない、それが当然だと思っていた。野井間自身がそうするのだから。貰ったその日に喰わず、翌日に持ち越すなどあり得ない話だったのだ。

「……しかし、まだ失敗したと決まったわけではない」

 そうだ、須藤くんはあれを今日喰うかもしれないし、明日ようやく喰うのかもしれない。そしてあれは、時間が経てば経つほど凶悪になる。なぜなら細菌兵器だからだ。……わたしの実験はまだ途中なのだ!

「く……、くっくっく! よぉく育てよ、スタフィロコッカスたち」

 野井間教授の心情は、初日の出を待ちわびる大晦日の夜のように心躍るものとなっていた。

 だが、やはりいつまで待っても日が昇る兆候は見られなかった。しびれを切らした野井間は、思い切って須藤講師に尋ねてみることにした。

「……須藤くん」

「あ、野井間先生。どうも」

「先日君にやった、最高級但馬牛の味はいかがだったかね? 送ってきたかつての教え子に訊かれてなあ」

「ああ そうです、先生! あの牛肉!」

「な、なにかね……?」

 まさか自分のしたことがバレてしまったのではないか、と野井間はビクリと身構えた。

「本当に申し訳ありません。貰った日の晩にいただこうと思って開封したのですが、どうも古くなっていたようでして、中身はすでに液状化して原型すら確認できない状態でして……」

「んなっ! なんだと……!?」

「うわああ! 本当に申し訳ないです! せっかく先生からいただいたというのに腐らせてしまって!」

 土下座すらしてしまいそうな勢いの須藤だったが、野井間は平静を取り繕うのに全神経を集中させた。

「い、い、いや、こちらこそ済まなかったな。まさかそんなに痛んでいたとは……」

 そう言いながら野井間はフラフラと教授室に入っていった。背後からは須藤が何か声をかけていたが、もはや野井間の耳には微塵も聞こえなかった。


 自宅の書斎で、野井間教授は頭を抱え込んでいた。

 なぜ自分はあのようなミスを犯してしまったのか。よくよく考えれば、結果は目に見えていたではないか。

 ……腐敗細菌を大量にブチ込んだならば、すぐに腐ってしまうだろうが!

 当然だ。牛肉に仕込んだのは二日間も培養したスタフィロコッカスのコロニーだ。まして相手はラップにくるまれた最高級但馬牛。培地の糖分は充分にあっただろうし、嫌気性細菌のスタフィロコッカスが増殖しやすい環境は整っていた。数十時間もあれば肉塊をドロドロに融解させることも可能だろう。

 愚かしいのはわたしの浅はかな考えだ。

 このような手段を思いついてしまった、わたしの浅薄な知識。

 須藤くんを食中毒にしてしまうなんて、なんととんでもないことを考えてしまったのだろうか。済まない、須藤くん。心からわびようではないか。

 そう、君にはもっとエグい手段が必要だ! 食中毒などでは生ぬるい!

 その夜、野井間はとある店に電話をかけた。明日一番に、大学にあるものを届けるように、と。

 翌日の朝、野井間教授は先をゆく須藤講師を大声で呼び止めた。

「須藤くん、須藤くん。本日午後の三年生の基礎実験なのだが」

「はい、先生」

「少しばかり、内容を変更しようと思っている」

「え? 筋繊維に電荷をかける、恒例のカエル実験ではないのですか?」

「あんなもの、中学生の理科の教科書で充分だ。今日はもっと、もっと有意義な事柄をテーマとする」

 須藤の顔にたくさんの疑問符が浮かんだ。

「有意義な……ですか。しかし材料はどうなさるんです?」

「心配するな、すでに手配してある」野井間はニヤッと口の端をつり上げる。

「はあ、そうですか。それならお任せします」

 首を傾げながら去っていく須藤の後ろ姿に、野井間はあかんべーをお見舞いしてやった。

 そうして野井間教授はバレンタインデー当日朝のような気分で午前の授業をそわそわと終え、軽めに昼食を摂ると、TAの大学院生数人に発泡スチロールの箱を持たせて実験室へと向かった。引き戸を開けると、談笑していた生徒たちの私語がぷつりと止み、異様な緊張感で満たされたのがわかった。

「ああ、諸君。突然だが本日は予定していた『カエルの解剖並びに筋繊維の動作と電流・電圧の関係実験』を中止し、他の内容を行うことにした」

 野井間が厳粛に述べると、生徒の大半が安堵のため息を漏らした。無理もない、このご時世の大学生たちは、小学校中学校で動物の解剖実験をしたことなどあるはずもない。生きたカエルを切り裂き、筋肉に電極をつなげて電圧をかけ、動作を観るなどといったグロテスクな行為は御免だったのだろう。

「本日行う実験――というか実習なのだが――それは来るべき食糧難時代に一石を投ず実習である」

 野井間はひらりと身を翻すと黒板に大きく『理想食実習』と書き殴った。それを見た生徒は一人残らず首を傾げる。

「現在、我々が食するものの主たるは家畜、野菜である。だが、それらの生産には多大なるコストと労力、土地、時間が必要となる。本日の実習はそれらの問題を根底から覆す『理想』的な食材を用い、それらがいかに有益であるかを諸君に知って貰うことが目的である。賢明なる諸君はすでに気付いているだろうが、各テーブルには発泡スチロールの箱が置いてある。本日はそこに入っている食材を用い、各班調理をしてもらう。具体的な内容はそれだけだ」

「せ、先生……。『理想的な食材』って何ですか……? なんか箱の中身、カサカサいってるんですけど……」一人の勇敢なる生徒が、恐る恐る口を開いた。

「当然だ。それらも牛や豚と同じ、動物なのだからな。なお、中にはドライアイスが入っている。これは冷却効果と二酸化炭素の効果で中の動物をおとなしくさせるためだが、くれぐれも扱いには気をつけるように。それと、飛び出すかもしれんから、パニックだけは引き起こさないように注意してくれたまえ。……それでは、各班それぞれ箱を開け、調理に取りかかりなさい」

 どの生徒たちも恐れを抱き、お互いの顔を見合わせて様子を窺うなかで、右端の実験テーブルにいた男子生徒が意を決し、箱のふたを封印していたガムテープを剥がしとった。周囲の仲間たちの目を見回し同意を得ると、ゆっくりとふたをずらしていく。箱の中には焦げ茶色をした、艶めかしいつやを放つ十五センチほどの『昆虫』がうぞうぞと脚を蠢かせていた。

「……」

 箱の中をのぞき込んでいた彼らは、それがいったい何であるのかすぐには理解できなかったようであったが、やがてふたを開けた男子が「これって、ゴキ……」と発したのを皮切りに一挙に表情を青ざめさせ、すぐさま絶叫を上げ始めた。

「ぎゃあああ!」

 その叫喚は他のテーブルにも伝播したようであり、各テーブルに鎮座する発泡スチロール箱から少しでも遠ざかろうとする生徒たちは皆一斉に床を這い回った。

「おい! 諸君がゴキブリみたいになってどうする! 案ずることはない、それはわたしがペットショップから仕入れた、無害なマダガスカルオオゴキブリだ。きちんと火を通せばこれっぽっちも問題はない。それからそっちの班は、ジャイアントミルワームだな。喜べ、それは非常に旨いのだぞ!」

 野井間は各テーブルを回りながら説明していったのだが、生徒は誰一人として箱の中身に手を出そうとするものはいなかった。情けない生徒の姿を見、野井間は大きくため息を吐く。

「まったく……、仕方がない。まずはわたしが見本を見せてやる」

 フライパンにサラダ油を満たし、徐々に加熱していく。二百度程度まで油温が上昇したことを確認した野井間は、そこへ生きたままのマダガスカルオオゴキブリを投入した。ゴキブリは一瞬激しい抵抗を見せたが、すぐさま観念したかのようにおとなしく、動かなくなってしまった。数分間の後、野井間は油の中からゴキブリをすくい上げた。さっと油を切り、そしておもむろに胸の辺りからゴキブリを真っ二つに割った。

「うむ、よい仕上がりだ」

 満足げに頷いた野井間教授は、ためらうことなく素揚げゴキブリの腹部分を口腔内に放り込んだ。ガリッという食感の後に、ぷりぷりした身の歯ごたえが伝わってくる。

「おお、これは非常に旨い! エビフライをエビフライのしっぽ部分で包んだかのようだ!さあ、諸君も……ん?」

 野井間の目に写ったのは、各テーブルに設置された流し台に仲良く並んで嘔吐する愛すべき生徒たちの姿であった。

「君たちは……」

 呆れたように呟く野井間教授であったが、彼にはこの光景などすでに予想の範疇だった。当然である。昔の日本ならともかく、現代日本における若者に対しての昆虫食実習、しかもゴキブリやミルワームを用いたものなのだ。彼らがこのような有様になるのも無理はない。

 そう、若者に昆虫食は受け入れられないのだ! 

 そして我が愛しの須藤くん! 彼もまだ二十代後半。ばりばりの若者なのである!

 野井間教授は、生徒たちの阿鼻叫喚図、そして野井間自身の行いを、まるで異形の者を見るかのごとく青ざめた顔で見つめている須藤講師の情けない姿を想像し、バレンタインデーの放課後、体育館裏へ呼び出されたかの気持ちで彼のほうを向いた。

 野井間を呼び出したのはお下げ姿の女生徒ではなく不良のリーダー格……、もとい、彼が見たのは、生徒たちに熱心に昆虫食とはいかなるものなのかということを力説する須藤講師のさわやかな姿だった。

「いいかい? 昆虫は様々な気候、環境に適応できる、世界で最も繁栄している動物なんだ。そんな彼らには良質なタンパク質にミネラルがふんだんに含まれているし、脂肪分に至っては、ヒトのそれとは異なるものだから蓄積されにくい。これほど良い食材がほかにあるだろうか? 昆虫はまさに歩く万能食だよ」

 ……あれ? なんだか様子がおかしいぞ? 

 野井間は目をこすった。そしてこちらを向いた須藤と目が合った。須藤はすすすと近寄ってくる。

「……野井間先生、実はぼくも持ってきたんですよ」須藤は悪戯っぽく笑う。

「も、持ってきた? なにをだ?」

「ほら、これ!」

 須藤はビニール袋を掲げて見せた。中には赤黒いうどんのような生き物がウネウネと動いている。

「ミ、ミ、ミ」

「ええ、ミミズです。……今朝の先生のお言葉を聞いてピンと来ましてね、昼休みに圃場で採集してきたんです。いやあ、さすがは無農薬の圃場だ! こんなにぷりぷりに肥えたミミズがたっくさんいましたよ」

「きゃあ! スッティー、それどうすんの」須藤の手をのぞき込んだ女生徒が悲鳴混じりに尋ねる。

「よおし、ぼくも野井間先生を見習って、一丁やってみるか!」

 唖然とする野井間教授を尻目に、須藤講師はさっそくミミズの調理に取りかかった。

 生徒たちの好奇心の目に囲まれた須藤は、メスを掲げるとさっとミミズを縦真一文字に裂いた。断末魔の悲鳴を上げているかのように暴れ回るミミズを押さえつけ、皮一枚で繋がった左右の胴体を開き、内臓を指先で掻き出してゆく。さすがにこの光景は一部の生徒には耐え難かったようであり、目を背け口元を押さえ込む者もいた。しかし野井間の時のように悲鳴を上げることは誰一人としてしない。須藤講師の好意を無駄にはできない、そんな生徒たちの熱い思いがひしひしと伝わってくるようだった。

「昔、とある国に行ったときに現地でミミズ料理を食べたことがあってね。その時は干したやつだったんだけれど、それはそれは旨い料理だった。クセもなく淡泊だし、白身魚みたいな感じだよ。まあ、身は小さいけどね!」

 内臓を取ったミミズを上水で洗い、須藤はバターを溶かしたフライパンに投入した。赤黒かったミミズの身が変性し、徐々に白味を帯びてくる。やがて立ち上る香ばしい香りに、生徒たちはフライパンをのぞき込まずにはいられなかった。須藤はそこへさらに醤油を入れる。バターと醤油という黄金コンビに、昼食後だというのにどこかしらからか生徒の腹の虫が聞こえてきたりもした。

「さあ、できたぞ! ミミズのバターソテーだっ」

 須藤は湯気の立ち上る皿を生徒たちに突きだした。眼前にいた生徒は一瞬身を引いたが、須藤講師のおおらかな笑顔を見るとなにやら決心したらしく、皿の上のモノをひょいとつまみ、じっと眺めた。

「心配ないよ。元の姿を思い描かなければいい。これほど旨いものは、そうそうないよ!」

 頷く須藤の言葉を受けた彼は、つまんでいたそれを口に放り込んだ。舌の上でしばし転がし、やがて咀嚼し、嚥下した。そして彼の表情がパッと明るくなる。

「う、旨い!」

「だろ? ……さあみんな! せっかく野井間先生がご準備くださったんだ、貴重な食材を使って、『食』がいかに大切かを知ろう!」

 生徒はわっと散っていった。テーブルにある食材をいかに上手に料理してやろうか、それを須藤に食べさせて旨いと言ってもらえるだろうか、そのような希望に充ち満ちたまぶしい目で、発泡スチロールの内容物をいじくり始めた。

 野井間がペットショップから購入したマダガスカルオオゴキブリ、ジャイアントミルワーム、シルクワーム、須藤講師が採集してきたオオミミズ、そして本来実験に用いられるはずであったトノサマガエルなどの食材、そこへメスとピンセットと調理器具、調味料という訳のわからぬ道具、材料を用いて創作ゲテモノ料理大会が盛大に開催されていった。

「……」

 野井間教授は黙ってその光景を見守ることしかできなかった。

 本当ならば、須藤くんがわたしの作り出したゴキブリの素揚げを見て絶叫し、生徒たちから「なんだあの腑抜けは」と思われることにより、生徒たちの須藤くんに対する慕情が百八十度転換される、なおかつゴキブリをなんのためらもなく食したわたしに対して「野井間教授、凄い!」と思うようになるはずであったのだ。

 だが、どうしたことだ……。

 生徒たちの現状を冷静に判断すると、須藤くんに対しては「凄い、須藤先生ってばミミズを使ってこんなおいしい料理ができちゃうんだ。それに自分たちで創った料理もとってもおいしい!」、といった感じだろう。

 逆にわたしに対しては「……ったく、野井間教授のドアホな提案で酷い目に遭った! それに油で揚げただけのゴキブリに食らいつくだなんて、あのオッサン気持ちワリイ」と思い描いていることは明らかだ。生徒とわたし、生徒と須藤くん、それぞれの距離感がそういった現状を如実に表しているではないか

 ……なぜだ? なぜこうなった?

「野井間先生! 野井間先生!!」須藤が学生たちと同じくらいのはしゃぎっぷりで駆け寄ってくる。「ほら、五班の彼らが凄いヤツ創りましたよ! ミルワームとミミズのミックスパスタペペロンチーノ風」

 ずいと皿を突きだしてくる須藤に対し、野井間は一歩後ずさった。

「よ、止せ!」

「とってもおいしいですよ! ミルワームの濃厚さが、まさかこんなに引き立つとは……。彼ら、これで料理店が開けるんじゃないでしょうか」

「ば、馬鹿モン! 世間がそのような気色の悪いもの、受け入れるはずがなかろう」

 そうだ、目の前にあるのはつややかなアルデンテのパスタではなく、醜く縮こまったミミズと節だった白いムカデ様のゲテモノ! 

「だ、だれがそんなモノ、好きこのんで食う!?」

「え……? でも先生は今日の実習で、こういった食材の持つ可能性を生徒たちに伝えるのが目的ではなかったのですか?」

 し、しまった……!

 野井間はハッと口をつぐんで実験室内を見回した。

 それまで楽しそうに調理し、試食し、それらが持つ意外性に目を輝かせていた生徒たちは一様に動きを止め、須藤講師の背後から野井間に対して疑惑の視線を浴びせかけていた。

 明晰な野井間の頭脳はとうとうオーバーヒートを起こし、軽くパニックに陥った彼は須藤の掲げる皿の内容物をむんずとつかみ取ると、口の中へ詰め込んだ。

 半泣きでゲテモノ料理をかみ砕いている教授の姿を、生徒たちは総じて白い目で見つめていた。道ばたでゴキブリを見かけたかのような、恐怖と怒気をはらんだ目色だった。


 帰宅した野井間教授は鞄を壁にたたきつけた。

「ダメだダメだダメだ! またしても失敗だっ!」

 なぜだ? なぜ思い通りにいかん? 

 野井間は床に転がっている鞄を拾い上げ、自問した。

 そもそも先の作戦は須藤がゲテモノ料理におののき、生徒たちからの敬意を根こそぎ奪い取ってやることが目的だった。それがどうして失敗したのか? その答えは単純だ。須藤がああいった食材に対して耐性を持っている、いや、むしろ好んですらいたことだ。

 つまりはわたしの調査不足だった、ということか。

「……」野井間は下唇を噛んだ。

 もっと確実な、須藤に直接ダメージを与えられる手段でなくてはならない。

 鞄を書斎の机に置く。乱雑に散らかった机上に一枚の紙を見つけ、彼は視線を落とした。

 その紙は大学の総務課に提出する予定の発注書だった。研究や実験に必要な機器類、試薬等を書き込み、手に入れて貰うための紙切れ。研究室には数十人の生徒が属しており、一人一人が行う研究も異なるため、仕入れねばならない試薬も膨大な量になる。おそらく毎度毎度、数十万から百万円以上の予算が使われているはずだ。

 ずらりと並んだ試薬の名称を眺めていた野井間の脳裏に、とある閃きが舞い降りた。彼は用紙を放り出すとパソコンを起動させ、検索エンジンを用いてある物体について調べた。

「……ほう、なるほどな。やはり試薬で存在しているのか」野井間はニヤリと邪悪な笑みをこぼす。「よし、これでいくか」

 野井間は発注書に数種類の試薬を追加記入していった。

 数日後、研究室に届けられた品々を検品するふりをし、野井間は段ボール箱の中から三本の小瓶を抜き取り、そっと自分の机の奥底にしまい込んだ。その後暇を見つけ、実験室からエタノールも拝借し、小瓶と共に密かに持ち帰った。

「ふ……ふふふ……。ついにこのときが来たか!」

 小瓶を几帳面に列べ、ラベルをじっと見つめながらゴム手袋を着用する。

「ま、まずは味見をしないとな……」

 一本の小瓶をつまみ上げ、封を剥がす。プラスチックのキャップは少し力を入れただけで容易に緩んでしまった。その瞬間、野井間の鼻腔にとてつもない異臭が襲いかかってきた。

「うぉお ま、まだふたも開けていないというのに、この威力…… 素晴らしいな、このエタンチオールは。しかし、どうも決定打に欠ける」

 完全に開封してしまうのをとりあえず止め、別の小瓶の味見に取りかかる。その瓶のラベルには『スカトール』と書かれていた。

「こいつは、またなんて直接的な名前なんだ……。名前だけでにおいが伝わってくるかのようだ……」

 誰に対してでもなく呟きながら、野井間は恐る恐る開封していった。だが、エタンチオールの時とは異なり、緩めただけでは臭ってこない。野井間は訝りながら完全開封し、鼻をひくつかせた。しかし、それでも臭ってこない。瓶の中をのぞき込むと、透明度の低い、白い結晶が入っていた。どうやら揮発性は高くないらしい。

 野井間は割り箸で結晶を一粒取り出すと小皿に入れ、駒込ピペットを用いてエタノールを結晶に滴下した。エタノールの伝う面から結晶は融解し、同時に得も言われぬにおいが立ち上ってきた。

「のおぅ」

 野井間の鼻粘膜がキャッチしたその香りは、底の見えないくらいに深い味わいの『糞便臭』だった。

 ついつい勢いよくのけぞってしまい、テーブルに身体がぶつかった。衝撃で小皿の中身がチャプンと音を立てる。ハルマゲドンがやってきたとでも言わんばかりの形相で、野井間教授はどうにか体勢を保持し、床に内容物をまき散らすことを防いだ。

「……くふう。こ、これは実に危険だ。危険な代物だ……」拳で額の汗をぬぐい取る。「こんなものをこぼしてしまったら、まさに自爆テロだ。……いや、これはむしろ、爆弾よりも効果があるのではないか? テロリストも飛行機の中とかで、これをブチ撒ければよいのだ。死人も出さずにその場を制圧できる、非常に平和的なテロとなるだろう」

 間違っても液体が付着しないよう気をつけながら小皿を密封容器に入れる。接合部をガムテープで目張りするという念の入れようである。そして深呼吸をしながら最後の小瓶に取りかかった。

 最後の瓶には『酪酸』とある。ふたを開けて小さく鼻腔から空気を吸い込んだ。漂ってきた香りは、くさい中にも哀愁漂うものであり、どこか懐かしさすらあった。

「……なるほどな、堆肥のようなにおいなのか。あとはインドールが手に入ればよかったのだが……」

 ブツブツとこぼしながら、野井間は辺りを窺った。

 ……しかし、これらは凄まじい臭気を発する。それぞれがそれぞれの味わいを持っているが、いずれも凶悪な糞便臭であることは確かだ。こんなものを、普通に室内で取り扱えるはずもない。ドラフトでもあればいいのだが……。

 ふと、キッチンの換気扇が野井間の目に留まる。その場所で作業したくなる欲求に駆られたが、そんなことをしてしまえば、おそらく今後一切そのキッチンでは調理できなくなってしまう。

 仕方がないので、野井間は試薬を抱えてトイレに籠もることにした。

「まあ、ここなら糞便臭が充満しても問題あるまい」

 十ミリリットルのディスポーザブルシリンジを袋から取り出し、ピストンを抜き取る。そこへ割り箸でつまんだ『スカトール』の結晶を数個入れた。さらに『エタンチオール』、『酪酸』を駒込ピペットで適量、入れていく。ドロリとした、若干白濁している液体ができあがった。すでにトイレ内は凄まじいにおいで満たされている。野井間は意識的に鼻では息をしないでいた。

「……」

 鼻腔に空気を通してしまえば、おそらくわたしは悶死してしまう。調合よりも、鼻から呼吸をしないこと、それがこの実験では最も重要なポイントとなるだろう。

 シリンジ内にエタノールを満たし、ピストンを挿入する。余剰な空気と共によく混和し、最後にシリンジ先端を上に向けて空気を慎重に押し出した――なるべく換気扇に近い場所で。こうして野井間教授お手製、自作糞便臭水溶液兵器がここに完成した。

 もしかすると、わたしの鼻はすでに麻痺してしまっているかもしれない。

 そう考えた野井間教授はどうしてもその効力を試してみたくなり、シリンジから間違っても溶液が漏れてしまわぬように密栓した後、ポケットに忍ばせて自宅を出た。

 大学構内は夜も更けたというのに明かりが灯っていた。夜を通しての実験は届け出ない限り禁止されているが、生徒たちはそんなことお構いなしだ。そしてそんな生徒たちに付き添っている、物好きな講師もちらほら見られる。活気はないが、確実に人の気配が存在している、夜の大学は不思議な空間だった。

 野井間は職員室間近の職員トイレに入った。明かりは灯っているが誰もいない。大便器のほうにも何人もいないことを確かめた後、彼はポケットから兵器を取り出し、内容物の半量ほどを洗面台に流した。途端に立ち上る臭気に目眩を覚えたが、夢を成し遂げるため、野井間は腹に力を入れてどうにか耐えた。

 やがて一人の老教授がトイレに入ってきた。小便器の前で用を足している様子の野井間に気付くと会釈をしたが、すぐさま柔和な顔が強張った。

「……な、なにやらもの凄いにおいがしますな」一つ開けた便器の前に立ち、老教授が口をつく。

「ええ、本当ですな。どうやら掃除をさぼっているようだ。総務の人間に伝えておきましょう。では、お先に」

 野井間は手も洗わずに職員トイレをあとにした。

 これは……、本当に兵器だ!!

 野井間教授は興奮のあまり足早になっていた。ぐふふ、と不気味に笑いながら自宅のあるマンションに到達し、廊下を歩いた。そして、自室の一つ手前で突如として脚を止めた。

 須藤くん……、どうか苦しみ悶えてくれよ!!

 眼前の扉に対して、フン、と鼻を鳴らした。


 野井間教授は半年ほど前の記憶を甦らせていた。

 昨年度、研究室に所属していた老年の講師が定年退職することになり、その後任が選出されることになった。そこへやってきたのが、かつて野井間の教え子であった須藤講師。辞令が出されると、彼はすぐさま研究室へと戻ってきた。

『野井間先生、お久しぶりです』

 須藤は相変わらずの快活な笑顔で挨拶してきた。

 野井間は漠然とした不安を感じずにはいられなかった。かつて、唯一野井間に楯突いた男、須藤。彼が研究室へと舞い戻ってくる。だが、それは一生徒としてではなく、講師という立場で、である。その事実は非常にやっかいだ。

 彼の力がより強固になる――すなわち野井間の権力が薄れることを意味している。

 野井間の独裁だった利用生物学研究室に独立運動が勃発する恐れがあった。

 さらに、野井間教授の苦悩は大学構内だけでは留まらなかった。

『ちょうど先生のお宅の隣が空いていたんです。なのでぼくはそこを借りることに決めました』前途洋々な若者はエネルギッシュに言い放った。

 公私ともに、彼につきまとわれる。野井間は目眩を覚えた。

 それほど人付き合いの良いほうではないので、自宅に知人を招いたり、また招かれたりもしない。しかし、かつての教え子が講師として自分の研究室に赴任してきて、なおかつ隣室に居を構えたとあっては、顔を出さぬ訳にもいかない。野井間は引っ越した須藤講師の部屋にいき、軽く杯を交わした。

 野井間は須藤のことを鼻につくヤツだと思っていたが、誠実さもよく理解していた。まじめすぎるとすら思っていた。彼の居室はまさにそんな彼の性格をよく表しているようだった。野井間宅側に面した一室は簡素なベッドルームとなっており、そこには彼の唯一の趣味である鉱石採集にて集められた様々な石を飾った棚があるだけだった。それが須藤宅の数少ない飾り物であり、リビングには必要な家具しか置かれていない。本人が言うように料理はそれほどしないのだろう、キッチンには小さな冷蔵庫――貧乏学生時代から使っているらしい――と電子レンジくらいの器具だけ。あとの一室は書庫となっている。学問だけに身を賭してきた、とでもいわんばかりの住居だ。

『……ぼくは先生に憧れていたんです。仕事をご一緒させていただくことができて、本当に幸せです』アルコールに頬を赤くした須藤はそう言った。

 ……何を馬鹿な。

 当時はその程度にしか考えなかった。

 そして、それから半年経った現在。

 野井間教授の憂慮は現実となった。研究室の生徒たちの心は総じて須藤講師に引き寄せられ、野井間はより強く孤立してしまった。

 野井間教授はギリリと奥歯を噛み合わせた。

 自分が生徒たちから好かれるとは思っていない。それは今も昔も変わらない。今の生徒たちも、十年前の生徒たちも、須藤くんもわたしのことは嫌っていたはずだ。

 だが、須藤くんはわたしに憧れていた、と言った。わたしのことが嫌いなはずであるのに、『憧れる』とはどういうことか? 簡単なことだ。わたしに対して言い放ったその言葉は、単なる皮肉でしかなかったということだ。

 今思えば、『一緒に仕事ができて幸せ』という須藤くんの言葉も、『先生と一緒に仕事をし、落ちぶれていく姿を間近で見ることができて嬉しい』という意味合いにとることができる。

 そうだ、須藤くんはわたしが苦しむ様を見たいのだ。大学での、研究室でのわたしの地位をゆっくりと剥奪していく、その行程を楽しんでいるのだ!!

 ……冗談ではない! たかだか三十手前の若造に、これまでにコツコツと築き上げてきたわたしの地位を脅かされてたまるか! ……そうだ、だからわたしは決意したんだ。須藤くんの未来を奪うと、悪魔に誓ったのだ。どんなことをしてでも、今度の学会での発表を阻止しなくてはならないのだ!

 これから行おうとしている行動は、もはや言い逃れできぬ犯罪である。だからこそ、半端な覚悟では実行できない。どうだ? わたしに覚悟はあるのか?

 野井間教授は自分自身に問いかける。

 ――ふん、わたしは生まれたときから科学の悪魔に魂を捧げた身だ。科学の世界において最も重要なのは、自らの知的探求心に他ならない。その欲望をかなえるためには『地位』が要る。だからわたしは手に入れたのだ、大学教授という地位と名誉を! わたしにとってそれらは死守すべき自らの一部。……覚悟? そんなもの必要ないのだ。自らが危険にさらされたときは己を守るのが正常な行為。わたしはわたしを守るのみ――。

 決意新たに、野井間教授は服装を整えると玄関へと向かった。脚を忍ばせ、ドアの魚眼レンズからそっと廊下を覗いた――誰もいない。

 ドアを開けて首だけを廊下に出し、左右を確認する。須藤も、その他住人の姿も見られない。野井間は忍びのごとくすり足で廊下に出た。数歩進んで動きを止めた彼はポケットから手を抜き出す。拳の中にはディスポーザブルシリンジが握られていた。

「……」

 ゴクリとのどを鳴らし、野井間は郵便受けをそっと開けた。もう一度左右を確認してやはり誰もいないと判断したのか、彼はシリンジを郵便受けに差し込み、一気にピストンを押下した。軽い手応えと共に液体が放出されていくのが解る。やがて耐え難い糞便臭が立ち上ってきた。

 これで須藤くんは、この部屋でまともに生活できまい……。どうか成仏してくれ、須藤くん

 郵便受けからシリンジを抜いたそのとき、一つ奥のドアがガチャリと音を立てた。野井間はビクリと身体を硬直させた。ドアが開かれ、ナイトキャップを身につけた主婦があくび混じりに出てきた。手にはパンパンにふくれあがったゴミ袋を持っている。

「あら、野井間さん。おはようございます」

「や、やあ、山田さんの奥さん。おはよう」

「ところで聞きました、野井間さん?」山田の奥さんはゴミ袋を床に投げ出し、しゃべり始めた。「最近、この辺りにホームレスが現れるらしくって――」

 野井間は焦った。この山田という主婦は、マンションで一番のおしゃべりおばさんとして有名だった。捕まってしまっては数十分、逃がしてはくれない。主婦の必殺マシンガントークで相手を責め立てる、そうすることによって自らのストレスを過分に発散させているのだ。相手はそれらのストレスを数割増しで受け取ることになるのだが。

「――ゴミが漁られたり、空き巣に入ったり……。そうそう、その男、元空き巣常習犯らしいのよォ! それでね、空き家を見つけるとピッキングでドアを開けて入り込んで勝手に住んじゃうっていうんだから呆れたもんじゃないの! …………ところで、なにか臭わない?」

 音が聞こえてしまうのではないかというくらいに心臓が高鳴った。

「そそそ、そうかね? ゴホン! どうもわたし、風邪をひいてしまっているようで、鼻が詰まっておって解らんのだ」

「う~ん、どこかのお宅、トイレでも詰まっちゃったのかしら……」鼻をつまみながら山田は首を傾げる。

「む、む。それはやっかいだな。住人に被害が出ては敵わんから、管理人を通じて早く修理するようにと呼びかけておこう。では、講義の時間なので、失礼する」

 早口で捲し立て、野井間は山田婦人の元から離れた。


 さて、今晩須藤くんは帰宅すると、その異臭に酷く驚愕するはずだ。これでほぼ確実に彼の思考を半減させることが可能だろう。論文発表の準備を大幅に遅らせることは間違いないが、仮に彼がもしもすでに準備を万端にしてしまっていたらどうだろう? 学会開催まで、あと十日ほどしかない。いや、これはすでに完成させていると考えたほうがよいだろう。

 研究室にて生徒に対して楽しげに指導している須藤講師の姿を、書棚の隙間からひっそりとのぞき見ながら野井間教授は思考を巡らせる。

 これはやはり……、彼を行動不能にしておく必要があるな。

 野井間は教授室に戻り、受話器を取った。

「……ああ、○○電気? すまんが今日の夕刻、電子レンジを四つほど届けてほしいのだ。うん、同じ製品。……いや、安いもので構わん。百ボルト、五十ヘルツの製品だ。……ああ、千ワットも出れば出力は充分である。住所は……」

 注文を終えた野井間はそっと受話器を置いた。

 たとえば何者かを殺してしまいたい、傷つけてやりたいとした場合、果たしていかに行動すべきなのだろうか、野井間教授はこの数日間、須藤への「嫌がらせ」を繰り返しながら考えていた。

 傷つけてしまえば傷害罪、殺してしまえば殺人罪になる。これは当然のことである。しかしながら、それらは犯行が露見した場合にのみ適応されるはずである。残念なことにこの国の法律は犯罪する側に寛容だ。仮に何らかの犯罪を犯したとて、物的証拠が存在しなければ罰することができない。

 見つかれば捕まるが、見つからなければ捕まらない。当然のことなのであるが、これは犯罪に手を染める者誰しもが今一度確認する事実なのだろう。

 野井間教授も糞便臭水溶液を他人宅の玄関先にブチ撒けた時点、いや、細菌コロニー入り但馬牛を渡した時点ですでに自分が犯罪者となってしまったことを自覚していたのだろう、彼も世界中の犯罪者と同じように、その事実を何度も再確認していた。

 物的証拠を残さずして殺傷を実行する――そのようなことが可能なのだろうか。

 証拠を残さず、完璧なアリバイを作り上げる必要がある……。

 野井間の導き出した答えは、『自宅から須藤宅に攻撃をしかけ殺傷する』というものだった。

 仕事を終えた野井間教授はホームセンターでいくつかの買い物をし、家に帰った。するとすでに○○電気の店員が玄関先で待っており、迷惑そうに野井間宅のインターフォンを何度も鳴らしているところだった。

「おお、すまんな。わたしが野井間だ」

「ああ……、ご在宅じゃなかったんですか」

「それでは室内に搬入してくれたまえ」

「……」憮然とした顔で店員は段ボール箱を二つ抱えた。「あの……、ここの廊下、なんか臭くないっすか?」

「ああ、隣の家だな。今朝方から妙な臭いを漏らしている。……そこいらに置いておいてくれ」

「……ここも臭いな」

「きっと隣室から下水管を通して上がってきておるのだろう。まったく、迷惑な話だ」

 店員は納得がいかないという顔をしながら残りの段ボールを搬入し、領収書を野井間に手渡した。野井間は店員に四万円を支払い、「つりはいらん。とっておきたまえ」と加えた。総額三万九千八百円なので、野井間が太っ腹な男なのかどうか、店員に判断はつかなかった。

 店員を追い出して玄関ドアを施錠すると、野井間はリビングで段ボール箱を開封した。真っ白な、タイマー式の安価な電子レンジが収まっている。

「さて、始めるとしようか……」

 タイマーなどがついているほうの側面を上に向ける。白く塗装された金属板がいくつかのねじで留められていた。ドライバーで金属板を外し取ると、金属製の箱やプラスチック製の部品、赤や緑や黒のケーブル類、冷却ファンなどが整然と収まっていた。

「物理は専門外だが……わたしとてこのくらいの工作……」

 ぶつぶつと呟きながらそれらのパーツを解体していく。時折パソコンを眺め、それぞれがなんというパーツでどのような働きをするのかも確認していった。

「ほう、コイツがマグネトロン真空管か。なるほど、興味深い」

 バラしたパーツを丁寧に床に列べ、野井間は次の工程に着手した。

 ホームセンターで購入したポリエチレン製のまな板をドリルで加工し、その上に『高圧危険』と書かれた電子レンジパーツを列べ、ボルトで固定した。それらのパーツをパソコン画面上に映し出されている配線図通りに結線、ハンダ付けしていく。そうしてできた奇妙なまな板を、これもホームセンターで購入したプラスチック容器に落とし込んだ。

「いやはや、なんとも手作り感溢れる……」

 まな板に取り付けた金属パーツから伸びる電線を容器の外に引っ張り出した野井間は、玄関からペール缶を引きずり込み、頑張って持ち上げる。歯を食いしばり、須藤講師の泣きっ面を想像しながら二十リットルの液体をプラスチック容器内に流し込んでいった。

「ぐおおお……!」

 黒く濁ったその液体はモーターオイルだった。粘度の高い、安物の鉱物油だ。床にこぼしてしまうと掃除が非常にやっかいになってしまうため、野井間は慎重に慎重を期して作業を行った。

 すべてのオイルを入れ終えると、容器を左右にしばらく揺すり続ける。パーツから出てくる気泡が見られなくなるまで、野井間はユサユサと揺すった。

 しばらくオイルを馴染ませている間、野井間はこの手作り装置を納める鉄筋製アングル台の組み立てを行った。プラスチック容器にオイルを入れる前にアングルを組み立てておけば良かった、などと思ったが今更どうしようもないことだった。

 できあがったアングル台に、必死の形相で容器を搭載した。そこへ大学の粗大ゴミ置き場から拾ってきた可変単巻変圧器を乗せ、プラスチック容器から飛び出た電線を配線する。もう一つの飛び出た電線は碍子を介してアングルに固定した。最後に可変単巻変圧器の端子にコンセントプラグのついたケーブルを取り付け、作業は完了した。野井間はため息を吐きながら手の甲で額をぬぐった。

「ふう。ようし、できたぞ! 野井間お手製高出力トランス……その名も『ノイマンズ・トランス』がっ!! ……しかし、情報通りに造ったが、これで本当に動作するのか?」

 不安になった彼は、ドキドキしながらプラグをコンセントに差し込んだ。パソコン画面を見ながらお手製トランスのテストを試してみる。

 変圧器の電圧を徐々に上げていく。トランスには特に変化は見られなかった。

「えっと、ここで電圧をゼロにして、テスターで測る、と……。むう、どうやら正常値内のようだな。ふふ……『ノイマンズ・トランス』、きちんとできているではないか」

 野井間は再び変圧器の電圧を上げていった。恐る恐る、しかし確実にトランス内の電圧は高まっていく。

 そしてある一定ラインを超えたとき、碍子に取り付けられた二次側端子の間で空気の絶縁破壊が発生し、猛獣のうなり声のような振動音とともに強烈な放電が発生した。

「うわあ」

 二つの端子から数十センチ上空にゆらゆらと炎とは異なる火柱が立ち上った。アーク放電だ。凄まじい熱気が放たれ、プラズマにより発生した硝酸の、糞便臭とはまた異なった異臭が感じられた。恐怖におののいた野井間は急いで変圧器を操作し、電圧を落としていった。

「はあ……はあ……。な、なんと凶悪な……」真っ青な野井間の顔は、次第に赤く興奮していった。「ふ……ふふふ……ふははは! しかしこれで間違いなく須藤くんを亡き者にできてしまうわ! ふははは!」

 ドキドキ高鳴る心臓を押さえつけながら、野井間教授はしばらく高笑いを続けた。


 高電圧電源となる『ノイマンズ・トランス』は完成した。あとはこの『ノイマンズ・トランス』を用いて壁の向こうにいる須藤講師を攻撃する兵器そのものの作成が必要だ。

 野井間教授はトランス作成に使った単線二芯電線の残りを分解し、絶縁被覆素材を剥ぎ取り電線部を露出させた。十五センチほどの空芯の鉄製配管を手に取ると、むき出しの電線を丁寧に巻き始めた。

「さて……、数千ボルトの電圧で作動させる電磁石の力はいかなるものか……」

 不気味に笑いながら鼻息を荒くさせ、配管にコイルを巻いていく野井間。力任せに、それでも几帳面に巻き上げた。

 そうしてできあがったコイルを、『ノイマンズ・トランス』を搭載させているアングル台に固定した。トランス二次側端子の距離を少し離し、端子部とコイルを圧着端子により接続する。一方の電線には片切スイッチも取り付けておいた。電気は専門外である野井間教授は、さすがに端子が露出したままでは危なっかしいと踏んだのだろうか、露出部分にビニルテープを数十回巻き付けた。見た目は大層不格好になってしまったが、自身の安全は確保しなければならない。

「よし……、『ノイマンズ・マグネット』の完成だ……!」

 かつて須藤の部屋に招かれた際、野井間は須藤のベッドルームに設置された棚を紹介されたことを思い出していた。その棚には、須藤の趣味である『鉱石採集』によって集められた、各国の石が並べられていた。野井間にとってそれらは単なる石ころにしか見えないのであるが、須藤によると非常に珍しいものも含まれているらしかった。

 当然、鉱石には金属を含むものも多く存在する。それらは電磁石が発生させる磁界に吸い寄せられることになる。

 鉱石棚と野井間宅のちょうど中間になる形で、須藤のベッドは置かれていた。野井間宅内から磁界を発生させると、鉱石棚にある金属含有鉱石は磁力により野井間宅側に引き寄せられ、中間地点にいる須藤の身体に勢いよく襲いかかる。今回、野井間が行う実験はそういうものであった。

 完成した『ノイマンズ・マグネット』を須藤宅側の壁際に持って行った野井間は、そっと自宅を抜け出すと廊下の気配を探り、何人にも目撃されていないことを確認した。そして須藤宅の郵便受けを静かに開け、立ち上る糞便臭に鼻をつまみながら耳を澄ませた。

「……」

 かすかにではあるが、内部から何者かの息づかいが聞こえくる。

 ――居る。須藤くんはここに居る!

 野井間教授は笑みをこぼさずにはいられなかった。

 これまでは『確認』が足らなさすぎた。

 どのような実験においても、予備知識、対象物の事前調査は不可欠な事柄だ。素人が下手に科学の分野に手を出してしまうと大火傷どころか命を落としかねない。科学とは命がけの学問であるのだ。

 細菌兵器にしてもゲテモノ食にしても、もっとよく考えて、よく調べてから行うべきだった。先の実験の失敗原因はあからさまにわたしの傲慢が第一だ。

 だが、今回は違う。

 手段はおそらく完璧だ。そして対象は壁一枚向こうに、確かに存在している。仕掛けもバッチリ。ここにもはや、失敗の余地は残されていないだろう。

 野井間教授はそっと玄関ドアを閉めた。つかつかとリビングに行き、無言で『ノイマンズ・マグネット』の電源ケーブルをコンセントに差し込んだ。そこでハタと気付いた。

「あっ ……そうだ、アリバイ工作をせねば!」

 野井間は固定電話の子機を持ってきて、番号をプッシュした。やがて若い男の声が受話器から聞こえてきた。

「ああ、吉隆よしたかか。父さんだ」

『何だよ、親父。携帯じゃなく、家デンからかけてくるなんて。何の用だ?』

 息子の訝る声を聞きながら、野井間はトランスの電圧を徐々に上げていく。変圧器からブオンと不気味な音が発せられた。

「いや、これといって用事はないんだがな。元気にやっているかと思って」

 受話器の向こう側から『気持ちワリイよ』という失礼な声が返ってくる。だが、不躾な自分の息子に対して今は怒っている余裕はない。ブオンブオンという重低音がさらに大きく響いているのだ。いったい、百ボルトの電圧がどのくらいにまで高められているというのだろうか、もはや想像もできない。

 グチグチと不満を漏らす息子に適当に相づちを返しながら、野井間はコイルから延びる電線に付けたスイッチを手に取り、ゴクリとツバを飲み込んだ。

 ――このスイッチを入れると、須藤くんを……! 

 野井間教授はカッと目を見開いた。そして――。

「きえええええ!!」奇声と共にスイッチを操作した。

 バチン、と回路が閉じる音がした。同時に息子の驚愕も聞こえてくる。

『な なんだ? 親父、どうした?』

「い、いや……、ゴキブリが――」

 ヒュンと音を立て、何かが野井間の顔の真横を突き抜けた。強烈な金属音と共にコイルにくっついたそれは、直径一センチほどの六角ナットであった。驚いた野井間は受話器を床に放り出し、身をかがめた。

 床に転がる部品の残骸や金属パーツもコイルに吸い寄せられるように這っている。受話器から聞こえる息子の声にもノイズが混じっている。パソコンはおそらく、もはや使い物にはならなくなっているだろう。

 五センチほどのボルトが勢いよく飛来し、野井間の後頭部に直撃した。凄まじい痛みを感じたが、ひるんではいられない。

 すべては、須藤を痛めつけるため……!! これくらいの痛みがなんだというのだっ!!

 野井間はさらに電圧を上げていった。室内の金属類がまるで野井間をめがけて飛んできたかのように、コイルに集まった。ボルトや電線のクズ鉄、金属片などにより、コイルはすでにその姿を覆い隠されてしまっていた。野井間は身体に飛んでくる金属類に必死に耐え抜いた。

 コイルを向ける壁の向こう側から、がつんがつん、と何かが当たる音が聞こえた。そして、「ぎゃっ」という男の声が聞こえた。小さく、くぐもっている声であったが、壁の向こう側から、確実に野井間の耳に飛び込んできた。

「……!!」

 野井間は急いでスイッチを切り、変圧器の電圧を下げていった。コイルから金属片がバラバラと落ちていく。床の受話器から息子の大きな声がした。急いで拾い上げ、耳に当てた。

『オイ! 親父! 大丈夫かっ』

「いや、すまん。大きなゴキブリが群れを成して襲ってきおってな。ちょっと立て込んでいるから、またかけ直す」

 一方的に通話を切り、野井間は耳を澄ました。

 ――う、うう……。

 壁の中から、男のうなり声が聞こえた。

 野井間は歓喜のあまり、身体が震えてくるのを感じた。

 ……やった、やってやったぞ! 声からして、相当なダメージを負ったはずだ! これでしばらくは活動できないだろう。ましてや学会発表など、できるはずもない!!

 ……まてよ?

 その時、狂った教授の脳裏にさらなる欲望がわき上がってきた。

 今の状況は、須藤くんの身体にある程度のダメージを与えた、それだけだ。これではいずれ、傷が癒えると彼はまたわたしの元へと戻ってくることになってしまう。戻ってこられたら、彼のことだ、すぐに生徒たちをだまくらかし、忠信を得て研究室に強大な権力を形成することになるだろう。……それでは、何の意味もないのではないか。

 いっそのこと、彼を再起不能にしてしまったほうがいいのではないか。

 この場で潔く、とどめをさしてやったほうがいいのではないだろうか。

 野井間教授は床に視線を落とす。電子レンジから摘出した金属の筒が四つ、目に留まる。

「……マグネトロン」

 もはや、躊躇はない。わたしは、わたしの地位を死守せねばならんのだ。

 野井間教授は決断した。

 キッチンからミルクパンを持ってくると、鍋の隅にドリルで穴を開けた。マグネトロン体から伸びる電線を並列に接続し、さらに二本の電源線を延長させた。鍋の穴から電源線を引っ張り出すと、鍋の中に四つのマグネトロン体が収まった。

「マグネトロンから放出されるマイクロ波は直進するが、金属には反射する。金属製の鍋の中では、放射されたマイクロ波は鍋中を反射し、開口部から一挙に放出される」

 うわごとのように呟きながら、野井間は四連マグネトロン体電源線とトランスのケーブルを接続した。

「放射されたマイクロ波は、水分子を誘電加熱させる。人体の約七割は水……。マイクロ波を直射されたならば、真皮以下の組織、それらの細胞レベルで発熱が起こる。膨張による組織の破壊、並びに発熱によるタンパク質変性も引き起こされる」

 マグネトロン搭載鍋をガムテープを用いて壁に貼り付けた。高さを調節し、壁一枚向こうに眠っているであろう須藤の身体の真横になるよう気をつける。

 トランスの電源ケーブルを再び入れ直す。スイッチなしで直結させたマグネトロン搭載鍋に高電圧をかけるべく、野井間教授はゆっくりと変圧器のハンドルを回していった。

 一定の電圧まで高めると、やはり変圧器がブオンを不気味な声を上げた。しかしもう野井間に恐れはない。

「須藤くん……、いろいろあったが、楽しかったよ」

 変圧器の電圧をさらに上げていく。壁のマグネトロン搭載鍋からも、妙な音が聞こえてきた。確実にマイクロ波が放出、凝集されて壁の向こうへと発せられている。

「うごごごががぐぼ」

 壁の向こうから奇妙な音が聞こえてきた。無機物が発する音ではない。生物、それもヒトの雄が発する、奇妙なうめき声。

「げばぼろぐる」

 ゴボゴボと、何か液体から気泡がはじけ飛ぶような音に変わった。もしかしたら、吐瀉物か吐血が口腔内に溜まり、地獄温泉のように赤茶けた気泡を異音とともに吐き出しているのかもしれない。

 野井間教授はぐにゃりと口の端を歪めた。

「さらばだ……!」

 一気にハンドルを回し、電圧を上げた。

 バチンと大きな音がして、野井間宅の主幹ブレーカーが落ちた。

 壁の向こうから聞こえていた奇妙な声も止んだ。

 暗闇の中、野井間教授はようやく訪れた勝利に心から酔いしれていた。


 静かな興奮を感じていたため、その昂ぶりを鎮めようと野井間教授は不慣れなアルコールを少しばかり摂取した。ブランデーの甘ったるい苦みを噛みしめながら、隣宅で事切れている元教え子の姿を想像する。その死に顔は苦しみ悶えた顔ではなく、どういうわけかさわやかな笑顔だった。野井間本人も、須藤講師の知っている顔といえばあの気持ちの悪くなるくらいのさわやかな笑顔ばかり。それも仕方のないことか、と野井間は小さく笑った。

「ともかく、もう会うこともあるまい。これでわたしの地位は安泰だ……」

 湯飲みに入れたブランデーを一気にのどに流し込んだ。焼け付くようなアルコールにむせ、野井間は咳き込んだ。

 夜が明けて、身支度を調えた野井間は未だ昂揚した気分のまま大学へと出勤した。

 廊下を闊歩していると、すれ違う生徒たちは皆一様に野井間教授の顔をまじまじと眺めていた。はて? と心の中で思案するも、原因はわからない。普段ならば生徒たちは顔を背けていくはずなのに。

 これはもしかしたら、須藤くんに寄せられていた好意が、すでにわたしのほうへとやってきているのか?

 そんなことを考えながら、小用のためトイレに入った。用を足し終えたあとで洗面台の鏡を見て、ようやく生徒たちの行動が何を意味するのか理解した。

 野井間は笑っていた。

 ニヤニヤとしたいびつな笑顔を浮かべていた。

 いかんいかん、と表情を正そうとするが、一時は戻ってもどうしても笑ってしまう。

 ……まあ、これも仕方のないことか。なぜならば、もはやわたしには憂うべき事柄がなくなったからである。これを笑わずにいられようか? 否、不可能だ。

 研究室の戸に手をかける。引き戸の奥には、すでにやってきている勤勉なる若人たちが待っているはずだ。やはり、素直な生徒は好ましい。

「諸君、おはよう!!」

 思い切り戸を開け放つと、研究室にいた生徒たちは一斉にぎくりと振り返った。これまでと異なるハイテンションの野井間教授を見て、宇宙人に突如として遭遇したかのような顔を浮かべている。

「うむ。皆、頑張っているようだな。いいぞ、君たちは科学者として有望だ」

 言いながらネームプレートが並んだ表示板に近づいた。赤文字で『野井間教授』と書かれた札を取り外し、裏返して黒字の『野井間教授』にした。生徒や教師はこの札を見て、だれが研究室に出てきているかを知ることができる。自らの札を裏返すことは毎朝の挨拶と同等の扱いとされていた。

 ふと、野井間教授は表示板に違和感を覚えた。

 出てきている生徒数が未だ半分しかいないことも気にかかるが、そのようなことはいつものことだ。欠席、遅刻する場合は早めに届け出るように、と言っているのに、彼らはそうしない。大学生という存在をなんだと思っているのだ、と思ってしまうが、とりあえずそういうことではないのだ。

 何かがおかしい。

 野井間教授はよくよく観察していった。やがて、彼の顔から笑顔が薄れていき、そして消え失せてしまった。

「ば……馬鹿な」

 野井間の視線の先には、『須藤講師』と書かれた名札がある。野井間の予想ならば、それは当然ながら赤色でないといけない。だが、そこに掲げられた札は黒字の『須藤講師』だ。野井間は目をこする――しかし見間違いではなかった。

 ど、どういうことだ? だれか他の生徒が間違って裏返したとでもいうのか?

 そう考えたが、それはあり得ないことだとすぐにわかった。野井間教授を初めとする講師陣のプレートは生徒たちのものとは少し離れて取り付けてある。教師陣、ドクターコースの生徒、マスターコースの生徒、大学四年生、という順番だ。ドクターやマスターの連中が悪戯などするとは思えないし、四年生に至っては悪戯する度胸のある生徒など誰一人として思い浮かばない。

 ……だとすれば、本当に須藤くんが出勤しているということなのか。

 あり得ない。昨日の『ノイマンズ・マグネット』による負傷は、それほど軽いものだとは思えない。須藤くんの寝室の鉱物棚に収められた石はどれも拳の半分ほどの大きさがあった。それらが彼に向けて飛来し、そして衝突したことは明らかだ。わたしは確かに男の叫び声を聞いたのだ。身体のどの部分であるのかはわからないが、当たったことは明らかだ。

 それに、その後の『ノイマンズ・マグネトロン』もちゃんと動作し、壁の向こうに作用していたはずだ。何者かの水気を帯びたうめき声がしたではないか! あれを成功と言わずに、いったいなんだと言うのだ。

 そうだ、わたしの実験は成功したのだ。だからこれは、この結果は現実ではないのだ。あり得ないのだ! 断じてあり得ないのだ!!

 野井間教授は駆けだした。

 行き先は、研究室と教授室との間にある、須藤講師の部屋。

 ノックもせずに扉を開け放つと――。

「あ、野井間先生。おはようございます」

 部屋の突き当たりにあるデスクに腰掛け、書類に目を通していた須藤講師が顔を上げた。表情はいつものごとく、野井間もよく知っているあのふてぶてしいまでにさわやかな笑顔。

「あひいいいいい!」

 野井間教授は悲鳴を上げた。驚いた須藤は射出されたロケットのように野井間に駆け寄った。

「せ、先生 どうなさったんです?」

 近寄ってくる須藤に、尻餅をついて後ずさる野井間。騒ぎを聞きつけた生徒たちも研究室から顔を出してくる。

 須藤の部屋から身体半分ほど飛び出させた野井間は、目の前にいる須藤講師が幽霊ではなく、肉体を持ったヒトであるということがどうしても認識できない。

「馬鹿な、馬鹿な! な、なぜ君は、ここに居る……!?」

「え? だって、ここはぼくの部屋ですし……」

 須藤はきょとんと野井間を見つめる。

「そ、そうか……! 君は初めの、細菌兵器の時にすでに死んでいた……。ここに居るのは、わたしに消え難い怨みを抱いた須藤くんの幽霊なのだな……! わ、悪かった!」

「ちょ、ちょっと先生」

「そうでないと、あんなゲテモノを好きこのんで喰ったり糞便臭にいともたやすく耐えてみたり『ノイマンズ・マグネット』にも『ノイマンズ・マグネトロン』を喰らったにもかかわらずこのようにぴんぴんしていられるはずがないいいいい!!」

「ノイマンズ……? なんですか、それ」

 野井間教授は明らかに精神異常をきたしていた。須藤はそれがなぜ起きたのか、さっぱりわからないが、とりあえず野井間は自分を幽霊かなにかだと勘違いしているということは理解できた。

 自分が大尊敬している、偉大なる教授が、どういうわけか自分のことで精神を病んでしまっている。これは……、救って差し上げねば!

 須藤講師は野井間の手をとった。瞬間、野井間の身体がビクンと硬直した。

「ほら、先生。ぼくに触れることができるでしょう? ぼくは幽霊なんかじゃないですよ」

 須藤講師はきわめて穏やかに放った。次第に、どこを見ていたのか定かではなかった野井間の瞳も焦点が合わさってくる。

「……幽霊、ではないのか?」

「そんなわけないじゃないですか」須藤はふう、と笑顔でため息を吐く。「どうしたのです、先生」

「この須藤くんは、幽霊ではない。では、あの須藤くんは……」

 野井間の瞳孔が再び色を失い始める。

「あれは、誰だというのだ……? わたしは……、わたしは誰を、殺した?」

 野井間教授は奇声を上げ、頭をかきむしった。ぼさぼさの髪の毛が音を立ててちぎれていく。爪が食い込んで肉が破け、血が溢れ出す。細かな血しぶきが床に飛び散り、生徒たちの中には嗚咽を漏らす者も出始めた。

 須藤講師は慌てふためくことしかできなかった。野井間の身体を押さえつけようとするが、初老に差し掛かったとは思えない力であがく野井間は若い須藤ですら止められなかった。

 ――応援を呼んだほうがいいか。それとも医務室に連絡したほうがいいか。

 須藤がそう思った瞬間、野井間は突然動きを止めた。驚愕して見つめる須藤や生徒などまるで視界に入っていないかのように、何事にも関心を示していない表情だった。

「の、野井間先生……?」須藤が恐る恐る声をかける。

 野井間はスッと立ち上がった。誰の目も見ることなく、生気を失った声で発した。

「……辞める。後は君の好きなようにやりたまえ」

「は?」

 すたすたと歩き始めた野井間は、それ以上何も言うことはなかった。


 ある日の昼過ぎ、とあるマンションでは主婦たちのおきまりの日常が繰り返されていた。

「ねえ、聞きました? 斉藤さん」

「え? なんですの? 山田さん」

「ほら、先日この部屋で死体が見つかったでしょう」山田はとある一室の扉を指さした。

「ああ、あのホームレスのおじいさんの死体」

「そう、それ。実はあたしね、死体が発見されるちょっと前にここを通ったんだけど、もの凄い異臭がしたのよ」

「異臭? どんな?」

「そりゃあもう……、旦那が入った後のトイレの臭いよお!!」

「いやっ! それは酷い悪臭ねっ」斉藤は身震いした。

「あのときすでに、ホームレスが入り込んでいたのね……」

「そういえばあのホームレス、妙な死に方だったんでしょう?」

「そうそう。なんだか身体には無数のあざがあって、周りには石ころがたくさん落ちていたらしいわよ。あと、どういうわけか身体の内側が焼けただれていたんだって。宇宙人のしわざかしら。怖いわねえ」

「もしくは、狂科学者が妙な実験をやってて、その実験体だったのかも。どこかの研究室から逃げてきたのよ、あのホームレスは」斉藤は嬉々として語った。

「でも、可哀相なのは須藤さんよね……。自分が住んでいた部屋に他人が上がり込んで、なおかつ不審死なんてされてるんだから……」

「引っ越したばっかりだったんですって? 須藤さんってば」

「そうなのよ。新居に移ってはいたんだけど、忙しくて荷物はまだだったみたい。こっちの契約が切れるまでの間で、少しずつ家財を運んでいたらしいわよ」

「よかったわねえ、ホームレスと鉢合わせしなくて」

「ほんとに!」山田はからからと笑った。そしてふと気付く。「そういえば」

「どうかなさった?」

「須藤さんのお隣の野井間さん。最近見ないわねえ」

「大学の教授先生ですからねえ。お忙しいんでしょう」

「確か、須藤さんと同じ研究室でいらっしゃるとか。……もしかして、若い須藤さんをねたんだ野井間さんが、ホームレスを須藤さんと思い込んで、妙な科学実験で殺しちゃってたりして!」

「もう、山田さんってば。縁起でもないわよ。……でも、実際そうだったりして! あはははは!!」

「あはははは」

「いひひひひひ」

「げへへへへへ」

 主婦たちの他愛のない談笑は夕食時まで続けられた。



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