呪いの森の化物と死にたがりの少年
少年が足を踏み入れたのは、村の者たちが『呪われた森』と呼ぶ鬱蒼とした雑木林だった。
着の身着のまま、ナイフ一本持たずに出て来たのは、彼が死ぬつもりだったからだ。少年は決して病弱なほうではなかったが、狩りをするには足が遅く、畑を耕すにも非力すぎた。歌や踊りも特別上手いわけではなく、読み書きが得意というわけでもない。そのせいで、少年はいつも肩身が狭かった。周囲の視線が自分を蔑んでいるようで、怖かった。だから彼は死ぬことにした。
森の中では度々獣の姿を見た。のっそり動く熊の影、狼の群れの息遣い、得体の知れない生き物の甲高い鳴き声。それらを認識する度に少年は怯え、震えた。しかし、すぐに思い出す。ぼくは死にに来たのだ、怯える必要などどこにあるのか。
あてもなく森を進んでいると、やがて開けた場所に出た。美しい湖だった。空は生い茂った木々に覆われており、葉の隙間から漏れる陽光が湖面に斑模様を作っている。水は溜息が出るほど透明で、水草が踊るように揺れていた。対岸に鹿の群れが見える。身を屈めて水を飲む親のかたわらで、二匹の仔鹿が戯れている。
キィッ、という甲高い音で、少年は我に返る。鹿の警戒音である。その音を合図に、のんびりとくつろいでいた鹿の群れは一斉に茂みへと駆け出した。一瞬の出来事だった。きっと、ぼくのせいだ。少年は申し訳ない気持ちになる。
「そうだ。ここは人間が来るようなところじゃない」
しゃがれた声が頭上に響き、少年は思わず悲鳴をあげて尻餅をついた。苔の水分がパンツに染み込む。血生臭く、生温い風が顔に当たる。少年は目を開けてしまった。そして再び悲鳴をあげた。
目に入ったのは醜悪な老婆の顔だった。大きな鷲鼻にしわだらけの顔、白髪頭の老婆の生首が、少年のすぐ目の前にあった。奇妙なことに、その生首は上下が逆になっている。よく見れば、首はちゃんと繋がっていた。その老婆は少年の背後から覗き込んでいるのだ。少年の頭上にアーチをかける長い長い首の先には、薄汚れた獣の身体があった。白い毛皮に覆われた、四つ足の獣である。蛇のように長く、猫のようにしなやかな胴体を持ち、手足は熊のようにがっしりとしていて、猛禽類のような鉤爪を備えていた。少年は無意識に逃げようした。苔で滑り、立ち上がれず手足をばたつかせる。森に入った動機などすっかり忘れていた。狼狽する少年の姿を嘲るかのように、しゃがれた笑い声が森に響く。人面の化物の口は耳まで裂け、黄色い牙を覗かせていた。
少年は目を覚ます。そこは家の中だった。暖炉には火が灯り、母親が食事の準備をしている。ハーブを利かせて焼いた鹿肉のにおい、山鳥の出汁を使った野菜のスープの香りが鼻をくすぐる。食卓にはかごに入ったパンと、ワインの瓶が二、三本置いてあるのが見える。
「母さん」ベッドから身を起こし、少年は暖炉の前の母親に話しかける。母親は顔を上げたが、逆光で表情は見えない。少年は続ける。「嫌な夢を見たんだ。森で、恐ろしい化物に会う夢を」
「そうかい」
母の声に違和感を覚え、少年は首をかしげる。
「母さん、声どうしたの? 具合でも悪いの?」
答えはない。
「父さんはもう出掛けたの? まだ日が昇ってないのに」
やはり彼女は答えない。
「ねえ、母さ……」
母親に歩み寄り、その顔を覗きこんだ瞬間、少年は凍りついた。
炎に照らされた顔は母親の顔ではなかった。白髪頭のしわくちゃの顔。黒いローブを纏ったその老婆の顔は、森の中で出会った人面の化物とそっくりだった。
「あたしゃアンタの母さんじゃないよ。それに、今は朝じゃなくて夜だ」老婆はぶっきらぼうに言い放つ。「起きたんならとっとと席につきな。夕食が冷めちまう」
少年は気付く。きっと、この老婆はさっきの化物が化けているに違いない。ぼくを住処に連れ込んで、太らせてから喰うつもりなんだ。
「人間の肉を喰う趣味なんてないよ。食うに困ってるわけじゃあるまいし」
動かない少年をじとりとねめつけ、老婆は低いしゃがれ声でそう言った。はじめて会ったときもそうだったが、この化物は他人の心を読む能力があるらしい。自分の考えが見透かされていることに、少年は少なからざる恐怖を覚えた。
「アンタの名前は? どこから来た?」
少年が答えないでいると、老婆は大きな鷲鼻にしわを寄せて、苛立たしげに繰り返す。
「近頃の子どもはあいさつもできないのかい。どこの村のガキかって訊いてるんだよ」
「ふ、麓の……プファン村です」老婆の剣幕に圧され、声が裏返る。
「なにしに来た?」
「そ、それは……」
少年は口ごもる。当初は村の中での疎外感に耐えかね、命を捨てに来たはずだった。しかし、湖のほとりで化物に出会ったとき、確かに恐怖を感じた。死ぬことを望んでいたはずなのに、命の危機に瀕した途端に怖気づいてしまった。情けないと思う。なんの取り得もないぼくは、死ぬ度胸すらないんだ。
老婆は溜息を吐き、少年の首根っこを掴んでテーブルに座らせた。無言のままスープをよそい、少年の目の前に荒っぽく置く。香草焼きにした鹿肉のかたまりを豪快に切り分け、ふかして潰したジャガイモを添えて同様に置いた。少年の向かいに自分の分の食事を用意して座ると、老婆は無言のままパンをかじりはじめる。年老いた見た目に反し、その食べっぷりは豪傑のようだ。芳しい料理の香りに耐えかね、少年はスプーンを握った。
スープを一口すすると、山鳥の出汁と野菜の甘みが舌を包み込む。塩気は少なく味は薄いが、温かく、優しい味だった。二口目を口に入れたとき、不意にぼろりと涙が零れた。悲しいわけではないのに、どういうわけか少年は泣いていた。ああ情けない。見ず知らずの他人の前で、意味もわからず涙を流すなんて。三口目を口に運ぼうとして、少年は嗚咽を漏らした。止めようとしても、まるで堰を切ったかのように、涙と嗚咽は止め処なく溢れ出した。老婆はなにも言わなかった。咎めもせず、嘲りもせず、かといって慰めるわけでもなく、黙々とパンをかじっている。少年が落ち着いた頃にはスープはすっかり冷めてしまっていた。空腹だったので、少年は冷めたスープに手を伸ばしたが、ひょいと取り上げられる。
「もたもたしてるから冷めちまったじゃないか」
老婆は不機嫌も露にそう言って、冷めたスープをかき込んだ。そして空いた器に鍋の中のスープをよそい、少年の鼻先にずいっと押し付ける。
「あたしゃもう寝るからね。食べ終わったら片付けは自分でするんだよ」
一方的にそう言って、老婆は寝室のあるらしい二階へと姿を消した。湯気の立つスープを持ったまま、少年は「おや」と思った。ベッドはここにあるのに、二階にも寝室があるのかな。
「おばあちゃん!」
声を掛けるが、返事はない。もう眠ってしまったのだろうか。起こすのも悪いので、少年は大人しく座って食事の続きに取り掛かる。一人で食事をするのは始めてだった。控えめな母の声も、父親の豪快な笑い声も今はない。父さんと母さんは、今頃どうしているかな。ぼくが居なくなって心配しているだろうか。それとも、口減らしができたと喜んでいるだろうか。
「おばあちゃんは、どうしてこんな森の中で暮らしているんですか?」
朝食の最中、少年は思い切って問いかけた。老婆は相変わらず不機嫌そうに鼻を鳴らし、ぶっきらぼうに答える。
「そんなことはアンタに関係ないだろう。あとその『おばあちゃん』ってのはやめとくれ」
「す、すみません……お姉さん」
「白々しい世辞は罵倒と同じだよ、クソガキ」
「ご、ごめんなさい……」
縮こまる少年に、老婆は呆れたような溜息を吐く。
「で、アンタこそなんでこんな場所まで来たんだい。ここは『呪われた森』だ。狩人だって寄り付きやしないのに」
「あ、あの……」少年は恐る恐る口を開く。「心を読まないんですか? そうすれば、訊かなくてもわかるのに」
「は? なに言ってるんだい。あたしにそんな力はないよ」
「だって……」
「あたしの言葉がたまたまアンタの考えに合ってただけだろう。まあ、長く生きてりゃ他人の考えなんぞある程度は予想できるがね」
なるほど、そうだったのか。
少年は森に入った経緯を簡潔に語った。老婆は「そんなこったろうと思ったよ」と溜息混じりに言った。
「で、まだそんな馬鹿げたことを考えているのかい」
「馬鹿げたことって……ぼくは真剣に悩んでるんですよ。村に戻ったって、役立たずのぼくに居場所なんてない。だからといって死ぬ度胸もない。どうすればいいって言うんですか」
「『役立たず』ってのは誰に言われたんだい」
「それは……直接言われたわけじゃないけど、わかりますよ。ぼくがどんくさいから、皆がぼくを馬鹿にしてるってことくらい」
「ほお、わかるのかい。そりゃすごい。このあたしでも他人の心なんて読めないっていうのに」老婆はケタケタと笑い、賞賛するかのように手を叩く。「じゃああたしがなにを考えてるか当ててみな。正解したら昼にはおいしいマフィンを焼いてやるよ」
「……馬鹿にしてるでしょう」
苛立ちを含んだ少年の答えに、老婆はニヤニヤと笑いながら答える。
「残念。はずれだ」
「……馬鹿馬鹿しい」
「おや、急に立ち上がってどこへ行くんだ? 死にに行くのか? 帰るのか?」
「食事、おいしかったです。ごちそうさま。もう会うこともないでしょうけど」
早口にそう言って立ち去ろうとした少年の行く手を老婆の顔が遮った。少年は驚いたが、尻餅をつくまではいかない。
「まあ待て」獣の首の先についた老婆の顔が、醜悪な笑みを浮かべて呟いた。「死にたいなら手伝ってやろうじゃないか。一口に噛み砕いてやろう。そうすりゃ痛みも恐怖も感じずに楽に逝けるぞ」
少年は悲鳴こそあげなかったが、身体は情けないほどに硬直していた。人面の獣はかあっと口を開け、少年を飲み込まんと迫る。少年はようやく悲鳴をあげ、倒れるように牙を避けた。足をもつれさせながら立ち上がり、出入り口の扉に飛びつく。しかし扉は開かない。鍵でも掛かっているのだろうか、それとも、この化物が魔法で獲物を閉じ込めているのだろうか。少年は焦る。どうか開いてくれと、渾身の力を込めて扉を押す。老婆の顔が迫る。耳まで裂けた口から黄ばんだ牙が覗く。化物は嘲るような笑い声をあげ、そして口を開いた。
「馬鹿だねえ。この扉は引くんだよ」
老婆の姿に戻った化物は、少年をどかして難無く扉を開く。それを好機に少年は外へ飛び出すが、七、八メートルほど走ったところで足を止めた。化物が追ってくる気配はなかった。少年が振り返ると、開けっ放しの出入り口の前に老婆の姿が見えた。
「滑稽だねえ。死にたがりのくせに、いざ殺されそうになるとこれだ」
「おばあちゃ……」
「おばあちゃんはやめろと言ったろう。クソガキ」
じゃあなんて呼べばいいんだろう。
「化物でも魔女でもクソババアでも、好きなように呼びな」老婆はぶっきらぼうにそう言って、溜息を吐く。「人間ってのはめんどくさい生き物だねえ。誰が頼んだわけでもないのに、勝手に背負い込んで、勝手に追い詰めて。本音と建前がごっちゃになって、自分がなにをしたいのかもわからない。遂には居た堪れなくなって、『死にたい』なんてほざきやがる。そんなことこれっぽっちも思っちゃいないくせに。人間なんて、生きてりゃいずれ死ぬんだ。それは病気でかもしれないし、戦争でかもしれないし、間違って毒キノコを食べて死ぬかもしれない。化物に喰われておしまいってこともあるかもな。死なんてそこらじゅうに溢れてる。それでもアンタが生きてるのはなんでだと思う?」
「それは……」
何故だろう。考えたこともなかった。どうして、ぼくは生きてるんだろう。
「アンタが死ななかったからさ」
飄々と言ってのける老婆を、少年はじろりと睨む。
「またぼくをからかってるんですか?」
「そう思いたいならそう思ってくれて構わないよ。でもこれは本当のことだ。アンタがたまたま死ななかったから、アンタは今生きていられる。『たまたま』だ。ほんの少しの間違いで、例えばあたしがちょっとした気まぐれで『人肉を喰ってみたい』なんて思ったら、アンタは今頃シチューになってたかもしれない。この森の中じゃ、止める人間は居ないだろうしねえ」
そいつはぞっとしない話だ。
「生きるも死ぬも、人間ごときがどうこうできるものじゃないのさ。自殺を図ったって、必ず死ねるわけじゃない。頭が『死にたい』って思ってても、身体が『生きたい』って思ってそれを止めるのかもねえ」
少年は思い出す。昨夜、野菜のスープを飲んだときに、自然に零れた涙のことを。
あれは、ぼくの身体が流した涙だったんだ。悲しみでも、恐怖でも、寂しさでもなく、ぼくの身体の『生きたい』という意志が涙を流させたんだ。
「だから死に損なったって情けなくなんかないよ。運がよかったか悪かったかは本人が決めることだが。……さて、話が長くなっちまったね。久々の話し相手だったんで、ちょいと張り切りすぎちまったよ」
老婆は指笛を吹いた。少年の近くの茂みががさがさと動いて、一匹の白い狼が現れる。
「帰り道はそいつが教えてくれる。無事に帰れるかはアンタの運次第だがね」
「おばあちゃ……魔女さん、あの……」
「あたしゃこれ以上子どもの面倒を見るなんてごめんだよ。アンタにゃ自分の両親が居るんだろ」
「……ありがとうございました。本当に」
老婆は不機嫌そうにふんと鼻を鳴らし、家の中に消えた。
ぼくは無事に帰ることができるだろうか。無事に帰れたとして、両親はぼくを受け入れてくれるだろうか。
老婆が呼んだ白い狼が、人懐っこい声を出して少年の膝に身体を寄せる。彼のたてがみを撫で、少年は目を細める。
「道案内、よろしく頼むよ。無事に村に着いたらおまえの主人にお礼をしなくちゃね」
* * *
森の中を、年老いた女が歩いていた。女は不治の病に侵されており、その苦しみから逃れるために自ら命を捨てるつもりだった。森の中に入る彼女を、村人は誰一人止めなかった。働くこともできず、子どもも産めない女を養うほど、村は裕福ではなかったからだ。
彼女はやがて美しい湖のほとりへ辿り着く。そこには多くの獣が居た。女は苔むした地面に横たわり、捕食者がやって来るのを待った。覚醒と眠りを何日も繰り返したが、死は彼女を迎えに来てはくれなかった。
時の感覚を失い、眠りの時間が大半を占めるようになったある日、彼女の前に一頭の獣が現れた。見たことのない生き物だ。その毛皮は白く、身体はしなやかで、がっしりした手足には鋭い鉤爪を備えている。様々な動物が合わさったような姿の化物には、顔だけが無かった。ひどく空腹なのだと化物は言った。女は何故かと問う。化物は答える。自分には顔が無いから、ものを食べることができないのだと。そして女に言った。おまえが森へ入った理由は知っている。その身体と命、捨てるのならば我によこせ、と。女は微笑み、静かに頷いた。
女が姿を消してひと月ほど経った頃、村では奇妙な噂が立っていた。北の森には近付くな、あの森には病で村を追われた女の怨霊が住んでいる。ある狩人は言う。森の中で、老婆の顔をした白い獣を見た、と。やがてその森は『呪いの森』と呼ばれ、誰も近付くことはなかったという。




