第91話
アルミルの街に巻き起こった偽ミブロ騒ぎ。
調査を進めるうちに、冒険者ギルドは自然とひとつの結論に行き着いた――この騒動の黒幕は、旧ミヤコの総括官、エルネスト・ホークであると。
しかし、そこに「貴族」という言葉が絡むと、空気は一変した。かつてモリフン・マーキアドの事件で、誰もが痛い目に遭ったことを覚えている。
貴族の力は法の上にあり、民間の力では太刀打ちできない。いや、冒険者ギルドですら、彼らの威光にはひれ伏さざるを得ない。
「どうする……」
ギルドの広間に漂う沈黙は重く、どこか息苦しい。
普段なら一声で行動を決める古参も、今回は慎重を重ねすぎて膠着状態に陥っていた。誰もが顔を伏せ、口を開けない。
エルネスト・ホークという名が示す力と、それに対抗するリスクが、彼らの心を縛り付けていた。
ガンジは冒険者達の様子に強制する事はできない、ならどうすればと焦燥に駆られた。しかし、声を張ることすらためらわれる空気がそこにはあった。
「……ここで手を出すのは危険だ。慎重にならざるを得ん」
古参の冒険者の言葉に、冒険者たちは無言で頷いた。熱い正義感はある。街を守りたいという気持ちもある。
だが、相手は貴族――過去の教訓が、無意識のうちに行動を封じ込めていたのだ。
沈黙の中、窓の外の街の喧騒が、遠い鼓動のように響く。誰もが心の奥でわかっていた――このままでは街の平穏も、ギルドの威信も、そして自らの命も危うい。
勢いが削がれた冒険者たちは、次の一手を探すことすらためらっていた。
そんな室内の空気を無視し、橘花は一歩前に出た。懐から取り出したのは、自らの冒険者カードだった。
「……ミブロの件に関しては、私個人の問題だ。アルミルのギルドを巻き込むのは筋違いだろう」
静かに、それでいて揺るぎない声音。
卓の上に差し出されたカードを見て、ガンジの目が大きく見開かれる。
「おい、橘花……それは――」
「もし貴族側が何か言ってきたら、“自分たちは関係ない”と言い張ってくれ。冒険者登録も抹消してあれば、奴らもそこまで強引には絡めないだろう」
ガンジは顔を歪め、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「ふざけるな! お前はこの街を救った恩人だぞ! そのお前が孤立するのを黙って見ていろってのか!」
目の前に置かれたカードを掴み、橘花に突き返す。怒鳴り声の奥に、必死な思いが滲んでいた。
ガンジは本気で橘花を仲間だと思っている。味方になりたいのだ。
だが橘花は苦笑し、静かに首を振った。
「ガンジさん。ありがたいけど、これは私が背負うべきだ。大丈夫だよ。無事ならまた会える」
カードを掴むガンジの大きな手を、橘花はゆっくり押し戻して踵を返す。その背中は、誰も引き留められないほどに決意を帯びており、振り返らずに告げる橘花の声は、不思議なほど穏やかだった。
ギルド会議室の扉が静かに閉まる。
残されたガンジは、机に力なく拳を置き、深く息を吐く。冒険者達も何も言わずとも同じ気持ちだった。
「……馬鹿野郎」
唇の奥で絞り出すように呟いて。
――絶対に帰ってこいよ。
その低い声は、誰にも聞かれることなく、厚い扉の向こうへと溶けていった。
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橘花会議室を後にすると、ロビーで待っていたウェンツたち四人を集めて静かに口を開いた。
簡易ゲートを追い始めて、まだ日は浅い。なのに――自分の個人的な事情でここを離れる。黙って去るのは筋が違うと考えたのだ。
「ゲートを見つけて先に帰れるのなら、私のことは気にせずに帰ること」
淡々とした声に、四人の視線が一斉に集まる。心配の色は隠せない。
「もし帰れたら向こうのミブロのギルドに伝えて欲しい。こっちで生きてるって。それで関係者に、私のことはほぼ伝わるはずだ」
言葉を選びながら告げる橘花に、ロイヤードが躊躇いがちに口を開いた。
「でも……橘花さんを置いてなんて……」
橘花は苦笑し、ゆるやかに首を振った。
「向こうで君たちは学生だろ? なら、親御さんが心配しているはずだ。私のことより、自分自身のことを先に考えるべきだよ」
その声音はやわらかく、それでいて譲れぬ強さがあった。年長者としての説得。
四人は目を伏せ、それぞれの胸に葛藤を抱えた。納得しきれない。だが、返す言葉もない。
しばしの沈黙ののち、ウェンツが小さく息を吐き、短く頷いた。
「……わかりました」
それでいい、と橘花は心の中で繰り返す。
本来なら、ゲームを通じても出会うことはなかったはずの縁。だからこそ――帰れるのなら、この子たちが先であるべきなのだ。




