第90話
時間は少し戻り。
市場に響いた喝采の余韻が、まだ耳に残っていた。
橘花は、心の奥底で妙な違和感を覚えていた。
──敵の気配が、まだ消えていない。
視界の隅に浮かぶ簡易マップ。その中で街角ごとに赤いマーカーが点滅していた。噂を流す者たち、言葉を投げかけて市民を揺さぶろうとする影。
そしてその群れから離れた場所に、ひとつだけ、孤立した赤い光がある。
(……あれか)
橘花はすぐに悟った。群衆を操る駒ではなく、駒を動かす「指揮者」。噂の元を繋ぐ本丸がそこにいる。
「ウェンツ、ロイヤード、エレン、ソータ!」
背後に控えていた仲間へ短く声をかける。
「君たちは、このままペーターを連れて一度ギルドに戻れ。……それと」
簡易マップをちらりと見ながら、橘花は口を引き結んだ。
「街に散ってる赤の点、あれを止めてくれ。おそらく街中で何かしている奴らだ」
ウェンツはすぐに反応した。
「橘花さんは休んでてください。僕たちが捕まえてきます!」
だが橘花は首を横に振る。
「いや。孤立してる方は私が行く。こんな騒ぎを起こすんだ、狙いはミブロだろう。なら、私に用がある奴だ」
「でも……」と食い下がりかけるウェンツに、橘花は穏やかながらも鋭い眼差しを向けた。
「これは組織的なヤツかもしれない。イベントでもよくあるんだ。敵を追い詰めるとき、必ず“外側”で煙を焚いて、こっちの手を削ぐ手法がね」
言われて、ウェンツたちもペーターも息を呑んだ。
橘花が口にする「イベント」の語は、ペーターには馴染みのないものだ。だが戦場を知る者の確信めいた響きに、否応なく重みがあった。
「だから、君たちは街で動きがあったら鎮静化させてほしい。それが一番助かる」
そう告げると、橘花は迷いなく歩き出した。
雑踏から抜けると、夜風が肌を撫でた。
市場から時計塔まで、ざっと五百メートル。
人混みを離れるほどに、浮かぶ赤いマーカーは鮮明になっていく。
(……高みの見物ってわけか。街の混乱を、上から眺めて指示を飛ばす。典型的だな)
かつてのゲーム上の戦場でも、幾度も見てきた光景だ。前線で駒を潰せば、後ろからまた湧いてくる。だが、後ろを断てば一気に崩れる。
塔の影に入った瞬間、橘花は気配を消した。
スキル『忍び足』を発動。軽く足を踏み込めば、石畳に音は響かない。
鬼人族の体躯と、かつての訓練が染みついた動きが一体となって、巨大な狼のように静かで俊敏な影を作り上げていた。
塔の中段。小窓から街を見下ろす男の姿を視認した。
黒衣をまとい、手には札を握りしめている。仲間へ合図を送るためのものだろう。
(……やっぱりな)
橘花はすっと息を吸い込み、次の瞬間には距離を詰めていた。
「な──っ!?」
男が振り返るより早く、橘花の腕が襟首を掴み上げる。
ぐいと持ち上げれば、男の足が床を離れ、息が詰まった。
突然、標的が目の前に来たことで焦ったのか、持っていた札を落とす。
落ちた札を見ると見慣れた呪詛が描かれている。
(札を使っているということは、呪術師だろうか?)
考え込みそうだった思考を、掴んでいる男に戻す。
「市場を見て、笑ってたろ?」
低い声が男の耳に落ちる。
「……ミブロに用があるんだよな、お前ら」
男は必死に札を取り出そうとしたが、その手は一瞬でねじり取られた。札が床に落ち、ぱちりと火花を散らす。
「残念。ここまでだ」
橘花は容赦なく猿轡を噛ませて縄をかけ、男を肩に担ぎ上げる。
その頃、街中ではウェンツたちが必死に動いていた。
噂を広める吟遊詩人や流れ者たちを次々と捕縛していく。
住民たちも協力し、見かけた途端に突き出すほどだった。
(すごい、本当に街中に散ってまだ敵がいる)
ペーターはウェンツたちについて走りながら胸の内で思った。
橘花がひとりで核心を叩き、彼らが外側を鎮める。
役割分担は完璧だった。
⸻
酒場で、街角で、市場での騒ぎを境に不可解な噂が広がり始めた。
「ミブロは人間が抑え込んでいたからこそ暴走しなかった」
「街で暴れている鬼人族の橘花こそが、ミブロの本性だ」
「ミブロは特攻はしただろうが、鉄の侵略者を打ち倒したのは人間族の魔法使いたちだ」
くだらぬ中傷だ。だが、その広がり方があまりに早すぎた。
冒険者ギルドに寄せられる報告も、ほとんど同じ文言で繰り返される。まるで台本でもあるかのように。
「……これは偶然じゃねぇな」
尋問から帰ってきたギルド長ガンジは机を拳で軽く叩き、眉間に皺を寄せた。
本来なら、こうした風聞は尻尾を掴むのに骨が折れる。だが、アルミルの住人たちは橘花をよく知っていた。
疫病のとき真っ先に駆けつけ、命を救った「橘花先生」。
子供らの前では笑い、料理を振る舞う「鬼人族の橘花さん」。
誰よりも街のために働き、誰よりも身近にいたその姿が、流言を根こそぎ拒絶した。
住人たちは噂を耳にすればすぐに「そんなわけがあるか」と声を上げ、いつの間にかウェンツたちが素早く動いて噂を吹聴していた吟遊詩人や酒場や路地裏でひっそり行動していた男達をあっさり捕らえてしまったのだ。
ギルドの地下室に連れてこられた男たちは震えていた。金を握らされ、言われたとおりに話を広めただけのただの駒。
「誰に頼まれた?」
ガンジの低い声に、男達はそれぞれ土下座せんばかりに額を床に擦りつけて白状した。
背後にいるのは、旧ミヤコを治める貴族家。
噂が組織的に流された以上、必ず大きな力が動いている。
「……ミブロの名を利用し、貶めようとしている」
ギルド幹部たちの間に重苦しい沈黙が落ちた。
今の旧ミヤコは、人間族至上主義に色濃く染まっている。街並みこそ華やかだが、歩く人影は人間ばかり。異種族の姿があれば、すぐさま排斥の目が注がれるという。
緊急で情報収集をした割に、商人たちからは旧ミヤコの情報が面白いように集まった。
集まった情報は、ひとつの結論に収束する。
──「世界を救ったのは人間族だ」と歴史を書き換えるつもりだ。
馬鹿げた話だ。だが、馬鹿貴族どもが本気でそれを企んでいることは、情報の断片から嫌というほど伝わってきた。
「橘花には……聞かせられんな」
誰かが呟いた。
あの男が聞けばどう思うだろう。仲間たちが自ら犠牲にして救った世界を、いま、救われたはずの人間族が否定していると知ったら。
ガンジは唇を噛んだ。
だが、その迷いを打ち破るように、突如として扉が乱暴に開いた。
「ガンジさん、こいつ捕まえたんだけど、どうしよう?」
のっそりと現れたのは橘花だった。
肩に担いでいるのは縄で縛り上げられた男。顔を見れば、ギルドの者が息を呑む。
──ホーク家の諜報員だ。
「ど、どうやって捕まえたんだ……?」
場にいた誰もが凍りついたまま、ガンジだけが絞り出すように問いかけた。
「え? 市場の騒ぎを遠くから見ててさ。……あの時計塔から“なんか見てる奴いるな”って思ったから」
橘花はあっけらかんとした顔で笑った。
あの喝采を浴びた騒ぎの後、市場から姿が消えたと思ったらそんなことをしていたとは。
市場から時計塔までの距離は、優に五百メートル。普通の人間なら視認すら不可能な遠さだ。
ギルドの面々は揃って心の中で呟いた。
(……ミブロって、規格外なんじゃね?)
一瞬前まで重苦しかった空気が、妙な脱力感とともに吹き飛んでいった。
だが、捕らえられた諜報員の存在は、この一連の噂が単なる与太話ではなく、確かな組織的謀略であることを突きつけている。
「……上等だ。根を断つまでやるしかねぇ」
ガンジの声が低く響いた。
旧ミヤコとホーク家。その背後にある人間族至上主義の牙が、いよいよあらわになろうとしていた。




