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Pandora Ark Online.  作者: ミッキー・ハウス
浅葱の影、街に揺らぐ編
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第88話

橘花の鋭い視線が、ゴロツキ共の羽織りを一瞥する。

布地も縫製も粗悪で、ただ真似ただけの安っぽい代物――一目で偽物とわかる。


だが――リーダー格の男の羽織りだけは違った。

襟元に刻まれた、数字の刺繍。


シリアルナンバー入り。


それは、かつてマノタカが「特別感出したい!」と無邪気に笑い、わざわざ付与したもの。

結成当初のわずか十一人――“最初のミブロ”だけが持つ、唯一無二の証。


橘花の目が、細められる。

怒気が熱を帯び、空気を重くした。


「……それを、どこで手に入れた?」


地を這うような、低い声。

言葉に込められた威圧は、殺気よりも鋭く、重かった。


リーダー格の男は一瞬、何を問われたのか理解できなかった。

だが、橘花の視線が自分の羽織りに釘付けになっていると気づいた瞬間、全身から血の気が引く。


「ひっ……」


喉が鳴った。笑ってごまかそうにも、口が動かない。

ただ、真っ青になり、足を震わせるだけだった。

リーダー格の男は、膝を地につけ、土埃にまみれながらも、必死に視線をそらそうとする。

しかし、橘花はそのすぐ前に立ち、静かに、だが確実に存在感を押し付ける。


「……羽織を脱げ」


声は低く、落ち着いている。

だが、その沈黙を破る響きは、男の心臓を鋭く締め上げるようだ。

「……は?」

言葉にならない驚きが、男の顔に浮かぶ。


「聞き間違えるな。今すぐに脱げ」

橘花は一歩前に出る。距離はわずか数歩。

その眼差しは冷たく、凍りつくような威圧を帯びている。


「その羽織は……お前のものではない。仲間の誇りを、こんな人物が羽織ることなど、私は耐えられない」


リーダー格の男は口を開け、声を出そうとするが、緑の瞳に見据えられるだけで言葉は詰まる。

背後の仲間たちも思わず息を飲む。

浅葱色の羽織は、五年前に散ったミブロの尊厳そのものだ。

それをこの男が軽々しく身に纏っているのは、橘花にとって許せるものではなかった。


男の手が震え、浅葱色の布に触れる。

「……わ、わかった……」

その声は小さく、震え、無力感と恐怖に満ちていた。


橘花は頷き、じっと見つめたまま男を見下ろす。


「仲間の誇りを汚すことは、許さない」


男は言われるままに羽織を脱ぎ、地面に落とす。

その瞬間、周囲の空気はさらに静まり返り、街の冒険者たちも、この静かで確実な威圧の重さに戦慄した。


浅葱色の羽織りが、無様に地面へと落ちた。

砂埃にまみれ、粗末に扱われたそれを、橘花は静かにかがんで拾い上げる。

まるで、大切な壊れ物を扱うように、丁寧に両手で持ち上げた。


指先で布の端を撫でながら、ほんのわずかに目を伏せる。

その仕草に、周囲の空気はさらに重く、静まり返った。

橘花にとってそれは、ただの羽織りではない。

仲間が命を懸けてこの世界を守り、散っていった証そのもの。


「……仲間の誇りを、こんな扱いに晒すとは」


静かな声は、刀より鋭く、刃よりも深く突き刺さる。


リーダー格の男は顔を歪め、恐怖と絶望で言葉を失った。

先ほどまでの下卑た笑いは消え失せ、残ったのは命を奪われる寸前の怯えだけだ。


冒険者たちも、市井の人々も、その光景をただ黙って見つめていた。

倒れた仲間に手を伸ばしながら、誰もが心の奥で思う。

──本物が帰ってきたのだ、と。


やがて、羽織りを胸に抱えた橘花は、鋭い眼差しを再びリーダー格の男へ向けた。


「貴様ごときが、二度とミブロの名を口にするな」


その一言に、街の冒険者たちは胸を震わせ、息をつめる。

怒りに震えながらも、同時に安堵があった。

自分たちが信じてきた「ミブロ」は、やはりここに生きている。


静けさの中で、橘花の背に翻る浅葱色の羽織りは、まるで仲間の魂が蘇ったかのように凛と輝いていた。


浅葱色の羽織りを胸に抱き、橘花が静かに立ち上がる。

その姿は、五年前の激戦を知る者たちにとっては忘れられない光景だった。


「……ミブロが、帰ってきた……」


誰かの小さな呟きが、群衆の胸に火を灯す。

涙が滲む者、拳を固める者、声を震わせる者。

冒険者も市井の人々も、皆が同じ想いを胸にした。

──やはり、彼らの誇りは死んでなどいなかったのだ、と。


その一方で、ゴロツキ共は完全に色を失っていた。

仲間がひとりまたひとりと膝を折り、武器を取り落とす。

リーダー格ですら身を震わせ、逃げ腰になりながら後ずさった。


「な、なんでだよ……! なんで生きてんだよ……!」


自分たちの虚栄の根底を打ち砕く光景に、彼らは戦意を喪失していく。


だが、橘花は彼らを追い詰めることに興味を示さなかった。

胸に抱いた羽織りをそっと肩へかけると、倒れている冒険者たちの元へと歩み寄る。


「よく……耐えてくれたな」


一人ひとりに声をかけながら、薬を取り出しては傷へ注ぐ。

焼けるような痛みに呻きながらも、彼らの表情には悔しさではなく、安堵が浮かんでいた。


「本物が……本物が帰ってきたんだな……」


涙で濡れた顔に、橘花は短く「そうだ」とだけ返す。

それ以上の言葉は必要なかった。


浅葱色の羽織りが、街の空気を変えていた。

人々は拳を握り直し、胸を張り、今度は恐れではなく誇りで声を上げる。

「ミブロだ! 本物のミブロが帰ってきた!」


その歓声は、冒険者たちの胸にも力を蘇らせる。

地に伏していた者が涙を拭い、仲間と肩を組んで立ち上がる。

誰もが思った。

──これ以上、この名を穢させはしない、と。



地に這うリーダー格の男へ不意に視線を向けると、橘花はひとつ息を吐いた。

その目は怒りに燃えているはずなのに、どこか光を失っていた。


「……私がやれば、ただの私刑になる」


吐き出された声は低く、掠れている。

だがその重さに、周囲の者たちは息を呑んだ。


「ミブロが私刑をするなど……治安維持を掲げるギルドとして、名折れもいいところだ」


拳を握りしめたまま、しかし振り上げることはしない。

浅葱の羽織りを胸に抱き、橘花は苦々しく瞼を閉じた。


「……罪は罪だ。だが裁くのは私じゃない。街の掟に従い、(あがな)ってもらう」


淡々とした声の奥に、深い痛みと悔しさが滲んでいた。

それは怒りの炎ではなく、己を律する鋭い刃。

だからこそ、橘花の背中は何よりも重く、大きく見えた。


衛兵に突き出すよう冒険者たちへ目配せし、橘花はそれ以上一言も発しなかった。

背を向ける彼の姿は、勝者のそれではなく──仲間の誇りを守るために、自らを縛り続ける者のものだった。



街に来た時から橘花は、驚くほど「普通」だった。

背の高さや容姿こそ目を引くが、日々の暮らしぶりは市井の人と変わらない。むしろそれ以上に人当たりが柔らかく、目立つことを避けるように立ち回っていた。

街に来てから「ミブロ」を名乗ったことなど一度もない。


蜜病騒ぎの折に、ひょんなことから彼が「ミブロの者」だと漏れ聞こえた時も、誰もが半信半疑だった。

──あの伝説の、五年前に散ったミブロたちとは違う。

──ただの冒険者だろう、と。


だが、今はもう誰一人として疑う者はいない。

圧倒的な力を示し、仲間の誇りを踏みにじる偽者を叩き伏せ──それでも私刑には走らず、己の矜持を守り抜いた姿。


「あれが……本物の、ミブロだ……」


呟きは波紋のように広がり、誰もがその浅葱色の背に目を奪われた。

静かにその場を去っていく橘花の後ろ姿は、勝者の誇示でも英雄の凱旋でもない。

ただ、己の仲間と誇りを背負い続ける者の、揺るぎない背中だった。

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