第87話
その時だった。
市場の入口に、人影が現れた。
風を切って駆け込んでくる大柄な鬼人族。その背に翻るのは銀色の髪、抱えられた少年と、その後ろに続く四人の若い冒険者。
「……っ、あれは……!」
冒険者たちが希望に目を細めた瞬間、市場の空気が変わった。
橘花は足を止めぬまま、冒険者たちと相対すして群がる偽ミブロの中へと真っ直ぐに踏み込んだ。
周囲が押し黙る。怒号も、悲鳴も、一瞬にして掻き消えた。
冒険者たちを背にし、力をぶつけ合っていた騒動の中央へと歩み出た鬼人族に、浅葱色の羽織を着た一人が苛立たしげに怒鳴る。
「おい、どこの間抜けだ! 命が惜しけりゃ――」
次の瞬間、声が途切れた。
橘花の緑の瞳が、その男を射抜いたのだ。
笑みも怒気もない。ただ真っ直ぐに見据えるだけで、偽ミブロたちの背筋に冷水が流れ落ちる。
「――誰に許しを得て、その羽織を纏ってる」
静かに、だが市場全体に響き渡る声。
空気が一変した。先ほどまで無頼を気取っていた連中が、思わず後ずさる。
抱かれていたペーターが、師匠の胸の中で固唾を呑んだ。
それは怒鳴り声でも威圧でもない。ただ“本物”だけが持つ存在の重みだった。
偽ミブロの一人が恐怖を振り払うように剣を抜く。
「な、なんだテメェ! 俺たちは――」
だが、刃が振り上げられるより早く、橘花の足が一歩前へと踏み込んでいた。
地を揺らす一撃。
拳ではなく、ただ踏み鳴らした足音だけで、石畳にひびが走り、空気が爆ぜる。
その場にいた全員が悟った。
――本物の“ミブロ”が帰ってきた、と。
市場の中央。
橘花の一歩が大地を揺らした瞬間、近い位置にいた偽ミブロの連中はまるで糸が切れた操り人形のように尻餅をついて後退した。
「ひ、ひぃっ……な、なんだこいつ……!」
「眼を合わせるな! やべぇぞ!」
浅葱の羽織を纏い、先ほどまで胸を張っていた男たちは、今や威勢の欠片もなく声を震わせる。
後方で剣を握る者の手は汗で滑り、盾を持つ腕は小鹿のように震えていた。
橘花は彼らを追い詰めるでもなく、ただ歩みを止めない。
静かに、確信をもって言葉を投げつける。
「――その羽織は、仲間の血と誇りで織られたものだ。ゴロツキが肩に掛けて、好き勝手するための飾りではない」
その声音は低く抑えられていたが、周囲の人々には雷鳴のように響いた。
傭兵崩れの誰かが喉を鳴らし、無理やり虚勢を張る。
「し、知らねぇ! 俺たちは依頼を受けて――」
「依頼?」
橘花の目が、冷ややかに細められた。
「誰が頼んだ? 誰が羽織を渡した?」
問いただされるだけで、連中の心は削られていく。
ひとりが耐え切れずに武器を取り落とし、石畳に乾いた音を立てた。
――その時、現場へ駆け付ける影があった。
ギルド長・ガンジ。
長年の戦場をくぐり抜けた厳めしい顔が、事態を一瞥した瞬間にすべてを理解する。
「……やっぱり帰ってきやがったな」
胸の奥で呟きながら、周囲に控えていた冒険者たちへと命じる。
「手を出すな。あれはもう、俺たちが口を挟む領分じゃねぇ」
「で、ですがガンジさん!」
「街で暴れてる連中ですよ!?」
「見ろ」
ガンジの視線の先、偽ミブロたちは既に瓦解し始めていた。
橘花のただ一人の存在感が、十数人の荒くれどもを押し潰している。
「ありゃあ、“ミブロ”の裁きだ。俺たちが出る幕はねぇ」
冒険者たちは息を呑み、反論を飲み込んだ。
誰もが肌で理解していたのだ。いま目の前に立っているのが、五年前に街を救った“本物”だと。
橘花はなおも偽ミブロに歩み寄り、声を投げる。
「――答えろ。羽織を渡したのは誰だ」
市場を包むのは恐怖でも怒号でもなく、ただひとつ。
本物だけが持つ、揺るぎなき威圧の空気だった。
⸻
静かに問いかけた橘花の問いに圧倒される。
瓦解しかけた隊列の奥で、ひときわ大柄な男が歯噛みした。リーダー格の男だ。
浅葱色の羽織を乱暴に着崩し、肩には無骨な抜き身の剣。
血走った目で橘花を睨み据える。
「……ビビってんじゃねぇッ! たかが一人の鬼人に腰抜かすなァッ!」
怒声と共に地を蹴り、剣を振り上げる。
威嚇に過ぎないはずの一撃、だが群れを奮い立たせる最後の号令でもあった。
橘花は静かにため息を吐き、腕に抱えていたペーターをそっと下ろす。
「ペーター。ここからは――見て学べ」
少年の肩を軽く叩いて離れるように促すと同時に、剣の風圧が襲いかかってきた。
――ガギィィンッ!
金属が衝突する音が市場に響く。
橘花は腰の刀を抜きもせず、鞘のまま柄で剣を受け止めていた。
圧倒的な膂力の差に、リーダー格の腕が悲鳴を上げる。
「なっ……が、がっ……!?」
歯を食いしばり押し込もうとするが、橘花は一歩も退かない。
むしろ片腕で受け止めながら、空いた手で男の胸倉を掴んだ。
「羽織を汚すなら――その命で償え」
次の瞬間、橘花の腕がしなった。
――ズドォンッ!
投げ飛ばされた大男の身体は、石畳を砕きながら数メートル先で転がる。
「ひっ……ひぃっ!」
「リーダーが……一撃で……!?」
傭兵崩れどもの動揺は頂点に達した。
誰もが逃げ腰になり、武器を取り落とす。
だがリーダー格の男は立ち上がった。
浅葱色の羽織を泥で汚し、血を吐きながらも、まだ牙を剥く。
「……なめるなぁぁッ!」
剣を両腕で握り直し、渾身の力で突進する。
橘花はその軌道を見切り、静かに刀を抜いた。
一閃。
光が走ったかと思うと、リーダーの剣が上下真っ二つに割れ、男の握っていた柄の部分は衝撃で、手を離れて地面に転がる。
そして橘花の刀の切っ先は首元にぴたりと突き付けられていた。
「……これ以上、足掻くか?」
張り詰めた声が、市場全体を縫い付ける。
リーダー格の男の顔から血の気が引き、尻餅をついた。
沈黙の後、観衆が一斉に息を呑む。
誰もが悟ったのだ。
――偽りと本物の差を。
だが、諦めの悪い者はいつでもいる。
橘花の刀の届く範囲から転がるようにはなれたリーダー格の男は、血に濡れた口元を歪めながら懐に手を突っ込んだ。
その掌に握られていたのは――黒く濁った宝石。
リーダー格の男が懐から取り出した魔石が、不気味な光を放った。
裂けるような音と共に、漆黒の霧が渦を巻く。その中から姿を現したのは、地獄の番人を思わせる異形の魔人だった。上位、それも並の冒険者が相手にすることなど到底許されぬ、禍々しき存在。
見守る群衆は一瞬にして声を失い、誰もがその圧に膝を折りそうになった。
「は、はは……! どうだ、これが魔人召喚の魔石だ! テメェみてぇな厄介者を潰すために用意されてたんだよ!」
リーダー格が叫ぶ。しかしその声すら震えているのを、周囲は聞き逃さなかった。
橘花はただ静かに、その光景を見据えていた。
脳裏を掠めるのは、あの日――隠れ里にも召喚された魔人の影。嫌な記憶と血の匂い。それでも、今ここで退く理由など一つもない。
「……《装備チェンジ》」
低く呟いた瞬間、橘花の姿が光に包まれた。
次の瞬間には、浅葱色の羽織がその大きな背に翻っていた。風を孕んで舞う羽織は、まるで戦場に立つ将の旗のよう。
その瞬間、場の空気が変わった。恐怖に支配されていた群衆が、息を呑む。
「な、に……!?」
リーダー格が目を見開く間もなく、魔人が咆哮と共に動いた。大地を踏み割る一撃が振り下ろされる――
だが、それより早く。
銀光が走った。
刀を抜き放つ音は、誰にも聞こえなかった。ただ一閃。空気すら裂く速さで振り抜かれた刃は、魔人の巨躯を真横に断ち割った。
次の瞬間、轟音も断末魔もなく、その存在は崩れるように霧散して消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
市場は静寂に沈む。
ただ一人、浅葱の羽織を纏った橘花が立っていた。
「て、テメェ……何者だ……!?」
リーダー格が震える声で問う。
橘花はゆっくりとその視線を向ける。
氷のように冷たい眼差しで。
「ミブロを名乗りながら、私を知らないと?」
低い声は、市場の隅々にまで響いた。
地に伏したゴロツキどもは恐怖に呻き、周囲の冒険者は息を飲んだ。
そして、浅葱の羽織を翻し、街に来て橘花は初めて、その名を告げる。
「私は――《ミブロ》一番隊隊長、橘花だ!」
その声は、堂々と雄々しく。
市場を覆う空気を一瞬で塗り替えた。
五年前の戦火を知る者の心を震わせ、偽りを塗り潰す真実の名乗りだった。




