第86話
一方、その頃。
陽が落ち始めた街を目前にして、橘花の腕に抱かれたまま、ペーターがようやく目を覚ました。
「……う、ん……」
小さな手が目を擦り、ぼんやりとした視線で状況を見渡す。だが、次の瞬間、自分が全速力で駆ける師匠の腕に抱きかかえられたまま眠っていたと気づき――羞恥と混乱で一気に顔を真っ赤にする。
「ひ、ひぃっ!? し、師匠!? ぼ、僕、寝て……! え!? 抱っこ!? こ、これ……っ!」
もがくように手足をばたつかせるが、橘花の抱きかかえる力とバランスは揺るがない。
「おー、起きたか。安心しろ、落とさないから」
橘花は軽口を叩きながらも速度を落とさない。その足取りは獣のように正確で、揺れ一つない。
後ろを走るウェンツたち四人は、その光景に苦笑を漏らす。
「……子供だな」
「でも、あの年でここまで走ったんだろ? すげぇよ」
からかうことなく、むしろ称賛を込めて見守っていた。
「ペーター、起き掛けで悪いが……ミブロを名乗ってた奴ら、どんな連中だった?」
「えっ、えと……よ、傭兵崩れっぽい……汚い鎧で、乱暴で……!」
「傭兵崩れ、な」
疾走の最中でも、橘花の声は落ち着いている。ペーターは舌を噛むことなく答えられ、その安定感に逆に驚いた。
街門が見えてきた。橘花は減速することなく、通り過ぎざまに衛兵へと声を飛ばす。
「悪い! 後で顔出す! 今は急ぎだ!」
衛兵たちは反応する暇もなく、疾風のように走り去る背を見送るしかなかった。
「……師匠、そ、それで……あいつら、ギルドを“せっしゅう”するとか言ってた……」
「ほぅ、接収ねぇ。ならガンジさん、烈火の如くだな」
橘花は低く呟き、目を細める。
ペーターの報告から、すでにギルドと偽ミブロが衝突している可能性は高い。
辺境の冒険者ギルドを侮る者は馬鹿だ。普段から強靭な魔獣を相手に鍛えられている者たちが、傭兵崩れに劣るはずもない。だが――問題は彼らが“ミブロ”を名乗り、浅葱色の羽織を持っていることだった。
もし羽織が本物なら? 誰が渡した? 背後に黒幕がいるのではないか?
考えれば考えるほど、橘花の胸にざらついた違和感が広がっていく。
「……裏に糸を引く奴がいるな。ゴロツキだけの芝居じゃねぇ」
抱きしめられたままのペーターは、師匠の声に息を呑む。街に迫る気配は、ただのならず者との小競り合いでは済まされないかもしれない。
胸の奥に、不安と決意が同時に芽生えていた。
⸻
夕刻に差し掛かる頃の市場。
野菜を抱えた老婆の悲鳴が、喧騒を切り裂いた。
「だから言ってんだろうが! 治安維持のための“通行税”だ!」
「出せねぇなら商品ごと没収だ!」
浅葱色の羽織を肩から下げた粗暴な男たちが、露店を蹴散らしながら金を巻き上げていた。
周囲の人々は恐怖と怒りに震えながらも、誰一人声を上げられない。羽織の色が示す名は、この街ではまだ“英雄”の記憶と結びついていたからだ。
――ただし、ガンジたちギルドを除いては。
路地裏に潜む若手冒険者が、肩に浮かぶ小型の撮影装置を操作する。
「リーダー、記録は回してます」
「よし……証拠は揃った。あとは――」
パーティーリーダーが記録をギルドに持ち帰ろうと動いたの当時に、老婆が取られたものを取り返そうと、男たちの裾を掴む。
その力はか弱く振り払えば済むだろうに、口元に嫌な笑みを浮かべると武器を振り上げた傭兵崩れ。
見ていた若い冒険者が思わず走り出てしまった。
凶刃が迫る老婆の前に出た若い冒険者は、震えながら「やめろ!」と精一杯の虚勢は張るが、それなりに戦場を渡り歩いてきたであろう男たちからすれば、子ウサギにも等しい抵抗だ。
治安維持をしているところに抵抗する対象が出てきたとなれば、奴らの思う壺だったのは火を見るより明らかだった。
若い冒険者は遊ばれるように斬り合いをし、最後にカァン!と手の武器を弾き上げられる。
敵側にいる魔法使い職の者が、若い冒険者に向けてファイヤーボールを放つ。
寸でのところで避けたが、練度が高かった魔法はその腕を軽く焼いた。
「うわぁぁぁあああ!」
痛みにのたうち回るその姿を指さして笑う男たち。
「ーーいい加減にしろッ!」
怒号が市場に響いた。
群衆を割るように進み出たのは、腕に覚えのある冒険者たちだった。
剣を腰に下げた若者、槍を肩に担ぐ中年、古傷を持つ女戦士。
皆が顔を紅潮させ、怒気を隠そうともしない。
痛みにうめく若い冒険者は、助けにかけよる仲間に「ご、ごめん。つい出ちまった」と負傷した腕を庇いながら起き上がる。
「馬鹿言え。よくやったよ、お前」
作戦は台無しだが、それでも弱いものを助けるために動いた若者に誰も罵声を浴びせなかった。
逆に全員が負傷した者を守るように円陣を組んで出てきたのだ。
「お前たちの方が治安を乱しているじゃないか!」
「守ると言っておきながら壊してばかり……恥を知れ!」
その言葉に呼応するように、市井の者たちも声を上げた。
怒りに震える農夫が、石を握りしめた拳を震わせる。
小間物屋の若い娘が、涙交じりに叫ぶ。
「五年前を忘れたのか! ミブロは命を懸けて、この街を守ってくれた!」
「俺たちが生き延びられたのは、あの人たちがいたからだ!」
彼らの声は次第に重なり、群衆の中で大きなうねりとなる。
傭兵崩れどもは、ほんのわずかにたじろいだ。
「そ、そうだ……あの時、俺たちを戦に連れていこうなんてしなかった! 守るべきものを守れって、この街に残してくれたんだ!」
誰かが叫び、別の誰かが涙を浮かべながら頷く。
「誇り高いミブロの名を……汚すなッ!」
その瞬間、怒声は市場に響き渡り、圧となってゴロツキ集団に襲いかかった。
あまりの剣幕に、リーダーの口元がひきつる。
下卑た笑いを浮かべていたゴロツキたちも、思わず武器を構え直した。
「……ちっ」
「なんだよこいつら、やけに気迫が……」
虚勢で押さえ込もうとしていた支配の空気が、揺らぎ始めていた。
人々の胸の奥に眠っていた「恐れより強い記憶」が、今まさに目を覚ましたのだ。
リーダー格の男が、怒号にかき消されぬよう声を張り上げた。
「……上等だッ! 言わせておけば、調子に乗りやがって! やれぇッ!」
その合図と共に、浅葱色の羽織を肩に掛けた傭兵崩れたちが一斉に飛びかかる。
剣、斧、棍棒。まとまりのない武器の群れが振り下ろされた。
だが――受け止めた冒険者たちの陣形は崩れない。
「前衛、押さえろ!」
「後衛、援護に回れ!」
先頭に立つ剣士が大盾を構え、斧を受け流し、槍を弾き飛ばす。
背後から飛ぶ矢尻が傭兵崩れの腕を掠め、よろめいた隙に別の冒険者が剣を叩き込む。
「ぐっ……がはっ!」
怒号と悲鳴が交錯する中、支援役の神官が唱える声が響いた。
淡い光が負傷した仲間の腕を癒し、別の冒険者には力を与える。
「……前へ進め!」
強化を受けた槍兵が、一歩踏み込みゴロツキを石畳に叩きつけた。
傭兵崩れたちも決して弱者ではない。
荒事に慣れた動きで斬り込んでくるが――冒険者たちに欠けていないものがあった。
「退け! 民を守れ!」
「後ろを気にするな、俺たちが受ける!」
誰もが己の役割を理解し、互いを信じ、連携をとって動く。
それは幾度も命を懸けた戦場で培われた「冒険者の戦い方」だった。
対する相手は、ただの烏合の衆。
自らの腕を信じてはいても、仲間と背を預け合う術を知らない。
その差は瞬く間に戦況を分けた。
「くそっ……なんでだ、数じゃこっちが上だろうが!」
「数じゃ勝てねぇんだよ、戦い方が違ぇんだ!」
矢が空を裂き、魔法の閃光が男たちの足元で爆ぜる。
冒険者たちの怒りはただの激情ではない。
彼らの背には守るべき街があり、命を繋いできた記憶がある。
怒りと虚栄が正面からぶつかり――だが、優勢は明らかに冒険者たちの側に傾き始めていた。




