第82話
揺らめく簡易ゲートを前に、四人の顔色が青ざめていく。
「……これ、本当に、元の世界に繋がってるのか?」
「もし違ったら……戻れないかもしれない」
「でも、試さなきゃ分からない!」
疑う者、言葉を失う者。決断は迫られているのに、足は誰ひとり前に出なかった。
その代わりに、橘花が一歩、静かに進み出た。
伸ばした手が、ゆらゆらと揺れる空間に触れる。
――そこにはないはずなのに、確かにあった。
まるで薄いレースを撫でるような、軽い感触だけが手に残る。
「……えーい、ままよ!」
心の中で自らを鼓舞し、橘花は顔をそのままゲートへ突っ込んだ。
引き寄せられる感覚もない。ただ、暖簾をくぐるように軽やかで。
そして――視界が切り替わる。
そこに広がっていたのは、先ほどの森ではない。
青空には浮遊する島々が浮かび、真っすぐ先には、懐かしい都の正門が聳えていた。
緋く輝く守礼門。胸の奥が熱くなる。
「……ここって――」
その一歩を踏み出しかけた瞬間。
腰に強く回された腕に、ぐいと引き戻された。
「っ……!?」
あっという間にゲートの外へ引き戻される。抵抗する暇もなく、次の瞬間、揺らめいていた簡易ゲートは掻き消すように消失した。
――まるで夢だったかのように。
引き倒されたまま呆然とする橘花は、己の腰に必死でしがみついている存在に気づく。
街に残してきたはずの、ペーターだった。
「師匠……! 行かないで!!」
滂沱の涙を流しながら、少年はさらに強く抱きしめてきた。
その小さな手が訴えているのは、恐怖でも、利害でもない。
――ただ、失いたくないという切実な心そのものだった。
⸻
街を飛び出したペーターは、ただひたすらに橘花の向かった方角を目指していた。
どこへ行くかは聞いていない。だが、行かなければ会えない。会わなければ、街で起きているあの混乱を伝えることもできない。
子供の足で大人に追いつけるかどうか、そんなことは考えなかった。
胸が焼けるように苦しくても、足が石を蹴ってつまずいても、それでも前に出す。
「……師匠……!」
声はすぐに風にかき消された。
森に入るとさらに辛さは増した。木の根が行く手を遮り、急な段差や茂みが呼吸を奪う。
走る、転ぶ、立ち上がる。
泥で膝が汚れても、枝が頬を裂いても、ペーターは止まらなかった。
どれほど走っただろう。耳に微かに、人の声が届いた。
「……あそこだ!」
顔を上げると、木々の隙間に見知った背中が見える。橘花。
安堵で胸が膨らむ。良かった、間に合った。声をかけて駆け寄ろうとした、その時――。
ペーターの足が初めて止まった。
橘花の手が――何もない空中に伸び、そしてその先が消えていた。
「……っ!?」
息が凍りつく。ありえない。見間違いじゃない。橘花の腕が、空間に溶けていた。
さらに衝撃的だったのは次の瞬間だった。橘花はためらうことなく、その不可解な空間に自分の頭を突っ込んだのだ。
「や、やめ……!!」
ペーターの思考は追いつかなかった。もしこのまま、橘花の全身が消えてしまったら――。
地を蹴り駆け出す。息も忘れる。
ただ間に合わなければならない一心で。
橘花の背に飛びつくようにして、必死で腰に腕を回し、引き戻す。
子供の力では到底足りないはずだった。だが、この瞬間、ペーターの体の奥に眠る「鬼人の血」が応えた。
「……うあああああッ!!」
全身を使い、渾身の力で引き倒す。
190センチもの橘花の巨体が、驚きと共に後ろへ倒れ込んだ。
地面に押し付けられた橘花を見下ろしながら、ペーターの顔は真っ青だった。
首が……! 首が消えていたら――。
震える手で橘花の首筋を確かめる。無事、そこにある。
その瞬間、全身から力が抜け、滂沱の涙があふれた。
「……師匠、行かないで!!」
子供の声が森に響く。掠れて、しゃくり上げながら、何度も同じ言葉を繰り返す。
抱きつく腕は、恐怖と必死の願いに震えていた。
それは幼い子供の力以上に、橘花を縛る強い絆となっていた。
⸻
不意を突かれ、地面に押し倒された橘花は、しばし呆然と空を見上げていた。
今、自分は確かに、ゲートの向こうに「帰るべき場所」を見たのだ。
あの空、あの門。ずっと心に焼き付いている懐かしい景色。
手を伸ばせば戻れるはずだった。――なのに。
腰にしがみつく小さな腕の力は、驚くほど強かった。
「師匠……行かないで!」
滂沱の涙を流し、声を張り裂けさせるペーターの姿が目に入る。
橘花は、胸の奥を鋭く抉られたような気持ちになった。
(ああ……私は、置いていこうとしていたのか)
ペーターの顔は涙と泥にぐしゃぐしゃだった。
だが、その涙はただの子供の我儘ではない。
街を揺るがす混乱を伝えるために、命がけで森を駆け抜け、追いつき、そして「消えそうな自分」を全力で引き止めた。
橘花は、ふと気づく。
――あの一瞬、引き千切れるかと思うほどの力で引っ張られた。
あれは子供の力ではない。ペーターの中に眠る鬼人の血が、恐怖と必死さで呼び覚まされたのだろう。
「ペーター……」
言葉をかけようとしたが、喉が詰まった。
抱きつく腕の震え、熱い涙の雫。
それはどんな説得よりも雄弁に、「行かないで」と訴えていた。
橘花は静かに息をついた。
心のどこかで、戻りたいと願っていた。だが、同時に今この世界に残る理由もまた、目の前で泣きじゃくる弟子が教えてくれている。
「……悪かった」
ようやく絞り出せた言葉は、それだけだった。
橘花は腕を回し、しがみつく小さな背を抱き寄せた。
――簡易ゲートは消えた。
戻る道はまた閉ざされた。
だがその代わり、橘花の胸に新たに刻まれたものがあった。
それは、師を求めて走り続け、涙で繋ぎ止めた小さな弟子の想い。




