第80話
ウェンツ達が最初にいた草原を調べ尽くした翌日。
「この辺りだったはずだ」
橘花は、鬱蒼とした森の中で足を止めた。
自分が最初にこの世界で目を覚ました地点――。確かにここだった。
四人もすぐ後ろについてきている。彼らが落ちてきた場所はそう遠くはなかったが、やはり微妙なズレがあるらしい。
「橘花さん、こんな森の中に出たんですね」
ウェンツがぽつりと呟く。
「俺たちは開けた平原だったもんな」ロイヤードが場所の違いに驚いた声で呟く。「向こうで受けたクエストも平原エリアのだったから、疑わなかった」
「ここ……樹海みたいだね。方向感覚、狂う」
エレンは周囲を見回し、眉をひそめた。彼の索敵スキルや感覚をもってしても、この森は均一で捉えどころがない。
「ぼくたちだったら骨になるまで迷子だね、こりゃ」
ソータが冗談めかして口にしたが、笑えない。言葉通りの不気味さが漂っていた。
だが、肝心の“簡易ゲート”は見当たらない。
当然と言えば当然だった。もし最初から存在していたなら、橘花は気づいていたはずだからだ。
「一定確率での出現か……あるいは、突発的に現れる性質かもしれないな」
橘花は森の奥を見やり、唇を噛んだ。
どこを見ても同じ木々。ここが初めての場所であれば、進むだけで迷っただろう。
(……よく私、あの時は迷わなかったな)
思い返せば、あの時はゲームだと思って人の声が聞こえた方角に進み、あとは簡易マップを見ながら歩いていた。周囲の景色など気にも留めていなかったから、真っ直ぐ辿り着けたのだろう。
だが今は違う。地図にスタート地点などない、ただの森だ。頼れるのは己の感覚と仲間の目だけ。
森を渡る風がざわめき、どこか不吉な予兆のように枝葉を揺らす。
森の奥は、昼なお仄暗かった。
鬱蒼とした枝葉が頭上を覆い、差し込む陽光は斑に地面を照らすばかり。木々の根は幾重にも絡み合い、まるで人を寄せつけまいとする結界のようだ。
それでも四人と橘花は歩を止めなかった。苔むした岩から湧き出る清水で喉を潤し、額を冷やし、さらに足を進める。
「……けっこう、きついな……」
息を切らしたウェンツが、腰に手を当てて空を仰ぐ。
「俺たち、中堅くらいのレベルなのにな……。山登りって、意外とスキル関係ないんだな」
ロイヤードも肩で息をし、ソータは膝に手をついて苦笑していた。エレンだけはまだ口を閉ざしていたが、額に薄く汗を浮かべている。
一方で橘花は、微塵も乱れた様子を見せない。呼吸は一定で、歩みも崩れない。
(……まるで、ほんとうに“疲れを知らないアバター”そのもの、か)
そんな風に思わせる余裕を漂わせていた。
やがて一行は山の頂に立つ。
視界を開いた瞬間、全員が言葉を失った。
眼下に広がるのは、盆地のように山に抱かれた大地。その中央に、アルミルの街が小さく点のように見える。煙突から上がる白煙や、街道を行き交う荷馬車の列すら豆粒のようだった。
遠景は霞に溶け、どこまでも続いていく。世界の端を望むことはできず、ただ果てしなさだけが胸を満たした。
「……御伽話の挿絵みたいだ」
ソータがぽつりと呟いた。
「きれいだな。……けど、ゲートは影も形もない」
ロイヤードが苦く笑う。
確かに絶景ではあった。だが、それ以上の収穫はなかった。
ここまで登っても、向こうの世界に繋がる扉の気配はない。
橘花は、手すりもない岩の端に立ち、遠くを見渡す。
(……本当に、この世界は“現実”なのか。私たちのいた場所に戻れる扉なんて、あるのか……)
淡い希望と深い疑念。その両方を抱えたまま、風に吹かれていた。
⸻
「……昼にしよう」
橘花の一言で腰を下ろし、簡素な食事をとる。
午前中のうちに山頂まで登り切り、すでに下山している――この異常さを、彼らはまだ正しく理解していなかった。
本来なら数日を要するはずの行程を、半日足らずで往復してしまったのだ。
だが、ロイヤードたち四人はそれを“登山とはこういうもの”と片付けていた。
登山経験などなく、身近に本気で山を登った者もいない。せいぜいテレビで息を切らしながら登る登山家を見たくらいだ。
だからこそ、自分たちが疲れ切っているのは当然で、橘花がまったく息を乱していないのは「鍛え方が違うから」だと納得してしまっていた。
――それが、致命的な誤解だとも知らずに。
常識を疑う者がいない旅路は、時に現実そのものをねじ曲げてしまう。
昼を終え、アルミルへ戻るための山道を辿っていた時だった。
「……橘花さん、あ、あれ……」
ソータの声が震える。指差した先に、全員の視線が集まった。
そこには――
何もないはずの空間に、ひとつの“歪み”が浮かんでいた。
楕円を描くように空気が揺らぎ、ゆっくりと、しかし確かに回転しながら漂っている。
光を飲み込み、光を吐き出すような不思議な存在感。
――簡易ゲート。
唐突に現れたそれを前に、息を呑む音だけが響いた。
理屈も、兆候も、何ひとつなかった。
ただ、異界への入口が“そこにある”。
「……見つけた、のか」
橘花の低い声が、誰の耳にも深く響いた。




